福松の商才は、商品の販売・宣伝面でもいかんなく発揮された。
まず、「売り物に花を飾って購買意欲をそそる」ことを狙い、それまではむき出しのまま店頭に並べられていた足袋に、立派なパッケージを付けて販売。特に1907(明治40)年製の一足袋は三色刷の豪華なパッケージで、小売店からは注文が相次いだという。
また、福松は広告の天才でもあった。大正時代には流行の美人画ポスターを製作。他社に先んじて積極的に新聞広告を打ったのも、福松の発想だった。
明治30年代後半、福松は大阪への本格的な販売を仕掛けた。この時に取ったのが「福助の片足足袋戦法」。それは大阪堺筋の両側の家へ足袋を片足ずつ投げ込み、足らぬ片足を買いに来させるという奇想天外な販売方法だった。お客にすれば半値で買えるのだから大いに得をする。宣伝効果も高く、福助足袋の知名度はさらに上がっていった。
同時にこの頃から地方への進出が始まり、福松は「一市一町一店主義」を掲げて全国に広がる販売網を築いてゆく。1912(大正元)年には、ついに年間100万足販売を達成した。
福松の死後、後を次いだ豊三郎は、福松時代からの念願だった東京へ進出。最初は「阪物(さかもの)」と呼ばれて相手にされなかったが、親指を重視した東京人に向く型の足袋を開発し、大正後期には東京でも福助ブランドを認知させることに成功した。
福助ブランドを浸透させるため、豊三郎もまた数多くのアイデアを盛り込んだ宣伝戦略を実施した。大正時代に実施した「よい足袋の名募集」や「足袋の特徴選挙」は、今に続くユーザー巻き込み型キャンペーンの先駆けともいえるもので、当時としては画期的な試みだった。
1925(大正14)年には、全国の新聞に巨大なクロスワードパズルを掲載し、ファンの度肝を抜いている。また1927(昭和2)年には、全国の新聞に当代随一の人気漫画家・岡本一平による漫画広告を掲載。これもまた、広告業界における初の試みだった。
人々の度肝を抜いたのは新聞広告ばかりではない。大正末期から昭和初期にかけて同社は、浅草や道頓堀など日本各地の繁華街に巨大な広告塔を設置。それらは各地の増販・拡販に大きな力を発揮した。1916(大正5)年からは、当時流行っていたアドバルーン広告を実施。1949(昭和27)年には福助人形型の巨大なアドバルーンを上げ、各地で大きな話題を集めた。
また、業界で最も早く電波宣伝を行ったのも福助だった。1950(昭和25)年、民間ラジオ放送がスタートすると、同社はすぐに番組スポンサーとなり、日本最初のコマーシャルをオンエアした。テレビ放送が始まると、「素人のどくらべ」や「源平芸能合戦」などの人気番組を提供。これらの電波広告は、経営の多角化を目指していた福助の販促に大きく貢献した。
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