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ニッポン・ロングセラー考 Vol.43 カゴメ トマトケチャップ   洋食メニューに欠かせない自然派調味料の代表格

創業者が追求した“日本人向けの味”

創業者・蟹江一太郎

創業者の蟹江一太郎。1962(昭和37)年に二代目に譲るまで、社長としてカゴメを牽引し続けた。日本のトマト加工産業の父とも言える存在。

 
創業の頃

創業の頃の工場。すべての工程が手作業だったため、生産量は限られていた。手前にソースを入れるビール瓶が見える。

マヨネーズとケチャップ。どちらも日本の食卓を飾る洋風調味料として、もはや欠かせない存在となっている。市場規模はマヨネーズの方が大きいが、日本での歴史はケチャップの方が古い。キューピーが日本初のマヨネーズを発売したのは1925(大正14)年。対する日本初のトマトケチャップは、愛知県東海市を発祥の地とするカゴメが1908(明治41)年に発売している。
マヨネーズについては、当コーナーのVol.004で既に紹介済み。今回は再来年に誕生100年を迎える超ロングセラー調味料、カゴメ トマトケチャップの物語である。

カゴメの創業者・蟹江一太郎は兵役を終えるとき、上官の西山中尉からこんなことを言われた。
「お前の実家は養蚕農家だろう。これからは日本の農業も変わらなくてはならんぞ。どうだ、西洋野菜を作ってみたら」
養蚕の先行きに不安を感じていた一太郎は、退役後、上官の勧めどおりに西洋野菜の栽培に乗り出した。愛知県農事試験場の専門家に指示を仰ぎ、翌年にはキャベツ、パセリ、レタス、ハクサイ、そしてトマトを収穫。さっそく市場や八百屋、西洋料理店などに売り込んだ。
が、売れ行きはさっぱり。西洋野菜自体がほとんど知られていない時代だから、売れなかったのも無理はない。それでもキャベツやレタス、ハクサイなどは徐々に売れ出したが、トマトだけはいつまでたっても売れずに残ったままだった。当時は外国人でもトマトは生食せず、西洋料理店で調味料として使うのが一般的だったのだ。

とはいえ、せっかく作ったトマトを無駄にすることはできない。どうしたものかと頭を悩ませていた一太郎は、名古屋の西洋料理店の主人からトマトソースの存在を教えられる。さっそく自宅で試作を開始した。「トマトを煮てから砕いて、裏ごししているに違いない」──製法や道具に工夫を凝らした結果、1903(明治36)年にトマトソースの開発に成功。これは今で言うトマトピューレだったが、食品問屋や西洋料理店の評判は良かった。3年後、一太郎は早くも工場を建設し、本格的なトマト加工に乗り出す。

業務用のトマトソースで成功した一太郎は、次に海外では既に普及していた家庭用洋風調味料、トマトケチャップとウスターソースに目を付ける。手探りで模索して作ったトマトソースに比べると、製造自体は難しくない。ただ嗜好性が強いので、日本人の好みにあった味にする必要があった。
開発は蟹江家をあげての仕事となった。原料・調味料・香辛料の配合を変え、何度も試作を繰り返しては、自分たちの舌で味を確認していく。クローブ、シナモン、ナツメグ、ローリーといった当時は入手が難しかった一部の香辛料は、問屋の協力によって潤沢に使うことができた。
一太郎たちの苦労は1908(明治41)年に実を結ぶ。この年、トマトケチャップとウスターソースが無事に完成。2つのソースはビール瓶に詰めて販売された。ウスターソースは発売当初から好調な売れ行きを示したが、初の国産品として市場に登場したトマトケチャップは、残念ながら今ひとつの反応だった。


オムライス、ナポリタンが普及を後押し

ラベル
愛知トマトソース製造合資会社時代のトマトケチャップのラベル。
 
瓶詰め工程
トマトケチャップの瓶詰め作業。合資会社設立後はどんどん機械化が進んだ。
 
雑誌広告
これは1934(昭和9)年の『主婦之友』に掲載した広告。料理記事との抱き合わせになっている。

ウスターソースが売れてトマトケチャップがあまり売れなかった理由は、明治から昭和初期にかけての日本人の食習慣によるものと思われる。この頃の家庭料理はまだまだ粗食で、食卓に上る洋風料理もカレーライス、ハヤシライス、コロッケなどメニューは限られていた。こうした料理にウスターソースは適していたが、トマトケチャップが用途に挙げていたチキンライスやオムライスなどは、一般にはまだ飲食店でしか口にできなかったのである。

一方で、一太郎は事業の安定化を推し進めていった。まず、原料トマトの安定供給を実現するため、近隣の農家との間で契約栽培を実施。契約した畑から収穫されたトマトは全量買い入れると共に、適正な価格及び代金の支払い方法を事前に約束し、栽培農家が安心して栽培できるよう環境を整えた。
ところが、1912(大正元)年にトマトが大豊作となり、一太郎ですら原料トマトの相場を維持できなくなる。翌年には金融恐慌から不況に突入。トマトはさらに大安売りされたが、一太郎とその商品を扱う問屋は決して安売りをしなかった。安売りをすれば契約農家との約束を反故にしなければならなくなる。原料トマトの安定供給も望めない。苦渋の決断だったが、一太郎は多大な借金を背負ってこの危機を乗り切った。

「いったん不況になると、栽培・加工を個別に営んでいる農家は簡単に自滅に追い込まれてしまう」──この教訓を活かし、一太郎は家業から企業への脱皮を決意。1914(大正3)年、仲間2人と共に「愛知トマトソース製造合資会社」を設立し、近代的なトマト加工業への第一歩を踏み出した。
ちょうどこの頃、売れ行きが伸び悩んでいたトマトケチャップにも転機が訪れる。アメリカの最新トマト加工技術に詳しい専門家に指示を仰ぎ、ケチャップの殺菌方法を変えたのだ。それまでは瓶に詰めてから殺菌するために熱を加えていたので、ケチャップの色が悪くなっていた。これを、沸騰したケチャップを素早く瓶詰めし、蓋を密閉する方式に変更。これで、海外のケチャップと比べても遜色ない色と味わいを作り出すことに成功した。

トマトケチャップは徐々に売れ出した。1930(昭和5)年前後には生産量でトマトソースを上回り、1939(昭和14)年にはトマトソースの6倍近くにまで達している。
もちろん品質の向上もあるが、生産量がここまで伸びた最大の理由は、この時期に食の欧米化が一般家庭に急速に広がったためだった。なかでも、明治大正期にはほとんど飲食店でしか食べられなかったチキンライスやオムライス、ナポリタンが一般家庭で普通に作られるようになったのが大きい。同時に、会社はこの時期宣伝にも力を入れ、婦人向けの大衆雑誌に盛んに広告を打った。以降トマトケチャップは、新しい洋風メニューの必需品として右肩上がりにその需要を拡大していく。

カゴメケチャップ料理の栞
 

カゴメケチャップ料理の栞

1930(昭和5)年から9年間にわたって名古屋市の高等女学校卒業生に贈られた『料理の栞』。洋風調味料の使い方を事細かに紹介している。


細口瓶から広口瓶、そしてチューブ容器へ

 
広口瓶

トマトケチャップの需要を大幅に拡大した広口瓶。当初スクリューキャップには完全密封すると開けにくいという問題があったが、それも時間をかけて解決した。

レノパックソース

プラスチック製軟質容器のスタートとなったレノパック。主にソース類に使われていた。

チューブ入りケチャップ ニューケチャップ

(左)トマトケチャップのフォルムを決定づけたチューブ入り容器。「ニューケチャップ」のわずかな時期を除き、この形は40年間変わっていない。
(右)短命に終わったニューケチャップ。容器としては非常に優れたものだった。

トマトケチャップを語る上で忘れてならないのは、容器の変遷だ。
発売後しばらく使われていたのは、細口のビール瓶。当然ながら粘性が強いトマトケチャップは取り出しにくく、消費者は瓶を逆さにして底をポンポン叩きながら使っていた。底に残った分はしばらく瓶を逆さに立てておき、瓶の口付近にまで落ちてきたところを箸やスプーンで書き出すのが普通だった。しかし、これではいかにも使いにくい。

そこで、1957(昭和32)年に広口瓶が登場した。広口瓶は既に他社のケチャップで採用されていたが、同社の開発陣はこの瓶がケチャップの需要を大きく変えると予測。蓋も、従来の王冠から開けやすく閉めやすいスクリューキャップに変更して発売した。
消費者の反応はすこぶる良かった。いわく、「スプーンを入れて必要な量だけすくい出せるのが良い」「スクリューキャップは開けやすくて閉めやすい」等々。
この広口瓶の採用は、結果としてケチャップ業界全体の需要を拡大することになった。実際、この製品の発売時に1万トンを越えた全国の年間トマトケチャップ消費量は、その4年後には2万トン以上に増えている。

社名をカゴメに改称した1963(昭和38)年前後から、同社は更に新しい容器の開発に乗り出した。まず、62(昭和37)年にソースの容器としてプラスチックフィルム製の軟質容器であるレノパックを開発。これは軽く、簡単に製造でき、破損の心配がないという画期的な容器だった。
カゴメは、「もっと軽くて使いやすく、最後まで絞り出せる容器が欲しい」というトマトケチャップユーザーの声に応えるべく、このレノパックを発展させ、更にユニークな軟質容器を開発した。それが、66(昭和41)年に発売した「チューブ入りトマトケチャップ」だった。
新しい容器は、絞り出しできる軟質性と適度な復元性を両立し、同時に中身を守るガスバリヤー性にも優れていなければならない。検討の結果、材料にはポリ塩化ビリニデンが採用された。果たして、チューブ入りトマトケチャップはその使い勝手の良さが評判を呼び、想像以上の売れ行きを示した。
この頃、ケチャップ業界には外資が進出していたが、その影響を最小限に抑えられたのは、このチューブ入りトマトケチャップが成功したからだと言われている。

カゴメ トマトケチャップにとって、このチューブがいかに重要なものかを物語るエピソードがある。1988(昭和63)年、カゴメは製法と容器にメスを入れ、全面モデルチェンジを図った「ニューケチャップ」を発売した。
新しい容器はファッション性と機能性を兼ね備えた独特のもので、材料も異質な素材の3層構造を採用し、安全性と透明性を高めていた。また、キャップには片手で開閉できるヒンジキャップを採用し、アメリカの製品のように逆立ちさせておくこともできた。理詰めで考えれば、新製品は多くの点でチューブ入りより優れていた。が、予想に反し、消費者の反応は芳しくなかった。20年以上にわたってチューブ容器に親しんできた消費者にとって、新しい容器はまったく馴染まなかったのである。この出来事は、チューブ入り容器がカゴメ トマトケチャップのアイデンティティそのものになっていることを明確に示している。
89(平成元)年、カゴメはニューケチャップの販売を止め、再びチューブ入りケチャップを発売した。


 
減り続ける胃袋の数、だから自ら市場開拓を

有機トマト使用ケチャップ 熟つぶブレンドケチャップ
(左)今年の新製品「有機トマト使用ケチャップ」。有機野菜の美味しさを活かしながら塩分を30%カット。180g入り、参考小売価格190円。
(右)トマト果肉とみじん切り野菜が特徴の「熟つぶブレンドケチャップ」。糖類と塩分も50%カット。280g入り、参考小売価格215円。
   
ケチャップ芳潤 現行トマトケチャップ
(左)「ケチャップ芳潤」は5種類のつぶつぶ野菜とフルーツ果汁をブレンド。子供に最適。295g入り、参考小売価格215円。
(右)100年近い歴史を誇るオリジナル「トマトケチャップ」。バリエーションは500g(参考小売価格315円)、300g(同215円)など計7種類。

カゴメ トマトケチャップは、自然素材だけで作られている。完熟トマトをはじめ、糖類、醸造酢、食塩、たまねぎ、香辛料からなる原材料は、すべてが天然のもの。あの鮮やかな赤い色も、強い抗酸化作用を持つ赤い色素(リコピン)によるものだ。着色料や保存料は一切使用していない。
主原料である完熟トマトは国内外から選りすぐりの種類が集められ、その他の原料と一緒に、厳重にコンピュータ管理され、独自の黄金比率によって調合される。カゴメ トマトケチャップの味は、今までも、そしてこれからも(おそらく)変わることはないだろう。

現在、全トマトケチャップ市場におけるカゴメのシェアは、5割にも達する。この数字だけを見るとカゴメは確かに業界のトップメーカーなのだが、トマトケチャップ全体の需要については、そう安穏としてもいられないらしい。同社の広報担当者はこう語る。
「比較的低年齢層の需要が多いトマトケチャップは、少子高齢化の影響をダイレクトに受けてしまうんです。つまり、胃袋の数は確実に少なくなっている。実のところ、現在の市場規模を維持するだけでも大変なくらいなんですよ」
黙っていても売れる時代はとうの昔に過ぎ去った。食の欧米化は完全に定着し、ケチャップの需要が急拡大するメニューの登場も考えにくい。

今、カゴメは自ら積極的に新製品を開発し、消費者に新しい味や食のスタイルを提案することで、トマトケチャップの新たな市場を開拓しようとしている。現在のラインナップにある「有機トマト使用ケチャップ」「熟つぶブレンドケチャップ」「ケチャップ芳潤」などは、そうした試みの中から生まれてきた製品だ。
ただ、自然素材だけで作られているケチャップは商品企画が難しい。元々カロリーが高いマヨネーズのように、低カロリー製品を作って健康志向をアピールすることもできない。ケチャップは既に低カロリーだからだ。
となると、販売の現場には価格で勝負するメーカーが現れてくる。カゴメには創業間もない頃の経験から、「決して市場を破壊するような安売りはしない」という伝統がある。他メーカーの製品に比べてやや高く感じるのはそのせいなのだが、それでもやはり、多くの家庭の主婦が店頭でカゴメ トマトケチャップを選ぶ。そこには、100年の長きにわたって守り続けてきたカゴメならではの美味しさがある。その味は、最初から日本人の嗜好を考えて作り出されたものだった。
チューブという容器も、最初から日本人のケチャップ使用方法をよく考えた上で生まれたものだった。もとより日本人は、アメリカ人のように毎日大量にケチャップを使うわけではない。テーブルソースではなく、必要なときに冷蔵庫から取り出して使う調味料だから、逆立ちさせておく必要はないし、硬く作る必要もない。そのことを考えれば、適度に柔らかく最後まで絞り出しやすいこの容器は、充分理に叶っているのだ。

カゴメの創業者・蟹江一太郎は、アメリカ生まれのトマトケチャップを見事な手腕で日本化し、一般家庭に根付かせた。今は確かに厳しいが、カゴメは再びトマトケチャップ市場を活性化させてくれるに違いない。なぜならカゴメには、経験でしか得られない様々なノウハウが山のようにあるのだから。100年の歴史はダテではないのである。

 
取材協力:カゴメ株式会社(http://www.kagome.co.jp/)
     
3度の申請でやっと認可された“籠の目”の商標
商標の変遷 “籠の目”印
商標の変遷 トマトマーク
 
商標の変遷 現行のコーポレートマーク
 
商標の変遷。上から“籠の目”印、トマトマーク、現行のコーポレートマーク。

カゴメが初めて商標を登録したのは、1917(大正6)年のこと。愛知トマトソース製造合資会社を設立し、同業他社との競争が激化しつつあるときだった。それまでも個別の商品に商標を付けてはいたが、どれも正式に登録したものではなく、流通を担当する問屋筋もやや混乱していた。商標の登録は、問屋筋に対する信用を高めるという意味合いがあったのである。
一太郎が最初に申請したのは“五角の星”。トマトとの出会いが西山中尉の助言によるものだったからだが、五角の星は陸軍の象徴だったため、許可が下りなかった。仕方がないので二度目の申請を六角の星で行ったが、「とにかく星は使えない」ということから、これも却下。三度目に六角の星を三角ふたつを組み合わせた“籠の目”に変えて申請したところ、やっとのことで認可が下りた。最初の申請を行ってから、既に10ヵ月が経過していた。
その後ブランドマークは“籠の目”印から、カゴメ株式会社設立時にトマトマークに変更。現在の製品には、1983(昭和58)年に制定されたコーポレートマーク「KAGOME」が使われている。


撮影/海野惶世(タイトル部) タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 Top of the page

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