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ニッポン・ロングセラー考 世界最高水準の品質を求めて 三菱鉛筆ユニ

海外での評価が低かった戦後の日本製鉛筆

創業者の眞崎仁六。1925(大正14)年に色鉛筆を製造販売していた「大和鉛筆」と合併し、「眞崎大和鉛筆」を設立。52(昭和27)年、社名を「三菱鉛筆」に改めた。
   
 
第4代社長の数原洋二。稀代のロングセラー鉛筆ユニは、欧米視察時の苦い経験から生まれた。
   

子供の頃、その鉛筆は憧れの的だった。茶色ともエンジ色ともつかない不思議な塗り色。円錐形の先端と、ゴールドの刻印文字。とにかくカッコよかった。プラスチックのダース箱が筆箱を兼ねており、ちゃんと消しゴムも入っている。
先に手に入れた友だちが羨ましくて仕方なかった。値段が高いのは知っていたが、親にねだって買ってもらった。カバンに入れた時、少しだけ自分が大人になったような気がした。
「三菱鉛筆ユニ」。高度経済成長期に小中学生だった世代にとって、これほど深く少年期の思い出と結びついた鉛筆は、他にない。

ユニが誕生したのは1958(昭和33)年。かれこれ50年近いロングセラー商品になる。ユニが登場する以前、日本の鉛筆事情はどのようなものだったのか。
日本で本格的に鉛筆が使われるようになったのは明治維新後のことだ。国産品はまだなく、一部の上流階級がドイツからの輸入品を使っていた。最初に鉛筆の工業生産を手がけたのは、現在の三菱鉛筆の基礎を作った眞崎仁六(にろく)。1887(明治20)年に眞崎鉛筆製造所を創業し、1901(明治34)年には逓信省へ初めての国産鉛筆を納入している。現在も続く三菱ブランドは、その2年後に登録された。

二度にわたる世界大戦時、鉛筆の輸入がストップし、国内メーカーが内需のすべてをまかなうことになった。鉛筆業界は活況を呈し、多数の会社が製品を製造、発売。しかし、戦後一部の業者が粗悪な製品を濫造して輸出したため、海外での評判を著しく落としてしまう。
1953(昭和28)年、海外での鉛筆事情を視察するために欧米を回った三菱鉛筆技術部長の数原洋二(後の第4代社長)は、各地で日本の鉛筆に対する評判が低いことに愕然とした。その当時、ファーバー・カステルとステッドラーというドイツ2大ブランドの製品が世界中で高い信頼を得ていた。彼の地のユーザーからすれば、日本製鉛筆は「ドイツの模倣品を作ってダンピング輸出している」と映ったのかも知れない。三菱は既に「No.9800」「No.9000」という2つの製品を世に送り出していたが、確かにこの4桁ナンバーからして、ファーバー・カステルの代表製品に倣ったものだった。
だが、この時の数原の苦い経験が、ユニを生む原動力になった。
「名実共に日本の鉛筆を海外に知らしめるためには、輸入品の影響から脱したオリジナルの高級鉛筆を開発しなければならない」。数原の決心は固かった。
背景には、やがて行われる予定だった鉛筆の貿易自由化がある。海外から高品質の鉛筆が入ってきたら、国内市場はどうなるのか。同時に、社会が安定し、経済が成長するに従って、鉛筆を使う人々のニーズも変わり始めていた。競合メーカーのトンボ鉛筆が1952(昭和27)年に発売した1本30円の「ホモ」が、比較的良く売れていたのだ。当時の三菱製鉛筆の値段は、No.9800が1本10円、No.9000が20円だった。
「人々は少々値段が高くても、書き味の良い鉛筆を求めている」そう確信した数原は、三菱鉛筆初となる高級鉛筆の開発を急いだ。

     
 
1946(昭和21)年発売の「No.9800」。ユニ以前に発売されたもうひとつのロングセラーで、当時の値段は1本80銭だった。現在は1ダース504円(税込)。パッケージデザインは発売当時からほとんど変わっていない。   1950(昭和25)年発売の「No.9000」。技術部長の数原が欧米視察の際に携えていった製品で、こちらもまた現在に続くロングセラーだ。1ダース630円(税込)。
     

目指したクオリティは「Bの黒さでHの硬さ」

[ 鉛筆の製造工程 ]
 
芯の原料となる黒鉛と粘度を調合し、水を加え、ミキサーで練り合わせる。調合比率はHBで黒鉛70%+粘±30%。   練り合わせた原料に高い圧力をかけ、筒状に成形する。直径は10.5cm、長さは35cmくらい。
 
芯の太さに押し出し、20cmくらいに切り揃える。次に芯を束ねて缶に入れ、約2時間乾燥させて水分を取り除く。その後、芯の焼成による酸化を防ぐため、坩堝に詰める。   約1,000〜1,200度の炉で2〜3時間焼き固める。
 
芯を折れにくくし、書き味を滑らかにするため、熱い油を染みこませる。その後ゆっくり熱を冷ませば芯は完成する。   カリフォルニア産のインセンス・シダーを1枚の板(スラット)の状態に加工する。
 
長さ185mm、幅70mm、厚さ5mmのスラットに、芯の太さの溝を9本付ける。この後、溝に芯を載せ、もう1枚のスラットを重ねて貼り合わせて圧縮・乾燥。乾いたら上下の面を鉛筆の形に削って1本1本を切り離す。   目止めをした後、商品に合わせた塗料を何度も塗り重ね、ラッカーで艶を出す。その後、両端を切り落とし、製品名やマークを高熱転写で印刷する。
   
検査、箱詰めの後、それぞれのパッケージに自動的にラベルが貼られ、包装されて商品は完成する。    
     

鉛筆の究極は「6Bの黒さで9Hの硬さ」を実現することにある。つまり、深みのある黒色と硬い芯を両立させることがなかなか難しいのだ。欧米での視察旅行から帰国した数原は、この理想に向かって高級鉛筆開発プロジェクトをスタートさせた。
数原は1948(昭和23)年から着手していた芯の研究をこのプロジェクトに組み入れ、焼成・油加工・曲げ強度・弾性率など基本的な品質の向上研究を開始。検討すべき課題を洗い出した。

鉛筆製造の要点は、大きく分けて2つある。書き味の滑らかさを実現するためには、まず芯の材料となる粘土と黒鉛それぞれが微粒子かつ良質でなければならない。次に、粘土を高度に微粉化する技術が必要となる。
粘土については、全国各地から16種類、ドイツから1種類を集めた。それらを産地別に化学分析し、粉末にして何段階もの焼成テストを実施。また、温度や水分、湿度などさまざまな要素を比較検討し、最適な条件を決定した。最終的に選んだのは、ドイツ製の粘土。開発陣はドイツの製芯技術の見直しを行い、独自の製造工程図を作成した。
一方の黒鉛に関しては、従来の鱗状黒鉛をより微粉化し、鱗状CP(クリスタルグラファイト)黒鉛の開発に成功。これは粒子が10〜15ミクロンの黒鉛だったが、後に開発陣は7〜10ミクロンと、さらに粒子が細かい鱗状CSP(クリスタル・スーパーグラファイト)黒鉛の精製にも成功した。

もうひとつの課題である粘土の微粉化については、粒子を細かくするため水簸(すいひ=不純物を取り除く作業)を重視し、新しい製造法を開発して対処した。ちなみにこの時に行った「粘土の処理法についての研究」は、当時の通産省の補助金制度で受賞するほど高度なもので、同社は3,000万円の補助金を受けている。

鉛筆の本体を形成する軸板にも多くの条件が求められた。まず、多量に産出し、安定供給を受けられる樹種であること。次に、軽くて削りやすく、適度な吸湿性があり、曲がりや狂いの少ないもの。開発陣は国産・輸入合わせて26樹種をテストした結果、輸入品のインセンス・シダー(ヒノキの一種)に決定した。
数原たちの努力は実り、新製品は「Bの黒さでHの硬さ」を実現することができた。製造の準備は整った。残る課題はデザインをどうするか、だった。

 

稀代の工業デザイナー、秋岡芳夫の功績

秋岡自らがデザインした発売当時のダース箱。この初代だけが手作りだった。プラスチック製ということだけも驚きだが、蝶番はなんとアルミで出来ていた。
 
1964(昭和39)年に登場した2代目ダース箱。生産効率を考えて、横から蓋を外す方式に変わった。2代目からのデザインは社内製だ。
 
1971(昭和46)年に登場した3代目ダース箱。再び蝶番式に戻されたが、蝶番部分はアルミからプラスチックの成型に変わった。
 
現行(4代目)のダース箱は1988(昭和63)年の登場。全体に丸みを帯びたデザインで、より洗練されたイメージになった。
   

三菱鉛筆は新製品の製造計画をまとめ、1957(昭和32)年、同社としては初のプロジェクトチームを作った。そのプロジェクトチームには、工業デザイナーとして独立して仕事をしていた秋岡芳夫氏がメンバーとして加わった。ユニのほか、旧国鉄のブルートレイン「あさかぜ」のデザインなどを手がけ、食器や木工品などにも造詣が深く、著書も多数ある日本を代表するデザイナーである。秋岡はデザインだけでなく、商品コンセプトの構築そのものにも深く関わっていた。驚くべき事に、秋岡は価格のデザインにも関わった。
当時の国産鉛筆の価格は、1本10円から30円。世界中で認められているドイツのファーバー・カステルとステッドラーの製品は50円から60円くらいだった。最高級であることをアピールするためには、この2大ブランドと並ぶ価格でなければならない。そう考えた秋岡は、国産では最高となる1本50円、1ダース600円という価格を三菱鉛筆に提案し、実現させた。

色に関してはファーバー・カステルにしろステッドラーにしろ、高級品をうたう鉛筆はみなブランドカラーが明確。秋岡は世界中の鉛筆を取り寄せ、そのどれとも色が重ならないように注意しながら、160色の候補のなかからオリジナルの色を模索した。
選んだのは、茶色ともエンジ色ともつかない、あの独特の色。実は、日本の伝統を感じさせるエビ茶色と、輸入品の高級感を醸し出すワインレッドを独自の割合で混合した色だった。

商品名については、秋岡側の提案により、「ユニ」というネーミングが決まった。これは「唯一の」という意味の英語“unique”に由来し、フランス語では「滑らかな」という意味も合わせ持つ。
また、「uni」のロゴマークにも秋岡のこだわりがあった。当初、ユニは建築家の製図用鉛筆を想定していたので、秋岡は「人を温かく包み込むような家を造ってほしい」という願いを込めて、丸みを帯びた優しい印象のデザインにしたという。
秋岡が中心となって決めたユニのカラーとロゴマークは、発売から50年近くを経た現在もなお、まったく変わっていない。

さらに、ユニの特徴として忘れられないのは、あのダース箱だろう。鉛筆は紙の箱に入っているのが普通だった時代に、豪華なプラスチックの箱で登場したのだ。しかも消しゴムまで入っていたから、そのまま筆箱として使うことができた。当時の秋岡が新素材として注目され始めたプラスチックの成型に凝っていたため採用したらしいが、それにしても大胆な発想だ。
後年、秋岡は「蝶番だけはプラスチック成形できずにアルミを使ったため、手作業で作ることになってしまった」と語っている。
鉛筆本体のデザインは変わっていないユニだが、ダース箱は現在の製品で4代目が登場している。30代後半から40代の中年世代が懐かしさを感じるのは3代目の箱だろう。いつの間にかプラスチック製のフタが開いてしまい、鉛筆をカバンの中にぶちまけてしまったことも、今ではいい思い出だ。

 

1本50円もした高級鉛筆は、なぜ売れたのか?

1971(昭和46)年のプレミアムグッズ「ジャンボユニ」。全長25cm、直径12mmの巨大鉛筆だった。当時のTVCMでのキャッチフレーズは「背中も掻けます」。
1972(昭和47)年のプレミアムグッズ「ユニ坊主」。まん丸の大きな消しゴムだったが、大きすぎて消しゴムとしては使いづらかった。

1958(昭和33)年10月1日、三菱鉛筆はユニを全国一斉に発売した。当時は銭湯の大人料金が16円、コーヒー1杯が50円の時代。いかに品質が優れているとはいえ、鉛筆が1本50円というのは、あまりにも一般常識からかけ離れている。数原をはじめ、同社の責任者はみないくばくかの不安を抱えていた。もしユニが失敗したら、30円クラスの他の鉛筆も売れなくなってしまうのではないかと。
同社は、ユニの需要は限られていると読んでいた。だからあえて「最高級製図用鉛筆」と銘打って発売したのだが、意外なことにその読みは完全に外れてしまった。

ユニは発売当初から爆発的な人気を呼び、予想をはるかに上回る勢いで売れたのだ。
大手百貨店や専門店はともかく、店頭を飾るつもりで置いてもらった小学校前の文房具店でも、ユニは飛ぶように売れた。あまりに売れたため、手作りのダース箱では製造が追いつかなくなり、発売6年後には機械生産できるようにダース箱をモデルチェンジしなければならないほどだった。
ユニ(普及版のユニP含む)の販売数は、発売からわずか6年で当初の10.8倍にまで達している。

ユニがここまで売れた理由は、いくつか挙げられる。まず、景気上昇の波にうまく乗ったこと。発売した58年は鍋底景気が日本全体を覆っていたが、翌年には天の岩戸景気が到来。60(昭和35)年には時の池田勇人首相が所得倍増計画を打ち出し、本格的な高度経済成長時代が始まった。消費者の購買力は増大し、安いものではなく、より良いもの、満足できるものが求められるようになっていった。ユニが持つ高級感は、人々の新たな嗜好にぴったりとはまったのだ。

百貨店や小売店など、販売する側の協力が得られたことも大きい。単価の高いユニは、従来の鉛筆に比べて圧倒的に販売効率が良かった。三菱鉛筆もまた、小売店を対象とした販売促進運動や店頭でのユニ・コーナー設置に力を入れた。
購入者に対して行ったプレゼントキャンペーンも効果的だった。ユニと聞いて、笑ってしまうほど大きな「ジャンボユニ」や、丸くて大きな消しゴム「ユニ坊主」といったプレミアムグッズを思い出す人も多いだろう。あのおまけ欲しさにユニを買い求める子供も多かった。このプレミアムグッズキャンペーンは70年代に始まり、今も継続展開されている(現在の対象商品はシャープペンシルの替え芯)。

しかし、時代は大きく変わった。鉛筆の国内生産数はシャープペンシルやボールペンの登場により、年を追って減少しつつある。黒芯鉛筆の国内生産数は、ピーク時の1965(昭和40)年が約700万グロス(1グロスは12ダース)だったのに対し、2003年は約200万グロス。60年代から70年代にかけて黄金期を迎えたユニも、80年代以降、さすがに売れ行きが落ちてきた。三菱鉛筆の売上構成比(2003年)のなかでも、もはや鉛筆の販売金額は8.9%に過ぎない。

それでも、依然としてユニは国内トップブランド鉛筆であり続けている。黒く、濃く、滑らかに書ける鉛筆の名作は、誕生から50年近くを経た今でも、その輝きを失っていない。物価上昇率からすると相対的な値段は下がっているのに、高級感がまったく失われていないのも不思議だ。
結局、ユニ以降に、ユニを越えるほどの価値観を提示できる高級鉛筆は現れなかった。文字どおり、ユニは鉛筆界における唯一の存在となったのである。

取材協力:三菱鉛筆株式会社(http://www.mpuni.co.jp/


黒芯鉛筆のユニに、新たな兄弟が登場

現在、uniは黒芯鉛筆だけでなく、色鉛筆やシャープペンシル、ボールペンなど、三菱鉛筆の筆記具ブランドとして幅広く使われている。
ユニの名を冠した黒芯鉛筆としては、1966(昭和41)年に発売された「ハイユニ」が有名だ。ユニの芯が粒子を細かくすることに重点を置いて開発されたのに対し、ハイユニの芯は大小の粒子を混合攪拌して作られていた。製造は困難を極めたが、完成した製品の書き味はユニ以上に滑らかで、芯の摩耗は驚異的に少なかった。発売当時の価格も驚異的で、1本100円。高価だったユニの、さらに2倍もした。
ハイユニとは反対に、1959(昭和34)年に1ダース360円(1本30円)の普及版として発売されたのが「ユニP」。その後、1975(昭和50)年に1ダース600円(1本50円)の「ユニスター」が発売されたのを機に「ユニP」は販売を終了。このどちらもが、ユニユーザーの裾野を広げる役割を果たした。
昨年2月、久々にユニの名を冠した「ユニ 硬筆書写用鉛筆」が登場。これは従来、硬筆書写用途で使われていた4B、6Bの鉛筆をスペック改良し、より滑らかなタッチで、濃く、黒く書けるようにした黒芯鉛筆だ。今後、文部科学省は小学校全学年にわたって硬筆書写を学習指導計画に取り入れる予定だという。多くの子供たちが再びユニを使う時代がやってきそうだ。ユニ世代の親父としては、なんだが嬉しい話である。

     
   
  ユニの8年後、1本100円という驚きの高価格で発売された「ハイユニ」。この鉛筆でなければダメという作家や画家に根強い人気を誇る。現在の価格は1ダース1,764円(税込)。  
   
  ユニ3兄弟の末弟にあたるのが「ユニスター」。プラスチックケースもシンプルな作りだが、滑らかな書き味はユニの伝統に沿ったものだ。現在の価格は1ダース756円(税込)。  
   
  新しく登場した黒芯ユニが、この「ユニ 硬筆書写用鉛筆」。芯に特殊な油を染みこませ、書いたときの摩擦が少なくなるよう工夫されている。芯も太く、トメ・ハネ・ハライの表現が可能。6角と3角の2タイプがある。価格は1ダース各1,260円(税込)。  


撮影/海野惶世(タイトル部、プレゼント) Top of the page

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