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ニッポン・ロングセラー考 鍋文化を支えてきた国民的調味料 味ぽん

味ぽんのルーツは博多の料亭にあり

ミツカンの創業は1804(文化元年)年。尾張国知多郡半田村で酒造業を営んでいた中野又左衛門が、酒粕を原料にした粕酢の醸造に成功し、分家独立して始めた。写真は大正時代に建てられた工場。
   
 
7代目社長の中埜又左エ門(故人・4代目から「中埜」に改名)。大量生産システムとスーパーマーケットを中心とする食品ルートを開拓し、会社の規模を飛躍的に大きくしたカリスマ的存在だった。ミツカンの第2創業者とも言われる。

一家四人が揃って鍋を囲みながら、団欒のひとときを過ごす──。
冬の鍋料理は風物詩のようなものだ。日本人なら誰の記憶の中にもある、食の原風景。核家族化が進んだ今となってはいささか珍しい光景かもしれないが、高度成長期に幼少期を過ごした世代にとってコタツを囲んだ鍋料理は、当たり前のように存在した冬の定番メニューだった。

そして、鍋の傍らにはいつもミツカンの「味ぽん」があった。鍋の具材が何であれ、最後にその味を決めるのは、いつも味ぽんだった。醤油ではなく、なぜか味ぽん。
しかし味ぽんは、調味料の一般名ではない。あくまでも、ミツカンという会社がその名を商標登録した調味料の固有名だ。
一般的な呼び方は、もちろん「ぽん酢」だ。ぽん酢とは、元々オランダ語の「Pons=ポンス(柑橘果汁)」に日本語をあてたもの。日本人は江戸時代から酢を食の中に取り込んでおり、ぽん酢もごく自然に浸透していったらしい。やがてそれが発展し、柚子や橙、かぼすなどの柑橘果汁に醤油や昆布だし、かつおだしなどを混ぜて作った調味料を、ぽん酢と呼ぶようになった。

正確には「ぽん酢しょうゆ」「味付けぽん酢」と呼ぶべきこの調味料。もはや醤油やつゆ、みりんなどと同様、日本人の食生活には欠かせない基礎調味料となっている。
それにしても、なぜ味ぽんなのだろう。スーパーの店頭には多種多様のぽん酢が並んでいるのに、私たちには、ぽん酢=味ぽんという認識がしっかりと根付いている。
それを裏付ける事実がある。ミツカンによると、味ぽんの年間売り上げは約150億円。マーケットシェアは60%にも及ぶという。
味ぽんは、ぽん酢業界のガリバー的存在なのだ。

味ぽんが誕生したのは、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年。今からちょうど40年前だ。
その約3年前のある日、ミツカンの7代目社長、中埜又左エ門は、博多の料亭で取引先との宴会に出席していた。目の前に出されたのは、名物の博多水炊き。又左エ門は、その際に出されたぽん酢のおいしさにいたく感激し、こう考えたという。
「これは旨い。ぽん酢を商品化すれば、今よりずっと美味しい鍋料理を家庭で楽しめるようになるはずだ」。実はぽん酢は、昭和30年代までは一般家庭にほとんど普及していなかった。料理屋で鍋を注文したときに、初めて口にするような調味料だったのだ。
当時、又左エ門は社長になったばかり。その胸の内には、ある強烈な思いがあった。

 

鍋文化の違いから、関東では悪戦苦闘

発売当時の製品ラベル。「鍋と酢の物にお使い下さい」と記されている。ちなみに「味ぽん」という名称が商標登録されたのは1974(昭和49)年になってから。
1970年の鍋料理をメインにしたリーフレット。ラベルには水たき、湯どうふと共に焼魚にと表記されている。
早朝の卸売市場でのミツカンの営業マンと商店主。十数年にわたって続けられたこうした地道な営業活動が、関東圏での販路拡大につながった。
現在の味ぽん。この形の瓶になったのは1979(昭和54)年から。容量は150ml、360ml、600ml、1Lの4種類がある。成分は発売以来、ほとんど変わっていない。
初期のテレビコマーシャル映像。当時の瓶は現在のものとは異なり、三角錐型をしていた。テレビコマーシャルは現在に至るまで、毎年欠かさず続けられている。
 

既に食酢の分野ではトップメーカーになっていたミツカンだったが、社をあげて新しい分野に挑戦するのは初めてだった。又左エ門は開発陣にハッパをかけた。
「うまいぽん酢は誰でも作れる。オリジナルの調味料を作れ!」。
その裏には、醤油に対する強烈な対抗心があった。当時、酒屋で売られる代表的な調味料は、あくまでも醤油。酢は二番手、三番手に甘んじていた。又左エ門は、醤油に負けない画期的な調味料を作りたかったのだ。
当時の開発陣は、試作品を作るたびにダメ出しをされたという。彼らは一年の半分は料亭に通って、本場のぽん酢を研究した。そして3年後、様々な地方の醤油を配合し、だしで醤油とぽん酢の味を消し去った独自の調味料が完成した。
頑固社長の又左エ門当がやっと認めたその調味料は、「ミツカンぽん酢〈味つけ〉」と名付けられて、世に送り出された。その名は間もなく「味ぽん」に変更され、普及までの長い道のりをたどることになる。

味ぽんは、現在に至るまで3つの大きな苦難に遭遇している。
まず第1の苦難は、東西の鍋文化の違いから、発売から数年の間、関東でほとんど売れなかったこと。元々水炊きの習慣がある関西ではぽん酢が浸透していたため、味ぽんは瞬く間に普及した。
ところが寄せ鍋に代表される「味つけ鍋」がメインの関東では、味ぽんが入り込む余地がほとんどなかったのだ。

1967(昭和42)年、関東地区を担当する営業マンは、悩み抜いた末、ゲリラ的な作戦に打って出ることにした。毎日、早朝から荷台を屋台に改造した軽三輪車で卸売市場に行き、荷台のコンロで水炊きを作って、買い付けに来る小売業者に向けた味ぽんの試食販売を実施。寒さに凍えるこの仕事には、新入社員が駆り出された。
“朝売り”と呼ばれた大胆な朝駆け拡販作戦の効果は、徐々に現れてきた。販路は年を追って拡大し、売り上げも順調に伸びていった。
同時に、スーパーの食品売り場では、マネキンによる試食販売を大々的に行った。関東地区のスーパーでは、味ぽんとともに馴染みの薄かった土鍋を販売するというアイデアを取り入れ、主婦層に新しい鍋の楽しみ方を提案していった。

時を同じくして実施したのが、消費者に対するコミュニケーション戦略だった。
味ぽんと言えば、数々のテレビコマーシャルを思い出す人も多いことだろう。1968(昭和43)年の関敬六に始まり、なべおさみ、三波伸介など、当時の人気タレントを起用したCMは、いずれも鍋を囲んだ家庭のあたたかさを訴求するものだった。昼間、会社で忙しく働いているお父さんは、家で鍋を囲む時も主役だったのだ。
だが、この鍋を囲んだ一家団欒のイメージが、逆に味ぽんの需要を限定するという、皮肉な結果を招くことになる。

 

冬場だけのシーズン商品から年間商品へ

70年代から80年代にかけて飛躍的に売り上げを伸ばした味ぽんだったが、80年代に入ると、新たな問題が浮上してきた。
まず、食をめぐる社会的な変化があった。鍋メニューは既に出尽くした感があったし、西洋化が進むにつれ、消費者の魚離れが進んでいった。何より核家族化が急激に進んだため、鍋のない家庭が増えつつあった。

味ぽんは冬は売れるが、夏場は店頭から消える商品だった。夏場は生産ラインが空いてしまうから、そもそも生産効率が悪い。しかも2、3月には大量の返品があるため、大量に売れたとしても利益効率が低い。営業の面でも効率も悪かった。
売れているのに返品が多く、利益率が低い。又左エ門は再び社員にハッパをかけた。
「返品をゼロにしろ!」。

難しい命令だった。生産調整を行えば返品が減って生産効率は上がるが、利益効率と営業効率の改善は望めない。ならば、発想を逆転させればどうか。
冬だけのシーズン商品ではなく、夏でも売れる商品にすればいい。年間を通して使ってもらえる普段使いの調味料であることをアピールすれば、消費量は一挙に上昇するはずだ。
販売戦略を担当した社員たちは、徹底的な調査を行い、既に愛媛や九州などでは夏場でも味ぽんが売れており、焼き肉や焼き魚、餃子、酢の物など、多彩なメニューに使われている事実をつかんでいた。
素地はある。後はどんなキャンペーンを打つか、だった。

まず、1979(昭和54)年から82(昭和57)年にかけて、テストキャンペーンを実施。消費者が実際にどんなメニューに味ぽんを使っているのかを、徹底的に検証した。その結果、意外にも焼き肉のたれとして使われているケースが多いことが判明。
83(昭和58)年〜93(平成4)年にかけては戦略メニューとして「おろし焼き肉」を設定し、テレビコマーシャルや店頭販促などで大々的なキャンペーンを実施した。桂三枝や西田敏行が、味ぽんでおろし焼き肉を食べているシーンを覚えていないだろうか。86(昭和61)年以降には、おろし焼き肉のほかにも、おろしハンバーグ、おろし焼き魚、餃子、おひたし、かつおのたたきなど、新しいメニューを提案するコマーシャルが矢継ぎ早にオンエアされた。加えて89(平成1)年〜93年までは、冬場にも鍋以外のメニューを提案するキャンペーンを実施した。
こうした積極的なキャンペーンが功を奏し、90年代初めまで、味ぽんの売り上げは右肩上がりに上昇していった。
この時は、やがてやってくる第3の苦難を、誰も予想していなかった。

 
                 
 

●味ポンを使った鍋料理以外のさまざまメニューは同社のHPでもレシピなど細かく紹介されている

 
                 
         
  おろし焼き肉   かつおのたたき   コロコロステーキ   さんまのガーリック焼き  
                 
 

原点回帰し、味ぽんというブランドを再構築

柑橘果汁に醸造酢を加え、シンプルな味と豊かな風味を追求した定番の「ぽん酢」。鍋物、湯豆腐、フライなどに最適。
今年8月に発売された新製品「味ぽん 黒酢仕上げ」。国産玄米100%のカラダに良いとされる黒酢に、柑橘果汁をほどよくプラス。クセが少なく旨みあるまろやかな味わいが特徴。
 

第3の苦難は、1992(平成4)年にやって来た。この年、味ぽんの売り上げが急落したのである。
それまで順調に伸びていただけに、急落の理由はなかなかつかめなかった。バブルが崩壊し、人々が家庭で食事をする機会が多くなったにも関わらず、売れなくなっている。
それも局地的にではなく、全国一律に動きが鈍くなっている。これはひょっとしたら、消費者の味ぽん離れが起きているのではないか。
「味ぽんの味が氾濫しすぎ、飽きられてきたのかもしれない。何にでも使えるという提案が、かえって味ぽんの本質を見えにくくしているのでは?」マーケティングスタッフはそう分析した。

消費者とのコミュニケーションの問題もあった。ミツカンは毎年味ぽんのテレビコマーシャルを打っていたが、この頃のコマーシャルは昔ながらの一家団欒のイメージを伝えるものではなく、味ぽんがこれまで作ってきた世界観から外れているものが多かった。これも、味ぽんの本質を見失わせる要因のひとつだった。
新たなマーケティングが求められていた。
スタッフは消費者6千人からアンケートを取り、味ぽんの原点を探った。その結果たどり着いたのが、“原点回帰”というコンセプト。
「お客様は簡単にさっぱり食べられるものを求めている」。
「肉と野菜、あるいは魚と野菜といったように、ふたつを組み合わせておいしく食べられるメニューが好まれる」。
「鍋を囲んだ一家団欒のコマーシャルにリアリティはないが、お客様はあの世界を求めている」。
マーケットリサーチの結果見えてきたのは、発売当時の味ぽんが追求していた、食をめぐるシンプルな家庭の姿だった。

具体的には、訴求するメニューを焼き肉に戻し、コマーシャルには必ず家族を登場させた。さっぱり感を演出するため、画面では液体を見せることも忘れなかった。
ミツカンはこうした細かい決まり事を細部に至るまで設け、コマーシャルや店頭販促など、さまざまな施策を打ち出していった。これは、今で言うブランディング戦略に他ならない。味ぽんというブランドを再構築し、その世界を明確にするため、細かなルールを決めて消費者にアピールしていく。
コマーシャルと店頭販促の連動も実行した。コマーシャルに流れたメニューを求めてスーパーに行けば、その食材コーナーではビデオが流れ、傍らには味ぽんが置かれている。今でこそ当たり前のように行われているこうした店頭展開をいち早く手がけたのは、ほかでもないミツカンだった。
売り上げは再び持ち直した。2003年、味ぽんは過去最高の売り上げを記録した。

今、消費者に「あなたにとって味ぽんとはどのような商品ですか?」と聞くと、多くの人からこんな答えが返ってくる。
「醤油や砂糖と同じように、我が家には欠かせない調味料です」と。
新しいぽん酢製品を使いながらも、味ぽんも併用しているという消費者がいかに多いことか。味ぽんは、既に万能基礎調味料として確固たるポジションを確立しているのだ。
醤油に並ぶ基礎調味料を作りたいと熱望した7代目社長・中埜又左エ門。その思いは、40年の時を経て見事に花開いた。

取材協力:株式会社 ミツカン(http://www.mizkan.co.jp


第2の味ぽんを育てるため、多角化を推進中

1988(昭和63)年、又左エ門は5年後の売上高1000億円を目指し、「1000&73計画」を発表した。73とは、成長性に富む開発品の比率を全売り上げの7割にするという意味。味ぽんに続く経営の柱を模索していた又左エ門は、「食酢をやることは一切まかりならん。違う分野で1位になれるようなものを作れ。それもロングライフのものを」と、開発陣に命じた。
その第1弾が、1989(平成元)年に発売した「五目ちらし」だった。混ぜるだけでちらし寿司ができるこのレトルト食品は、同社ドライ製品の中軸に成長する。
第2弾として登場したのが、「追いがつお つゆ」だった。元は88年に発売した「濃縮二倍つゆ」という製品だったが、後に「追いがつお つゆ」とネーミング変更して以来、つゆの分野でトップシェアを記録するまでになった。
そして最も新しい成功例が、8代目が経営を受け継いだ後、98(平成10)年に発売された「金のつぶ」。ミツカンはその5年前から納豆分野に参入しており、満を持しての発売だった。金のつぶはシリーズ展開され、素材や製法にこだわった製品開発で、新たな納豆市場を切り開きつつある。
次なるターゲットは、同じ大豆製品の豆腐だという。ミツカンの多角化は、止まることなくこれからも続く。

 
1988年に発売、後にネーミングが変更された「追いがつお つゆ」   1989年に発売された「五目チラシ」
1998年より発売されている「金のつぶ」シリーズ。左より「ふっくらなっと」、「ほね元気」、「におわなっとう」


撮影/海野惶世(タイトル部、プレゼント) Top of the page

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