普通の実業家なら、ここからすぐに会社を作って製品化を進めるところだ。しかし、代田は違っていた。もともと学者になった目的は、体が弱く早逝する子供たちを救いたいというところから出発している。事業化して儲けるのではなく、とにかく早く、ひとりでも多くの人々にこの乳酸菌を飲んでもらうことしか考えていなかった。
1935(昭和10)年、福岡市に代田保護菌研究所を作り、乳酸菌飲料の製造・販売を開始。その3年後、「ヤクルト」の商標を登録した。これは、エスペラント語でヨーグルトを意味するヤフルトをもとにした造語。世界共通語のエスペラントを選んだのは、ヤクルトを世界中に広めたいという、代田の強い意志からだと言われている。
研究所で作った原液はそのまま各地の販売店に配られ、そこで瓶詰めされて各家庭に届けられた。宅配で売られたのは、ヤクルトの素晴らしさを顧客に説明する必要があったため。当初、販売の中心は牛乳販売店だったが、1940(昭和15)年からヤクルトの販売を専門に行う代田保護菌普及会が全国各地に次々と誕生。多い時でその数は500社を超えていたという。
普及会という名が示すとおり、当時のヤクルトの販売は普及活動のようなものだった。商品の素晴らしさに賛同した販売会社が、草の根運動のような熱心さで顧客を開拓。値段は販売店毎にまちまちだったが、ハガキ1枚、タバコ1本程度とした代田の提唱どおり、5円くらいで売られていたようだ(正確な記録は残されていない)。
1955(昭和30)年、東京にヤクルト本社が設立され、全国の販売会社が統括される形になった。ヤクルトの販売に関して忘れてならないのは、今も続いている独自の婦人販売店システム、いわゆるヤクルトレディの存在だろう。
宅配では、どんな天候、どんな場所であってもヤクルトを最良の状態で確実に顧客の元に届けることが大切。そのためには、辛抱強く真面目に働く人の力が必要となる。それが家庭の主婦だった。主婦が働くこと自体が珍しかった時代だから、当時は極めて斬新な労働形態と受け止められたようだ。
実はこのシステムもまた、地方の販売店から自然発生的にできたものだった。それが次第に広がりをみせたため、63(昭和38)年、本社が正式に導入を決定。自転車や手押し車に沢山のヤクルトを載せてお届けするヤクルトレディの姿は、やがて全国どこでも見かける光景になっていった。
現在は、全国に約2700ヶ所ある営業所を拠点に、約5万人のヤクルトレディが働いている。時代の変遷と共に届ける時間帯は朝から昼になり、1週間分をまとめて配るようになったが、地域単位で手から手へとヤクルトを届けるエリア&ダイレクトマーケティングの考え方は、昔から変わっていない。
日本人の生活形態が変化するとともに、ヤクルトはレディがフォローできない部分を店売りでカバーするようになったが、今でもヤクルトレディは店売りの2倍の数を販売している。ヤクルトにとってはレディこそが宝物。そのことがよく分かっていた代田は、常にヤクルトレディを大切にし、慰労会を欠かさなかったという。 |