「クリームみたいな石鹸。花王石鹸ホワイト♪」
このフレーズとメロディを覚えている方は大勢いるだろう。浴室と洗面所に石鹸が置いてあるのが当たり前だった時代から、ホワイトは常に石鹸のトップブランドであり続けている。
ホワイトが発売されたのは1970(昭和45)年。35年の歴史だけを見るとロングセラーとは言えないが、実はホワイトのルーツは1890(明治23)年まで遡ることができる。当時の様子を振り返りながら、ホワイトの歴史を辿ってみよう。
日本で石鹸が一般に使われ始めたのは明治以降。海外から質の良い製品が入ってきたが、庶民には手の届かない高級品だった。そのため1870(明治3)年に大阪、その2年後には京都に官営の石鹸工場が建設され、1873(明治6年)には横浜で民間の手による製造も始まった。ところが、当時の日本の化学工業は欧米に比べると著しく技術が劣っていた。加えて、石鹸の原料であるヤシ油や苛性ソーダ、香料などは常に入手不足。その結果、巷には粗悪な石鹸が沢山出回った。「こんなもので顔は洗えない」──当時の国産石鹸の評判はひどいものだったという。
1887(明治20)年、馬喰町の裏通りに洋小間物商「長瀬商店」を創業した長瀬富郎もまた、粗悪な国産石鹸に悩まされていたひとりだった。アメリカ製の化粧石鹸と国産石鹸を同時に扱っていた長瀬には、その品質の差がよく分かっていたのだろう。
「こうなったら自分で作るしかない」と決心した長瀬は、友人や知人の協力を得ながら石鹸の製造に乗り出す。そして創業から3年後の1890年、ついに国産初の高級化粧石鹸を完成させた。
鹸化釜の中で石鹸の生地を作り、枠に流し込んで冷却・固化。その後切断・型打ちして仕上げる枠練り製法を導入。もちろん、最初から最後まですべてが手作業だった。
品質には自信があった。長瀬は、当時“顔洗い”と呼んでいた化粧石鹸の高級感を訴求するため、商品に発音が“顔”に通じる「花王」というブランド名を与えた。名付けて、「花王石鹸」。美しく仕上がった石鹸はろう紙で包み、ろう紙の上には自身がデザインした花王マークを印刷した上質紙を巻いた。さらには能書きや品質証明書を添付。それを、桐箱に3個入れて発売した。値段は35銭。輸入高級石鹸が1個20〜30銭、国産の無名柄石鹸が12個で10銭前後だったから、花王石鹸は輸入品に負けない、極めて高価な石鹸だった。 |