ウスターソースが売れてトマトケチャップがあまり売れなかった理由は、明治から昭和初期にかけての日本人の食習慣によるものと思われる。この頃の家庭料理はまだまだ粗食で、食卓に上る洋風料理もカレーライス、ハヤシライス、コロッケなどメニューは限られていた。こうした料理にウスターソースは適していたが、トマトケチャップが用途に挙げていたチキンライスやオムライスなどは、一般にはまだ飲食店でしか口にできなかったのである。
一方で、一太郎は事業の安定化を推し進めていった。まず、原料トマトの安定供給を実現するため、近隣の農家との間で契約栽培を実施。契約した畑から収穫されたトマトは全量買い入れると共に、適正な価格及び代金の支払い方法を事前に約束し、栽培農家が安心して栽培できるよう環境を整えた。
ところが、1912(大正元)年にトマトが大豊作となり、一太郎ですら原料トマトの相場を維持できなくなる。翌年には金融恐慌から不況に突入。トマトはさらに大安売りされたが、一太郎とその商品を扱う問屋は決して安売りをしなかった。安売りをすれば契約農家との約束を反故にしなければならなくなる。原料トマトの安定供給も望めない。苦渋の決断だったが、一太郎は多大な借金を背負ってこの危機を乗り切った。
「いったん不況になると、栽培・加工を個別に営んでいる農家は簡単に自滅に追い込まれてしまう」──この教訓を活かし、一太郎は家業から企業への脱皮を決意。1914(大正3)年、仲間2人と共に「愛知トマトソース製造合資会社」を設立し、近代的なトマト加工業への第一歩を踏み出した。
ちょうどこの頃、売れ行きが伸び悩んでいたトマトケチャップにも転機が訪れる。アメリカの最新トマト加工技術に詳しい専門家に指示を仰ぎ、ケチャップの殺菌方法を変えたのだ。それまでは瓶に詰めてから殺菌するために熱を加えていたので、ケチャップの色が悪くなっていた。これを、沸騰したケチャップを素早く瓶詰めし、蓋を密閉する方式に変更。これで、海外のケチャップと比べても遜色ない色と味わいを作り出すことに成功した。
トマトケチャップは徐々に売れ出した。1930(昭和5)年前後には生産量でトマトソースを上回り、1939(昭和14)年にはトマトソースの6倍近くにまで達している。
もちろん品質の向上もあるが、生産量がここまで伸びた最大の理由は、この時期に食の欧米化が一般家庭に急速に広がったためだった。なかでも、明治大正期にはほとんど飲食店でしか食べられなかったチキンライスやオムライス、ナポリタンが一般家庭で普通に作られるようになったのが大きい。同時に、会社はこの時期宣伝にも力を入れ、婦人向けの大衆雑誌に盛んに広告を打った。以降トマトケチャップは、新しい洋風メニューの必需品として右肩上がりにその需要を拡大していく。 |