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ニッポン・ロングセラー考 着物文化がある限り、足袋が廃れることはない 福助の足袋

伝統ある堺足袋の復興を目指し、孤軍奮闘した創業者

創業者・辻本福松。堺の錦糸商家に生まれ、幼い頃から利発で読み書き算盤に秀でていたという。
 
丸福創業当時の堺足袋。この頃はまだ手縫いで生産効率も低かった。不況もあり、会社は一時倒産寸前の苦境に陥ったことも。

10月8日が「足袋の日」だということを御存知だろうか? 日本足袋工業界が1988(昭和63)年に制定した記念日で、10月以降は七五三・お正月・成人の日など、和服を着て足袋を履く機会が多くなることから、末広がりの八日を足袋の記念日にしたのだという。
残念ながら、わざわざ記念日を作らなければならないほど、現代人にとって足袋は馴染みのない履き物になってしまった。着物を着るときやお祭りのときなどを除けば、私たちはもはやほとんど足袋に触れることがない生活を送っている。

それでも、全盛期の1935(昭和10)年には全国に約600社の足袋販売会社があり、2億5600万足も販売されていた。なかでも最も高いシェアを取っていたのが、今も足袋を製造し続けている福助だ。この年の同社の製造数は約7000万足。全体の4割に近い。
若い人たちには肌着メーカーのイメージが強いかもしれないが、中高年世代にとって福助は足袋の代名詞的存在だ。実際に履いたことは少なくても、足袋=福助という連想は、この年代の人々にはかなり強く刷り込まれている。
福助はいかにして足袋業界の巨人になったのか。その道筋を辿ってみよう。

福助のルーツは、1882(明治15)年、大阪府堺区に誕生した足袋装束卸問屋「丸福」にある。店主は辻本福松。その名にちなみ、商標は「丸福」とされた。
古くから物資の集散地だった堺は足袋(堺足袋)の生産地としても有名だったが、丸福創業当時、堺足袋は既に衰退しつつあった。しかし「和服、畳の生活が日本から消えない限り、足袋の需要は減ることがない」と考えた福松は、堺足袋の復興を目指して孤軍奮闘する。

問題は、当時の足袋がすべて手縫いだったことにあった。足袋の種類はひも付きからコハゼ(足袋を留めるためにかかとに付けられた金具のこと)付きに代わりつつあったが、それでも1日1人で3足作るのがやっと。
「これでは堺足袋の復興は望めない。良い品を安く売るためには大量生産が必要だ」そう考えた福松は、仲間の機械商と協力してミシンの開発に乗り出した。同業者からは「足袋をミシンで縫ったところで片っ端から糸がほぐれてしまうだけ」と相手にされなかったが、福松はひるまなかった。そして1895(明治28)年、苦労の末に爪先縫いの足袋ミシンを完成させる。
足袋の縫製を請け負っていた縫い屋はこぞってミシンを導入した。手縫いの時代は終わり、足袋の大量生産時代が始まった。

  苦労の末に完成した日本初の足袋縫いミシン。福松は機械の発明にも才があり、後に本腰を入れてミシンを製造販売することになる。


災い転じて福と成した、商標“福助”の誕生
 


辻本豊三郎が伊勢の古道具屋から持ち帰った福助人形。人間の仁・義・礼・智・信を象徴し、それは会社の方針そのものになった。

主な福助マークの変遷。商才だけでなく絵心もあった福松は、登録商標した初代福助マークを自ら描いた。
 

福松はミシンを導入して大量生産を実現しただけでなく、色落ちしにくい紺黒色の開発や底生地を丈夫な物に改良するなど、足袋の品質改良に力を注いだ。そうした努力が実を結び、明治30年代以降になると、商売はますます繁盛。丸福ブランドの名は、関西を中心に広く知れ渡るところとなった。

ところが、思わぬ落とし穴が待ち受けていた。当時の丸福の商標は1892(明治25)年に出願・登録されたものだったが、1899(明治32)年になって突然、同じ屋号を付けた和歌山市の足袋店から、「先に商標を使っている」との理由で丸福の商標取り消しを訴えられたのだ。
当時の条例は極めて不備なところがあったため、福松が出願した丸福の商標は確かに認められているにも関わらず、結果は敗訴。長年に渡って売り込んできた丸福の商標が使えなくなり、強気の福松もさすがに途方に暮れたという。

そんな折り、福松の娘婿だった豊三郎が、吉例にしていた伊勢参りの際にふと立ち寄った古道具屋の奥で、裃に威厳を正した福助人形を発見した。その姿に胸を打たれた豊三郎は、「この福助人形には後光が射している。我々を守ってくれる守護神に違いない。そうだ、これを新しい商標にしよう」と思い、人形を買い求めて帰宅。喜び勇んで父福松に見せた。
人形を見た福松は「これこそ更正の商標だ。良い物を授かった」と喜び、持ち前の絵心を発揮して福助像を描き、特許局へ登録申請した。
1900(明治33)年7月17日、「福助」の商標が晴れて認可された。災いを転じて福と成した福松・豊三郎父子。福助足袋の強力なブランド戦略が、再び始まった。

福助ブランドの顔ともいえる例の福助マークは、基本的なスタイルを踏襲したまま、これまで何度も変更されている。福松が描いた緻密な絵柄から、広告戦略や洋品部門の拡充に合わせ、だんだんシンプルな形になってきているのが特徴だ。
その最たる物が、昨年10月、新生「福助株式会社」とともに誕生した新しい福助マーク。“進化する老舗”を象徴する、クラシカルモダンなデザインとなっている。



卓越した販売・宣伝戦略で、常に業界の先駆けとなる

  明治40年に作られた一足袋。帆船に足袋の木箱を山と積み、福助人形がお辞儀をしているデザイン。実物は豪華な三色刷だった。
大正期の新進画家・北野恒富制作による美人画ポスター。背景に描かれている工場は、福松の理想を描いた物だったという。  
岡本一平による漫画・工場見学記。これが好評だったため、福助は他の漫画家にも製作を依頼し、いくつか漫画広告を製作した。

福松の商才は、商品の販売・宣伝面でもいかんなく発揮された。
まず、「売り物に花を飾って購買意欲をそそる」ことを狙い、それまではむき出しのまま店頭に並べられていた足袋に、立派なパッケージを付けて販売。特に1907(明治40)年製の一足袋は三色刷の豪華なパッケージで、小売店からは注文が相次いだという。
また、福松は広告の天才でもあった。大正時代には流行の美人画ポスターを製作。他社に先んじて積極的に新聞広告を打ったのも、福松の発想だった。

明治30年代後半、福松は大阪への本格的な販売を仕掛けた。この時に取ったのが「福助の片足足袋戦法」。それは大阪堺筋の両側の家へ足袋を片足ずつ投げ込み、足らぬ片足を買いに来させるという奇想天外な販売方法だった。お客にすれば半値で買えるのだから大いに得をする。宣伝効果も高く、福助足袋の知名度はさらに上がっていった。

同時にこの頃から地方への進出が始まり、福松は「一市一町一店主義」を掲げて全国に広がる販売網を築いてゆく。1912(大正元)年には、ついに年間100万足販売を達成した。
福松の死後、後を次いだ豊三郎は、福松時代からの念願だった東京へ進出。最初は「阪物(さかもの)」と呼ばれて相手にされなかったが、親指を重視した東京人に向く型の足袋を開発し、大正後期には東京でも福助ブランドを認知させることに成功した。

福助ブランドを浸透させるため、豊三郎もまた数多くのアイデアを盛り込んだ宣伝戦略を実施した。大正時代に実施した「よい足袋の名募集」や「足袋の特徴選挙」は、今に続くユーザー巻き込み型キャンペーンの先駆けともいえるもので、当時としては画期的な試みだった。
1925(大正14)年には、全国の新聞に巨大なクロスワードパズルを掲載し、ファンの度肝を抜いている。また1927(昭和2)年には、全国の新聞に当代随一の人気漫画家・岡本一平による漫画広告を掲載。これもまた、広告業界における初の試みだった。

人々の度肝を抜いたのは新聞広告ばかりではない。大正末期から昭和初期にかけて同社は、浅草や道頓堀など日本各地の繁華街に巨大な広告塔を設置。それらは各地の増販・拡販に大きな力を発揮した。1916(大正5)年からは、当時流行っていたアドバルーン広告を実施。1949(昭和27)年には福助人形型の巨大なアドバルーンを上げ、各地で大きな話題を集めた。
また、業界で最も早く電波宣伝を行ったのも福助だった。1950(昭和25)年、民間ラジオ放送がスタートすると、同社はすぐに番組スポンサーとなり、日本最初のコマーシャルをオンエアした。テレビ放送が始まると、「素人のどくらべ」や「源平芸能合戦」などの人気番組を提供。これらの電波広告は、経営の多角化を目指していた福助の販促に大きく貢献した。

1928(昭和3)年、大阪・道頓堀に完成した大広告塔。高さ30m、照明の数6600個、工費5万円という豪華な塔で、五色の光が点滅した。(写真左)

1952(昭和27)年、堺市に上がった大福助人形アドバルーン。直径4m、高さ5m、総費用18万円という前代未聞の代物だった。(写真右)
 
日本テレビ系列でスポンサーとなった歌番組「素人のどくらべ」。
         

会社は変われども、福助足袋の存在意義は常に不変


カシミヤのような肌触り、絹のような光沢が特徴の最高級品「オール海島綿」。5枚コハゼ、1万500円。

表地に高級エジプト面別織生地を使用した「最高級綿キャラコ」。5型100パターンから選択でき、価格は2940円から3360円まで。

戦後、会社の規模は順調に拡大したが、日本人の洋装化が進むにしたがって足袋の需要はどんどん減少していった。それは時代の流れであり、誰にも止められるものではなかった。福助は靴下やストッキングなど、肌着を中心とした衣料品製造にシフトしてゆく。

それでも、伝統ある足袋の製造はしっかりと受け継がれた。
昭和50年代から60年代にかけては、最高級品となる「海島綿」、従来にないカラー展開の「彩」「色足袋」、外反母趾の人のための「外反母趾足袋」などを発売。1994(平成6)年にはノーアイロンの「新木綿」、98(平成10)年には浴衣を着るときのお洒落履きとして「タビス」を発売。需要は少ないが、この頃のアイテム数は約300にもなっていたという。

足袋メーカーとしての福助ブランドは絶頂を極めたが、肌着メーカーとしての福助ブランドは、残念ながら時代の変化について行けなかった。
福助株式会社は、創業121年目を迎えた2003年6月、民事再生法の適用を申請して経営破綻した。
新たなスポンサーの下、新生福助の指揮を執るのは、伊勢丹でカリスマバイヤーと呼ばれた藤巻幸夫氏。ファッションブランドとしての再興を目指す新生福助は、「進化する老舗、福助。」という企業スローガンを掲げ、新たな一歩を踏み出した。

現在、同社の取り扱い製品における足袋の割合は、わずか6%に過ぎない。今年の販売予定数は150万足。それでも、新生福助は足袋の製造販売にこだわり続ける。それはなぜか。
かつての福助ブランドは、120年もの長きにわたるロングセラー商品「福助足袋」によって確立された。これからは足袋以外の製品で新たな福助ブランドを作っていかなければならない。ブランド確立の重要性を誰よりも良く知っている藤巻氏は、今、創業者の辻本福松と同じ心境にあるのではないだろうか。足袋は、再生の象徴なのである。


取材協力:福助株式会社(http://www.fukuske.com/


新生福助の面目躍如、ファッション性豊かな足袋が誕生!

ファッションブランドとしての再興を目指す福助は、当然のことながら足袋にも新たなメスを入れようとしている。伝統ある福助足袋の製造技術を活かしながら、現代感覚を取り入れて作った「ファッション足袋」シリーズがそれだ。
使用している生地は、大・中・細のボーダーとチェック柄。カラーはピンク、エンジ、白、赤、青、水色の6色。そう、ファッション足袋はシャツ生地で作られているのだ。受け糸のカラー配合も考えられており、これなら今年流行ったレトロモダンな浴衣にもピッタリ合いそう。室内履きとして使うのも、お洒落でカッコイイ。
普通の足袋よりちょっと値段が高いのが残念だが、和装に興味のある若い層にも人気があるという。

 
シャツ生地で作ったファッション足袋。価格は5040円。  
 
撮影/海野惶世(タイトル部、プレゼント) Top of the page

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