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ニッポン・ロングセラー考 “安心感”で選ばれ続ける クリームみたいな石鹸
花王ホワイト

“顔”も洗える高級石鹸の開発を目指して

花王の前身となる洋小間物商を創業した長瀬富郎。独立心に富んでいた彼は22歳で上京し、その2年後に自分の店を持った。
   
 
精製した原料油脂を鹸化釜に仕込み、苛性ソーダを徐々に加えて油脂を反応させる。職人による専門的な仕事だった。
   
 
記念すべき初代の花王石鹸。ろう紙と上質紙で包装されたうえで、豪華な桐箱に収められていた。傍らにあるのは月のマークの金型。

「クリームみたいな石鹸。花王石鹸ホワイト♪」
このフレーズとメロディを覚えている方は大勢いるだろう。浴室と洗面所に石鹸が置いてあるのが当たり前だった時代から、ホワイトは常に石鹸のトップブランドであり続けている。
ホワイトが発売されたのは1970(昭和45)年。35年の歴史だけを見るとロングセラーとは言えないが、実はホワイトのルーツは1890(明治23)年まで遡ることができる。当時の様子を振り返りながら、ホワイトの歴史を辿ってみよう。

日本で石鹸が一般に使われ始めたのは明治以降。海外から質の良い製品が入ってきたが、庶民には手の届かない高級品だった。そのため1870(明治3)年に大阪、その2年後には京都に官営の石鹸工場が建設され、1873(明治6年)には横浜で民間の手による製造も始まった。ところが、当時の日本の化学工業は欧米に比べると著しく技術が劣っていた。加えて、石鹸の原料であるヤシ油や苛性ソーダ、香料などは常に入手不足。その結果、巷には粗悪な石鹸が沢山出回った。「こんなもので顔は洗えない」──当時の国産石鹸の評判はひどいものだったという。

1887(明治20)年、馬喰町の裏通りに洋小間物商「長瀬商店」を創業した長瀬富郎もまた、粗悪な国産石鹸に悩まされていたひとりだった。アメリカ製の化粧石鹸と国産石鹸を同時に扱っていた長瀬には、その品質の差がよく分かっていたのだろう。
「こうなったら自分で作るしかない」と決心した長瀬は、友人や知人の協力を得ながら石鹸の製造に乗り出す。そして創業から3年後の1890年、ついに国産初の高級化粧石鹸を完成させた。
鹸化釜の中で石鹸の生地を作り、枠に流し込んで冷却・固化。その後切断・型打ちして仕上げる枠練り製法を導入。もちろん、最初から最後まですべてが手作業だった。

品質には自信があった。長瀬は、当時“顔洗い”と呼んでいた化粧石鹸の高級感を訴求するため、商品に発音が“顔”に通じる「花王」というブランド名を与えた。名付けて、「花王石鹸」。美しく仕上がった石鹸はろう紙で包み、ろう紙の上には自身がデザインした花王マークを印刷した上質紙を巻いた。さらには能書きや品質証明書を添付。それを、桐箱に3個入れて発売した。値段は35銭。輸入高級石鹸が1個20〜30銭、国産の無名柄石鹸が12個で10銭前後だったから、花王石鹸は輸入品に負けない、極めて高価な石鹸だった。


量産化と斬新なデザインで庶民の日用品に

 
発売当時の新聞広告。石鹸を使うことの効能を謳い、花王石鹸がいかに優れているかを専門家の証明付きでアピールしている。
 
明治末期に作られたポスター。当代一流の赤坂の名妓・万龍を起用し、花王石鹸の高級イメージを訴求していた。
 
 
浅草雷門付近に出した看板広告。当時は鉄道網が拡大中だったため、街中だけでなく線路沿いにも野立看板を数多く出したという。
 
 
従来の高級イメージから脱却し、日用品化することに成功した新装花王石鹸。今見てもなかなか斬新なパッケージデザインだ。
 
 
現在の東京工場の前身となる吾嬬町工場。開業間もなく関東大震災に見舞われたが、社員総出で復旧にあたり、すぐに生産を再開した。

高価な値付けであるにもかかわらず、花王石鹸の売れ行きは好調だった。その大きな理由として、長瀬が販売店や消費者に対して行った熱心な販促活動が挙げられる。
販売店に対しては、早くから特約店制度を導入。大量に仕入れてくれる店に対してはボリュームディスカウントを行うとともに、記念品として算盤を配布するなど、きめ細かいサービスを欠かさなかった。
また、一般の消費者に対しては効果的なプロモーションを行い、花王石鹸の知名度アップを図った。新聞広告はもちろんのこと、看板広告や電柱広告、劇場のどん帳、広告塔などへ積極的に出稿。花王石鹸は高級品というブランドイメージがそのまま伝わり、この時期から贈答用としての需要も伸びていった。

1914(大正3)年、第一次世界が勃発すると、好景気とともに輸入が禁止され、国産石鹸の需要はさらに拡大した。花王石鹸もこれまでのような手作り工場では生産が追いつかなくなってきたため、1923(大正12)年に吾嬬町工場(現在の東京工場)の操業を開始。本格的な大量生産体制を整えた。

この頃、会社は近代的な経営感覚を身に付けた2代目の富郎が取り仕切っていた。2代目は1931(昭和6)年、大量生産・大量販売を目指した「新装花王石鹸」を発売。品質を向上させるとともに、1個10銭という大幅な値下げを行った。
同時にパッケージのデザイン変更にも着手し、当時の一流デザイナーによるコンペを実施。その結果、オレンジをベースに「Kwa-o Soap」という白抜き文字をあしらった、原弘による斬新なデザイン案が選ばれた。このパッケージのインパクトと大胆な販売キャンペーンにより、新装花王石鹸はさらなる販売増を記録した。
もはや化粧石鹸は高級商品ではなくなっていた。庶民が当たり前のように使い、生活する上でなくてはならない日用品となっていた。 原弘によるパッケージデザインは、その後の新型花王石鹸発売まで続く。

 
 
 
1921(大正10)年、仕上げ工程にベルトシステムを採用。作業の効率化が一挙に進んだ。  
     

「花王石鹸ホワイト」発売、そしてトップブランドへ

戦後の粗悪なヤミ石鹸を打破すべく登場した「新型花王石鹸」。パッケージデザインも一新された。
   
 
1970年に登場した「花王石鹸ホワイト」。普段はホワイト以外の石鹸を使っていても、ちょっと贅沢したい気分のときにはホワイトを使うという家庭も多かった。
   

隆盛を極めた国産石鹸メーカーも、1941(昭和16)年の太平洋戦争勃発により、暗黒の時代を迎えることになる。石鹸は配給制となり、各メーカーは石鹸成分が30%しかない「戦時石鹸」しか作れなくなった。そして1945(昭和20)年の敗戦──。戦後のヤミ市には、明治初期の粗悪な石鹸以上にひどいヤミ石鹸が出回った。

花王は再び石鹸の品質を高めるべく、製品開発に力を注ぐ。1953(昭和28)年にはより洗浄力の高い「新型花王石鹸」を発売。そして1970年、今に続く定番ブランドとなる「花王石鹸ホワイト」が登場した。
ホワイトは「クリームみたいな石鹸」をキャッチフレーズに、従来の花王石鹸よりも高級なイメージをアピールした。他社の石鹸が1個30〜40円だったのに対し、ホワイトの価格は1個50円。背景には、量販店などにおける価格競争の激化があった。花王はトップシェアを取り、同時に適正な利益を上げるため、敢えて付加価値戦略を取ったのだった。

その目論見は見事に成功した。従来製品とは大きく異なる滑らかで柔らかな泡立ちと豊かな香りは、多くの消費者を惹き付けた。何よりホワイトが他の石鹸と大きく違っていたのは、文字通り白い色の石鹸ということだった。それまでの石鹸は製造工程上どうしても不純物を含んでしまうため、敢えて着色するのが常識だった。ホワイトはその常識を覆した画期的な製品だったのだ。
また製造面においても、さらに安定した品質で大量生産が可能になった。

70年代は内風呂の普及率が飛躍的に伸びた時期でもあり、石鹸業界全体が急成長した。発売から2年後、ホワイトは売上げトップに躍り出る。80年代以降は贈答品としても人気が定着した。「ちょっと高級でクリーミーな石鹸」は、やがて「家族全員が安心して使える定番石鹸」となり、徐々に日本人の家庭に浸透していった。

 

1972年
1975年
1986年
1992年
1998年
2005年
 
35年に及ぶホワイト歴史上、パッケージデザインは何度か変更されている。 ホワイトとダークブルーの組み合わせは不変だが、、ロゴは時代の空気によってさまざまだ。
 

 
新たな石鹸需要の兆しが現れつつある
ピュアホイップ
『花王石鹸ピュアホイップ』の人気は、石鹸に新しい価値観を求める消費者の存在を示唆している。写真は1個売りのスタンダードタイプ。
ピュアホイップ香りのシリーズ
4種類(ブライダル・ブーケ/ナチュラル・ハーブ/スパークリング・シトラス/フラワー・バス)から選べる香りのシリーズ。3個パック(オープン価格)

明治初期の国産石鹸黎明期から数えて約130年。長い歴史を持つ石鹸業界だが、90年代後半以降、市場規模は徐々にシュリンクしつつある。
その理由は、洗顔用石鹸は洗顔フォームへ、入浴用石鹸はボディシャンプーへと消費者ニーズが変化したこと。花王も1980(昭和55)年、洗顔石鹸に代わる肌にマイルドな中性タイプの新しい洗顔料「ビオレ」を、その4年後に液体洗浄剤(ボディシャンプー)の「ビオレU」を発売。これらは石鹸以上に「肌にやさしい成分」であることをアピールし、洗顔・入浴の新しい習慣として日本人の生活に根付いていった。

贈答需要の減少もあり、石鹸の市場規模はここ数年漸減傾向にあったが、同社の広報はここに来て消費者動向や市場動向に注目すべき現象が起きていると語る。
「石鹸市場は安定しているので、もう大きな変化はないと思われていました。ところが、ホワイトと2000(平成12)年に発売した『花王石鹸ピュアホイップ』は、前年に対して2桁の伸びを示しているんです」
ピュアホイップは、ホイップしたての泡をそのまま固めて作ったユニークな石鹸だ。泡立ちの良さはホワイト以上。その泡立ちの良さと香りが使い切るまで続く。価格は1個120円と高価だが、この製品が癒しの空間としてバスタイムを重視する若い女性や、乳児を持つお母さん層に支持されているのだという。

洗顔フォームやボディソープを使わず、こだわりを持って固形石鹸を使い続ける消費者は少なくない。高価なマルセイユ石鹸が静かな人気を集めていることもその証拠だろう。
実際の使用感においても、中性または弱酸性の液体石鹸と弱アルカリ性の固形石鹸では明らかな違いがある。洗い上げた後のすっきり感、さっぱり感は固形石鹸でしか得られないものだ。
利便性や使いやすさもさることながら、安心感やしっかり感、上質感を石鹸に求める人々が増えてきつつあるのかもしれない。
思い起こせば、それは発売当時の花王石鹸が目標としていた価値観でもある。その点においてホワイトは115年間、何も変わっていないのだ。

取材協力:花王株式会社(http://www.kao.co.jp/


ホワイトだけじゃない、花王が誇るヒット商品の数々

花王は製品だけでなく、原料までも自社で生産している業界では珍しいメーカーだ。加えて、流通拠点や販売会社もすべて自社で運営。それを活かして多種多様な商品をスピーディに開発し、機動的に流通・販売させられるのが同社の強みとなっている。
花王が行っている事業は、家庭用製品、化粧品、産業用化学製品、業務用製品の4分野。家庭用製品と化粧品事業ではメーカー名よりも商品名を表に出すブランド戦略を取っており、その中にはホワイトに並ぶくらい知名度の高い製品も少なくない。例えば、シャンプーやリンスでお馴染みの「メリット」、入浴剤の「バブ」、洗剤の「アタック」、洗剤の「マジックリン」等々。これらは花王というメーカー名ではなく、商品名だけで広く認知されている。
また、最近の同社はヘルスケア製品に力を入れていることでも知られている。体脂肪が付きにくい食用油「エコナ」とカテキンを豊富に含んだ健康茶「ヘルシア」は、昨今の健康ブームもあってどちらもヒット商品となった。これらの中から、やがてはホワイトに次ぐロングセラーが誕生するかもしれない。



             
  メリット   バブ   アタック   マジックリン   エコナ   ヘルシア  
撮影/海野惶世(タイトル部、プレゼント) Top of the page

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