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都こんぶ ニッポン・ロングセラー考 73年の歴史を誇る菓子昆布独特の甘酸っぱさが郷愁を誘う

紙芝居が広めた、子供のおやつの定番的存在

故・中野正一氏   中野物産株式会社を一代で築き上げた故・中野正一氏。現社長の盛正氏は三代目にあたる。
 
会議風景
昭和40年頃の営業会議風景。中央左が創業社長、中野正一氏
 
木村史郎さん   中野物産・常務取締役の木村史郎さん。後に都こんぶの窮地を救うことになる。

小学校の遠足の日の前日、学校から渡されたおやつの袋。中にはチョコレートやキャラメル、ガムなど、子供の心を夢中にさせるお菓子がたくさん入っていた。
袋の中身は毎回変わっていたけれど、いつも変わらないおやつがひとつだけあった。
ガムのように小さな赤い箱に、力強く描かれた白い筆文字……。
「都こんぶ」は、小学校6年間を通じて遠足の定番おやつだった。もちろん今は違うのだろうが、40歳代以上の世代にとっては、おそらくそうだったと思う。

都こんぶの生みの親は、1912(大正元)年、京都生まれの中野正一氏。小学校を出てすぐ、大阪・堺市の昆布問屋に丁稚奉公していた。
もともと堺は、南蛮貿易で栄えた西日本の海の玄関口。江戸時代には北方からの海産物を大量に運ぶ北前船が頻繁に出入りしていた。同時に、堺は包丁の生産地でもあった。原料と加工道具が揃っていたことから、堺は日本有数の昆布製品生産地になってゆく。

食糧事情が悪く、子供のおやつも豊富ではなかった時代、昆布問屋で働く丁稚たちは、商品にならない昆布の切れ端をしゃぶって空腹を満たしていた。
中野もまたそんな丁稚のひとりだったが、ある日ふと、昆布をしゃぶりながらこんなことを思い付いた。
「このちっ(小)さい昆布を甘く味付けして菓子にしたら、売れるんとちゃうやろか?」。
栴檀(せんだん)は双葉より芳し。都こんぶの原型は、この時、中野の頭の中で完成していたに違いない。

31(昭和6)年、中野は19歳で独立し、堺に中野商店(後の中野物産)を創業した。最初の製品は、黒蜜入りの酢に漬けた昆布を硫酸紙で包んだもの。京の都への憧れと郷愁の想いから、「都こんぶ」と名付けた。
当時は今のように袋詰めの菓子はなく、駄菓子屋の店先で量り売りされていた時代。中野は社員とともに、自ら自転車の荷台に大量の商品を積んで、天王寺や松屋町の問屋街へ売り込みに出掛けた。
「その頃は会社のある堺から天王寺まで信号がひとつしかなく、見通せたらしいんです。止まったらコケるから、社員にエイヤっと押し出してもらって一気に目的地まで走っていったらしい」と笑うのは、同社の木村常務。中野の遠縁にあたる人物だ。

駄菓子屋と並んで有力な菓子販売ルートが、全国に広がっていた紙芝居屋だった。紙芝居は子供たちにとって最大のエンタテインメントであり、大人にとっては子供たちに飴や駄菓子を売るための仕掛けでもあった。
紙芝居の記憶がある方なら、「ただ見はダメ」と言われたことを覚えているだろう。日本中の子供たちが、紙芝居見たさに小銭を握りしめ、水飴やせんべい、スルメなどを買い求めた。
そして都こんぶも、子供たちの間に徐々に浸透していった。

キヨスクで販売して以降、“旅のお供”的商品に
 

初期の都こんぶ4点

昭和40年頃の都こんぶ。左から10円、20円、30円、50円。容量と品質で値段が異なっていた。

ディスプレー
同じく昭和40年頃のディスプレー入り都こんぶ。レトロなデザインが古き良き時代を感じさせる。
本社工場
堺市にあった本社・工場。赤と黄に塗られた営業車が、常に全国の販売店を走り回っていた。
当時御堂筋ネオン 大阪ナンバ御堂筋にあったネオンサイン。
 

戦争中、中野の出征とともに都こんぶの販売は一時途絶えたが、戦後は再び菓子販売ルートを中心に売り上げを伸ばしていった。
販路拡大を目指していた中野は、「人の集まるとこに行かなあかん」と考え、当時隆盛を極めていた映画館の売店で都こんぶを販売。売れ行きは上々だった。
中野は、都こんぶが子供だけでなく大人にも受け入れられる菓子であることを確信した。

中野が次に目を付けたのが、鉄道だった。自家用車が普及する以前、庶民の移動手段は鉄道とバスくらいしかなかった。
「駅には必ず鉄道弘済会の売店(キヨスク)がある。小さな都こんぶなら置いてもらえるはずや」。
そう考えた中野は、53(昭和28)年に東京営業所を開設し、キヨスクに置くことを前提にした新しいパッケージを考案した。
赤い小箱に桜の花びら、中には“都”の文字。中央には白い筆文字で、大きく“中野の都こんぶ”と書かれている。箱を赤く、花びらを黄色くしたのは、店頭で目立たせるためだった。大きさはポケットやハンドバッグに入れて持ち運べるよう、手の平サイズにした。
このパッケージ、文字デザインの変更や若干の色変更はあったが、基本的には現在に至るまで何も変わっていない。ちなみに当時の価格は1箱10円だった。

キヨスクで売ることは、都こんぶを既存の菓子ルートで販売する上でも大きな宣伝になった。
知名度が上がれば、都こんぶをまだ知らない地方にも売りやすい。
都こんぶを「どこにでも置いてある商品にしたい」と考えていた中野は、商品と同じく赤と黄色に塗られた営業車を用意し、営業マンを全国の菓子問屋に走らせた。
既に一般的な商品になっていたチョコレートやキャラメルなどに比べると、都こんぶはいかにも地味な存在。一度にどっと売れるような商品ではない。営業マンは何度も同じ販売店に足を運び、地道な売り込みを続けた。
「昆布の産地である北海道まで都こんぶを返そうやないかという意気込みでね。それでも、全国的に売れるようになったのは昭和50年代に入ってからです」と、木村常務は語る。

キヨスクでの販売、地道な営業努力に加え、中野物産はテレビCMを通じたPR活動も積極的に展開した。
アニメ「宇宙エース」放映時のCMや、イーデス・ハンソンを起用したテレビCMを覚えている人も多いのではないだろうか。
こうした努力を続けるうち、いつしか都こんぶはライバル不在の菓子昆布となっていった。類似品は頻繁に現れたが、不思議なことにほかの製品が宣伝すればするほど都こんぶの売り上げが伸びるという、皮肉な結果になるのが常だった。


「人工甘味料」が使えなくなり、倒産の危機に直面

昆布集荷
昭和40年頃の出荷風景。都こんぶの原料は函館産の真昆布。広い北海道のなかでも、都こんぶに使われる昆布が採れる場所は限られている。
当時工場風景
昭和40年頃、堺市にあったかつての工場の様子。味付け・裁断・包装といった主要な工程は完全にオートメーション化され、衛生的な環境で行われていた。
 
新歌舞伎座で販売されたパッケージ   新歌舞伎座で販売されたパッケージ。都こんぶにはこうした変わり種パッケージがいくつかある。
 
ゴールドコンブ   関西地区限定で販売された商品。選別された昆布を使っていた。「日本のチューインガム」のコピーは創業社長によるもの。

都こんぶが消費者に支持された理由のひとつに、その品質の高さが挙げられる。
原料に使うのは、函館周辺の沿岸で採れる真昆布のみ。肉質が軟らかく、ほかの昆布に比べて甘みがあり、菓子用としては最高レベルの昆布だ。
発売当初は天然物を使っていたが、大量生産するためにはどうしても養殖物を使う必要があった。が、北海道でも昆布の養殖はまだ誰も手掛けていなかった。中野は自ら現地に赴き、地元の業者を説き伏せて昆布の養殖を始めた。
販路は拡大し、売り上げは順調に伸びていった。原料の安定供給も実現した。「これで大丈夫」と安心していたところ、中野物産は思わぬトラブルに遭遇した。
広く食品に使われてきた人工甘味料チクロに発ガン性があることが指摘され、69(昭和44)年、チクロを使用した食品は全面的に回収・販売禁止となったのである。
実は都こんぶの甘さは、砂糖によるものではない。砂糖は昆布の中に浸透しないため、使うことができないのだ。昆布の味に合い、酸っぱさにも負けず昆布にじんわりと浸透するチクロは、都こんぶにうってつけの甘味料だった。

ところが、そのチクロが使えなくなった
「この時は本当に困りました。倒産してもおかしくないほど業績が悪化しましたから」。
木村常務は苦心の末、76(昭和51)年にアミノ酸系統の甘み成分を見つけ出し、都こんぶにまぶすことにした。
「甘みを浸透させられへんのやったらまぶしてみよか、と思たんです(笑)」。
従来の都こんぶにも表面に白い粉が付いていたのだが、これはマンニットと呼ばれる、昆布の旨み成分が結晶化したもの。木村常務は見た目をほとんど変えず、昆布に甘みを付けることに成功した。
「ほっとしましたよ。売り上げも前よりようなったし。ただコストがかさみましてね。創業社長にはえらく叱られました(笑)」。

チクロ問題以降、中野物産は消費者ニーズを巧みにすくい上げ、商品ラインナップの充実を図った。現在は約20種類の菓子昆布を販売する。
なかでも、甘さと酸っぱさを抑えてヒットした77(昭和52)年の「おしゃぶり浜風」と、2001(平成13)年の「梅おしゃぶり(袋入り)」は、都こんぶに次ぐ定番商品にまで成長した。販売量の6割は都こんぶが占めているが、都こんぶだけに頼らない収益構造が、徐々にできつつある。

「おしゃぶり浜風」と「梅おしゃぶり(袋入り)」   都こんぶに次ぐ定番商品となった「おしゃぶり浜風」(左)と「梅おしゃぶり(袋入り)」(右)。

健康・美容ブームを背景に、若年層にもじわじわと浸透

工場外観

97(平成9)年に竣工した大阪府貝塚市の二色の浜工場。約100人のスタッフが1日10万個の都こんぶを製造している。

都こんぶ現行品
現在の都こんぶ。内容量は15g、価格は税込みで105円。21世紀の今も、キヨスクやスーパーの常連である。

都こんぶはチクロ問題の時期を除き、毎年少しずつ販売量を伸ばしてきた。
ところが5年ほど前、あるテレビ番組が「糖尿病予防に効果がある」として都こんぶを取り上げたところ、注文が殺到し、納品が半年待ちになったことがあった。いつもの8倍の量が売れたが、木村常務は困惑するばかりだったという。
「どんなに売れても昆布の生産量には限りがあるんです。この時は品質の劣る昆布と調味料を使った酢昆布製品がたくさん市場に出回って、うちは逆に迷惑を被りました」。

この騒ぎの背景にあったのは、90年半ば以降に目立つようになった健康・美容ブームだ。昆布は低カロリー食品であるだけでなく、ヨード、カルシウム、カリウム、食物繊維など、人体に不可欠な無機質栄養素がたっぷり含まれている。また、昆布に含まれるアルギン酸は高血圧や動脈硬化予防に効果があり、ヨードとビタミンB2には肌を美しく保つ働きがある。

従来の都こんぶ購入者は中高年層が中心だったが、ここ数年、それが徐々に変化してきた。ダイエットに気を遣う若い女性や、禁煙中の若い男性、子供の歯を丈夫にしたいと考える母親などが、都こんぶの新たな購入者になっているのだという。実際、2000年以降、都こんぶの売り上げは急激に伸びている。
都こんぶは何ひとつ変わっていないが、私たち日本人の生活スタイルは大きく変化した。
戦前から愛されてきた子供のおやつが、今は健康や美容、ダイエットという観点から若い女性に注目されている。
おやつであり、健康食品であり、ダイエット食品でもある都こんぶ。変わらぬ味はもちろんだが、ロングセラーの秘密は、案外この多様性にあるのかもしれない。


取材協力:中野物産(http://www.nakanobussan.co.jp/


「都こんぶ」をベースに、新しい味、新しい食べ方を提案

消費者ニーズの多様化に合わせ、常に新しい味と商品形態を提案している中野物産。
最近注目の話題となったのは、なんといっても「キムチ味おしゃぶり昆布」だろう。ピリッとしたキムチの辛さと昆布の旨みがほどよく溶け合い、絶妙な味わいを醸し出す個性的な菓子昆布だ。ビールのおつまみとしてもなかなかイケる。
中野物産では、最近の韓国ブームにあやかって販売数が伸びるかと期待していたそうだが、実際はそれほどでもなかったらしい。
面白いのは、お馴染みの箱形をした都こんぶ以上に、小さく切った都こんぶを小分けにして袋詰めしたピローパックに人気が集まっていること。これなどは、チョコレートやキャラメルの感覚で都こんぶが食べられている証拠ではないだろうか。

 
食べやすいため子供にも人気の高い「都こんぶピローパック」(左)と、酒のつまみにしたい「キムチ味おしゃぶり昆布」(右)。  

撮影/海野惶世(タイトル部、プレゼント) Top of the page

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