世の中を変えるほどの画期的な商品は、意外に平凡なシーンから誕生する。お茶づけ海苔もまたそうだった。
ある日、居酒屋で酒を飲んでいた嘉男は、いつものように仕上げにお茶漬けを頼んだ。「おいしいなあ。こんなお茶漬けを家でも食べられたらいいのに」そう思った嘉男の脳裏に、父が作った海苔茶が甦った。
「そうだ。なにもお茶から離れる必要はない。海苔茶をご飯にかけたら、おいしいお茶漬けができるんじゃないか」。
この発想がすべての始まりだった。嘉男は、一気呵成に即席茶漬けの開発に乗り出した。
原料は、塩、砂糖、抹茶、昆布粉、刻み海苔、調味料。それらの種類を吟味し、配合を研究する。基本的な部分は上手くいったが、何か一つ足りなかった。ヒントは京都にあった。もともと京都には、カリカリとした小粒あられが散りばめられた「ぶぶ茶漬け」や、おかきを入れた「かきもち茶漬け」を食べる習慣がある。「あられを入れたら香ばしい風味もプラスできる」そう考えた嘉男は、早速あられを海苔茶づけに取り入れた。このあられを入れるというアイデアは、思わぬ効果もあった。あられに吸湿性があり、海苔が湿気るという問題も解消していたのだ。
1952(昭和27)年、晴れてお茶づけ海苔の原型が完成。製品は紙製の小袋を二重にし、底に石灰を敷いた瓶に100袋ずつ詰めて販売した。すべて手作業で、当時の価格は1袋10円。公務員の給料が6000円くらいだったから、かなりの高額商品だった。
開発の翌年、嘉男は永谷園本舗を設立し、看板復興の責任を無事に果たした。
ただし、お茶づけ海苔を売るのは簡単ではなかった。なにせ初めて世に出る商品である。即席商品自体が珍しかったこともあり、販売当初は相当苦戦したという。
販売ルートは東京のお茶屋が中心。嘉男自らが試食販売を行い、食べ方とおいしさをアピールした。もともと日本人には馴染み深いお茶漬けである。それが家庭で簡単に食べられるわけだから、潜在的な需要は大きかったはずだ。地道なセールスはすぐに効果を上げ、生産量は日を追って増加。会社は次々に工場を立ち上げていった。
お茶づけ海苔が瞬く間にヒット商品になった理由は、そのパッケージにもある。
黒色、萌葱色(=濃い緑色)、柿色の帯と赤のラインで構成された鮮やかな柄は、一度見たら忘れられない強烈なインパクトを消費者に与えた。こんなに鮮やかな色を食品に使う事自体、当時は画期的な出来事だったのだ。この柄、実は歌舞伎で使う定式幕(じょうしきまく)からヒントを得たもの。歌舞伎好きだった両親のために、嘉男自らがデザインしたという。また、高札に江戸文字で書かれた「お茶づけ海苔」の文字も、嘉男の手によるものだった。 |