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初代のセロハンウインナー。「ポールウインナー」という商品名はまだなく、伊藤ハムの刻印があるだけだ。 |
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セロハンウインナーのヒット後、神戸市灘区に造った工場。その後の伊藤ハムの発展は、ここがベースとなった。 |
魚肉ソーセージでの失敗は、ケーシングが不完全だったことが原因だった。肉汁が漏れてネト(糸を引く粘液)ができたりしないケーシングがあれば、衛生的にも問題はないし、豚腸や羊腸など天然腸のケーシングよりも長期保存がきく。
傳三が目を付けたのは、セロハンだった。セルロース(植物細胞の繊維成分)を加工して作るセロハンは1930年代から産業界での利用が進み、既に食品パッケージなどで使われていた。
セロハン自体は断ち屑で充分間に合うから、いくらでも手に入る。傳三は竹製の金尺物差しを紙ヤスリで削り、ケーシング製造の型を作った。これにセロハンを巻き付け、糊で接着すればケーシングができるはずだった。が、ここで思わぬ問題が発生した。
ソーセージに含まれる水分でケーシングが膨張し、接着部分から破裂してしまうのである。
原因は、接着に使ったアラビア糊にあった。アラビア糊は天然のアラビアゴムから作られる天然糊で、水に弱いという弱点があったのだ。
もっと丈夫な糊が必要だ──傳三は頭を抱えたが、ある時ふと、図書館通いをしていた時に読んだ本から、コンニャク糊のことを思い出した。これはコンニャクイモを細かく砕き、熱を加えて作る糊のことで、水に濡れても剥がれにくい性質がある。一般には太平洋戦争末期、日本軍がアメリカ本土を爆撃するために飛ばした風船爆弾に使ったことで知られている。傳三はそれより10年も前に、コンニャク糊を平和利用していたのだった。
1934(昭和9)年、傳三は世界初のセロハンウインナーを完成させた。原材料は豚肉が85%、ほかに兎肉などを使った。工場はまだなく、完全な手作りである。当初は妻がセロハンでケーシングを作り、傳三がその中に10匁(37.5g)ずつソーセージを詰め合わせていった。ケーシングの先端には現在のような金具ではなく、紐を使った。
思いどおりのソーセージはできた。問題は、これをどう売るかだった。傳三は手始めに神戸の売店や飲食店を回って売り歩いた。売値は1本5銭。売店はそれを20銭、バーやカフェは30銭という値段でお客に売った。決して安くはなかったが、これが飛ぶように売れた。戦中・戦後の混乱期で食糧事情が悪かったこともあるが、1本10匁という定量販売だったこともプラスに働いた。当時の天然腸ケーシングを使ったソーセージは容量がまちまちなので、店頭での量り売りが中心。店にとってもセロハンウインナーは、売上げの計算がたてやすかったのだ。
「セロ1本くれ」──酒のつまみになるセロハンウインナーは、バーやカフェでの人気が高かった。冬は湯煎して温め、カラシを付けて食べる。今は当たり前のこんな食べ方を流行らせたのもセロハンウインナーだった。
注文は次々と入ってきたが、生産は妻と2人だけの手作りだからとても間に合わない。しかも資本が少ないから、材料費がなくなると作りたくても作れない状態に陥った。
新しい工場の設立を考えた傳三は、資本を集めるために画期的な方法を思い付く。それが、セロハンウインナーの引換券だった。用意したのは11枚綴りの5円券と22枚綴りの10円券。購入者は5円券で50銭、10円券で1円得する計算になった。その代わり支払いは前金が原則。これで、傳三は200円近くを集めることができた。
神戸市灘区備後町に新工場を造り、伊藤栄養食品工業を設立したのは1948(昭和23)年。セロハンウインナー誕生から14年が経過していた。 |