紙を綴じるための文房具、ホッチキス。あまりにポピュラーな文房具なので、ホッチキスという名を普通名詞だと思っている方も少なくないのではないか。実はこれ、どうやら開発者の名前らしいのだ。有力なのは次の3説。「19世紀後半、機関銃の発明者であるアメリカのベンジャミン・B・ホッチキスが、機関銃の弾丸送出機構をヒントにホッチキスの針送り機構を考案した」、「ベンジャミンではなく、弟のエーライ・H・ホッチキスこそが開発者であり、ホッチキス社を興した人物」、「そのどちらでもなく、イギリスのアーサー・W・ホジキンスが発明した」。
結局、どの説も確たる証拠はなく、真相は今に至るまで分からずじまい。語源が人名にあることだけは確かなようだ。ちなみに、英語圏ではホッチキスではなくステープラーと呼ぶ。日本でホッチキスと呼ぶようになったのは、1903(明治36)年、伊藤喜商店(現イトーキ)が最初に輸入販売した製品に「HOTCHKISS
No.1」と刻印されていたから。いつのまにかそれが一般的な呼び名になってしまったようだ。
明治から大正にかけて、日本人も様々なホッチキスを発明した。1911(明治44)年の「自動紙綴器」、1912(大正元)年の「A式紙綴器」に始まり、1918(大正7)年には伊藤喜商店が「ハト印」を、堀井謄写堂が「コスモス印」の国内生産を開始。1926(大正15)年には、それまでの鋳物製ではなく、プレス加工で作られた「ジョイント2号」が登場している。1935年(昭和10)年頃には向野事務機製作所が2号・3号・9号の針(数字が大きいほど針のサイズは小さくなる。一般的な小型ホッチキスの針は10号)を使ったホッチキスを製造し、市場で高い評価を得ていた。
マックスが登場するのはここからだ。当時マックスは山田航空工業と称し、零戦の尾翼部品などを作っていた。戦後は社名を山田興業に改め、平和産業への事業転換を模索していた。会社にはプレスの材料とノウハウがある。それらを活かして何か作れないものか?
そんな折、同社は向野事務機製作所からホッチキスの製造技術を引き継ぐことになった。金属加工ならお手のものである。1946(昭和21)年には、早くも「ヤマコースマート」(3号ホッチキス)の生産を開始した。続いて1号・2号・5号・9号ホッチキスの生産もスタート。山田興業はホッチキスメーカーの道を歩み始めることになった。
3号ホッチキスはその後も改良を続け、卓上型の中型ホッチキスとして現在も生産されている。 |