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1965(昭和40)年の雪印チーズの新聞広告。栄養価が高いこと、健康に良いことを大きくアピールしていた。 |
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自動充填包装機が導入後の6Pチーズの包装工程。製造工程は大幅に効率アップした。 |
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雪印チーズのチラシと料理の栞。上のチラシは1934(昭和9)年、北海道チーズ発売時のもの。 |
その後、酪連は北海道内の製酪所を次々と吸収し、道内各地に工場を整備していった。同時に北海道だけでなく、全国に販売拠点を構築。1939(昭和14)年には、ほぼ全国レベルの流通網が完成していた。
流通網の整備に加え、酪連は宣伝にも力を入れた。主力商品となったバターやチーズの広告には当時の映画スターを使い、新聞広告や雑誌広告も盛んに出稿。雪印ブランドのバター、アイスクリーム、チーズは、徐々に全国に浸透していった。
太平洋戦争以降、酪連は時代の波に翻弄され、社名や組織形態が何度も変更された。一時は乳業とそれ以外の関連事業に分社化されたが、それらが合併されて現在の雪印乳業が発足したのは、1955(昭和30)年のことである。
この間、乳製品市場は年を追って拡大し、販売競争もどんどん激しくなっていた。前近代的な生産方式のままでは同業他社に遅れを取ってしまう。長い間、6Pチーズの生産現場は手作業が残る古い設備のままだったが、52(昭和27)年、ついに自動充填包装機が導入され、生産効率が劇的に改善された。ここから、6Pチーズの販売量は右肩上がりに伸びていく。
ここで、6Pチーズの作り方を説明しておこう。一見すると、長い円筒形のチーズを薄く輪切りにし、それを6等分した後にひとつひとつアルミ箔で包んでいるように思う。しかしそれでは手間がかかりすぎる。そこで考え出されたのが、あらかじめ6Pチーズの形をしたアルミ箔の容器を作り、そこに溶けたチーズを入れて上からフタをする「流し込み」方式。
この方式は発売当時から導入されていたが、最初は容器全体を作るのも手作業、その後もフタをする工程は手作業のままだったので、大量生産することができなかった。
6Pチーズの製造ラインに自動充填包装機が導入されたその頃、日本人の食生活にも大きな変化が起こっていた。食の欧米化が進み、日常でチーズを食べる機会が格段に増えたのである。当時主流だったブロックタイプの北海道チーズは、料理の材料、酒のつまみ、子供のおやつとして、年齢・性別を問わずあらゆる世代に好評だった。
様々なシーンで食べられるようになると、もっと簡単に、もっと手軽にというニーズが出てくる。ひとつひとつ包装されている6Pチーズは、この点でブロックタイプのチーズより優位だった。北海道チーズは昭和40年代に販売のピークを迎えるが、6Pチーズの販売量はその後も順調に伸びていく。
6Pチーズの販売を後押ししたもうひとつの理由に、学校給食のメニューとして採用されたことが挙げられる。栄養価の高さと食べやすさから、6Pチーズは学校給食にうってつけの食品だった。高度経済成長期の子供たちにとって6Pチーズは、学校でも家でも目にする日常食だったのである。「チーズといえばまず6Pチーズを思い出す」という中年層が多いのは、この給食体験があるからだろう。 |