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ニッポン・ロングセラー考 Vol.52 キャラバンシューズ 日本人を山へと駆り立てたトレッキングシューズの原点

“より軽く、歩きやすい靴”をマナスル遠征隊のために

佐藤久一朗氏

キャラバンシューズを開発した佐藤久一朗。写真はアイガー登頂に成功したときのもの。当時69歳。自身も登山家だったが、登山靴の開発に生涯を捧げた。撮影/小西政継氏

ヒマラヤのポーターとキャラバンシューズ

ヒマラヤのポーターの足裏とキャラバンシューズ。このソールがヒマラヤの大地を踏破した。

1956(昭和31)年5月9日、日本山岳会隊がヒマラヤの巨峰、マナスル(標高8156m、世界8位)の初登頂に成功した。8000m級の巨峰に日本人が登頂したのは、これが初めて。世界中の登山隊が初登頂を目指すなかでの快挙だった。
日本中がこのニュースに沸いた。マナスル遠征隊をサポートし続けた毎日新聞は一面で大きく採り上げ、時の鳩山首相も喜びのコメントを寄せた。マナスル登頂成功は、戦後の日本人が自信を回復していく象徴的な出来事となった。

実は日本山岳会は、1953(昭和28)年と54(昭和29)年の二度、マナスル登頂に失敗している。登頂成功は三度目にやっと手にした栄誉だったのだ。
槇有恒隊長ら12人の隊員には、惜しみない賞賛が与えられた。そしてもうひとつ、多くの登山家から賞賛を与えられた存在があった。
マナスル遠征隊がベースキャンプ(登頂成功時は3850m)に至るまでの間、履いていたアプローチ用シューズ。愛称“キャラバン”──隊員たちは皆、この靴をそう呼んでいた。その名に限りない信頼を込めて。

キャラバンの生みの親とされる人物がいる。名前は佐藤久一朗。慶應の学生時代から山岳部で活躍し、1950(昭和25)年には先輩にあたるマナスル遠征隊の槇隊長とともに、日本山岳会ヒマラヤ委員会の委員長に就任していた。
佐藤には、誰にも真似できない特技があった。手先が極めて器用で、登山靴やザックなどの登山用具はもちろん、家具や背広、印鑑に至るまで、道具という道具はすべて自作するほどのアイデアマンだったのだ。この特技から、ヒマラヤ委員会では装備担当を任されていた。

1952(昭和27)年、翌年の第一次マナスル遠征が決まると、装備もそれに応じたものが必要となった。ほとんどの登山用具は特注品が採用されたが、靴に問題が残った。
ベースキャンプから山頂までは今までどおり、アッパーに丈夫な皮革を用い、靴底に金属を入れた重登山靴を使う。問題はベースキャンプまでの長い道程に使うアプローチ用のシューズだった。まだ地下足袋で山に登る人もいたその頃、日本には今でいう“軽登山靴”そのものがなかった。過酷なヒマラヤのアプローチを地下足袋や運動靴で歩くことはできない。どうしても“軽くて履きやすく、岩場でも滑らず、しかも靴擦れしない”靴が必要だった。
「作れるか?」槇は佐藤に尋ねた。「もちろんですとも」佐藤は即答した。佐藤にとって、それは当然の依頼だった。


日本に登山を広めるため、市販化を決意

プロトタイプ

マナスル遠征隊に提供したプロトタイプ。シンプルな機能美に溢れており、現在でも通用しそうなデザインだ。

市販化第1号

市販化モデル第1号。デザインや細部の意匠はプロトタイプとほとんど変わらない。

藤倉ゴム工業での製造過程

藤倉ゴム工業での製造の様子。写真の射出成型法が導入されるのは1960年代半ばで、それまでゴム底は押し出し成型で作っていたという。

佐藤はある会社の役員だったが、このアプローチ用シューズの開発に没頭した。使用目的から、靴のアッパー(本体)には綿帆布を、ソール(底)には凸凹のラグパターンを刻んだゴム底を選んだ。これなら軽くて丈夫にできるし、濡れた地面でも滑らない。
だが、実際の製造は簡単ではなかった。ゴム底を綿帆布のアッパーにうまく接着できなかったのである。佐藤はアイデアマンではあるが、ゴムの専門家ではない。ここはプロの技術が必要だった。

佐藤が幸運だったのは、山岳部の同窓生のひとりが藤倉ゴム工業に勤めていたことだろう。当時、藤倉ゴム工業は革製登山靴のゴム底や、ゴムの履き物を作っていた。佐藤は同社に協力を要請し、何度も試作を繰り返した結果、ゴム底と綿帆布のアッパーを隙間なく接着した試作品を作ることに成功した。
佐藤の本領はここから発揮される。マナスル遠征隊員全員の足型を正確に調べ上げ、ひとり一人の足型にぴったりの靴を作り上げたのだ。日本人の足型の特徴は、甲高・幅広だということ。その上で、重心のかかり方や指の長さなど各人各様の特徴がある。
佐藤は自ら木型を削り出し、隊員全員のオリジナルシューズの設計図を書き上げた。工場はその設計図に基づき、丁寧に靴を作っていった。完成したのは、第一次マナスル遠征隊が出発する直前のことだった。

初登頂はならなかったが、第一次マナスル遠征から帰ってきた隊員たちは、口々に佐藤と藤倉ゴム工業が作った靴を褒めたたえた。いわく、「長く履いていても全然疲れない」「足にぴったりして動きやすい」等々。
彼らは、佐藤にこう進言した。「こんなに素晴らしい靴を遠征隊だけが使っているのはもったいない。ぜひ商品化して、一般の登山家に使ってもらいましょう」と。
製品の名称は自然に「キャラバンシューズ」と決まった。登山におけるキャラバンとは、大量の物資を運ぶポーターの行列のこと。マナスル遠征隊は、現地でこの靴をそう呼んでいたのである。

1954(昭和29)年、佐藤は銀座に株式会社 山晴社を設立し(後にキャラバンと改称)、キャラバンシューズの販売を開始した。製造は、もちろん藤倉ゴム工業。最初の製品は、マナスル遠征隊用に作ったものとほとんど変わらなかった。アッパーのくるぶし部分には、「日本山岳会推奨」と刻印されたマークが誇らしげに貼られていた。
当時の資料が残っていないので正確な値段は不明だが、62(昭和37)年当時で2000円前後だから、それよりやや安かったくらいだと思われる。本格的な重登山靴に比べると格段に安く、その優れた性能はマナスル遠征隊が証明していた。キャラバンシューズは一般登山家の注目を集め、徐々にその名を知られていくことになる。


子供たちもキャラバンシューズを履いて耐寒登山へ

キャラバンスタンダード

キャラバンシューズの代表的存在、「キャラバンスタンダード」。総理大臣賞を受賞するなど、その性能は高く評価された。生産はすべて国内。

キャラバンの様々なバリエーション

キャラバンシューズの豊富なバリエーション。スタンダード以外にも、個性的な製品が数多く販売された。1972年のカタログから。

キャラバンシューズの販売に火が付いたのは、日本山岳会がマナスル初登頂に成功してからだった。これ以降、日本国中で山を目指す人々が増え、いわゆる第一次登山ブームが巻き起こる。
ブームとはいえ、当時の山登りは岩登り、沢登り、雪山登山といった本格的なもの。道具にもそれなりの性能が求められた。しかし、にわか登山家に本格的な登山家が履くような重登山靴は大げさすぎる。キャラバンシューズは登山初心者の目的に叶う、ほとんど唯一の選択肢だった。

1959(昭和34)年、キャラバンシューズはモデルチェンジされ、「キャラバンスタンダード」となった。発売以来、細かな変更はあったが、この年の変更は今までになく大がかりなものだった。
まず、アッパーの綿帆布をゴム引きナイロンに変更。これにより防水性が大きく向上した。ソールの土踏まず部分には、「トリコニー」と呼ばれる鉄製のスパイクを装備。濡れた岩場などでの滑り止め効果はさらにアップした。ただし、これらの変更で重量はやや増えてしまった。
色は紺と赤の2種類。といえば、「ああ、あの靴か」と思い当たる方も多いのではないだろうか。

1960年代から70年代にかけて、多くの小学校、中学校では林間学校や耐寒登山といった授業が行われていた(今でもあるのかもしれないが)。キャラバンシューズは学校推奨を受けることが多く、多くの生徒が学校を通じて購入していたのだ。
筆者にも同様の経験があって、耐寒登山で履いたキャラバンシューズのゴツイ感覚を今でもよく覚えている。「こんな凄い靴を履かないと登れないのかあ」と、根性無しの筆者は山に登る前から気が萎えていた。男の子は紺、女の子は赤。結局それ以降はキャラバンシューズを履かなかったけれど、記憶にはしっかりと刷り込まれている。
販路が広がったこともあり、この頃のキャラバンシューズの販売数は右肩上がりに伸びていった。最盛期は1年間に約20万足を売り上げたという。特殊用途の靴であることを考えれば、驚くべき数字といえる。

その後キャラバンスタンダードは、履き口にスポンジクッションを付けたり、裏地にチェック柄を用いるなど、毎年改良を加えていった。基本的なスタイルを変えず、徐々に完成度を高めていくやり方は、ロングセラーの常道といっていい。
一方でキャラバンは、スタンダード以外の商品バリエーションも増やしていった。毎年出されるカタログを見ると、より本格的な登山家を想定したヘビーデューティなものから、気軽なハイキングにも使えるカジュアルなものまで、毎年製品ラインナップが増えているのがよく分かる。
登山はもう、一部の愛好者だけのレジャーではなくなっていた。


 
生産終了後も寄せられる“復活を願う声”

グランドキングGK-56

グランドキングで最も売れている人気商品「GK-56」。ナイロンとレザーを組み合わせたミドルカットタイプ。19950円。

グランドキングGK-26

フィールド用の新商品「GK-26」。グリップ力と衝撃吸収性に優れたソールを採用している。18375円。

キャラバンシューズは登山ブームを支え、日本人を山へと駆り立てる立て役者となった。
文部科学省登山研究所のデータによると、日本の登山人口は1976(昭和51)年で約360万人。それが97(平成9)年には約580万人にまで増えている。2000年以降はやや減少傾向にあるが、それでも400万人以上の水準にある。現在は90年代に始まった第二次登山ブームの最中にあるのだ。ただ、その内訳は大きく変化した。今、登山人口の約7割は40代以上の中高年が占めているといわれる。

登山のスタイルも昔に比べると様変わりした。山までの交通の便が良くなり、麓の宿泊施設も充実してきた。装備は昔とは比較にならないくらい軽くなり、登山靴も多機能化・軽量化・ファッション化が進んでいる。キャラバンシューズを履いて冬山登山に挑戦したかつての若者たちは、年齢を重ねた今、よりカジュアルに山を楽しもうとしているのだ。
こうした登山スタイルの変化は、キャラバンシューズの命運に少なからぬ影響を与えた。稀代のロングセラー登山靴となったキャラバンスタンダードは、2003年にその生産を終了。総生産数は、50年の歴史で約600万足にも及んだ。今は1981年に登場した「グランドキング」ブランドが、キャラバンシューズのコンセプトを受け継いでいる。

生産終了後も、キャラバンのオフィスには「キャラバンシューズを復活して欲しい」という電話がよくかかってくるという。また、ボロボロになったキャラバンシューズを自分で丁寧に修理し、山登りを続けている愛好家も少なくない。キャラバンは自社製品のリペアサービスを実施しているが、アッパーとソールが完全に一体化しているキャラバンシューズは、残念ながらその対象になっていないのだ。だからこそというべきか、登山靴の歴史におけるキャラバンシューズの存在価値は、ますます高まっているような気がする。

進化は続けたが、ゴアテックスのような高い防水・防湿性を持つ最新素材は最後まで使われなかった。新世代のグランドキングより重く、デザインはいかにも武骨だった。90年代以降、キャラバンシューズは古びてしまっていたのかもしれない。
だが、キャラバンシューズは間違いなく日本でいちばん愛用された登山靴である。マナスルに挑戦した日本を代表する登山家も、古くから山を知るベテランの一般登山家も、耐寒登山に参加させられた小学生や中学生も、みんなキャラバンシューズを履いて山に登った。なぜなら、山に登るにはその靴が必要だったから。トレッキングシューズの原点が、その靴にはあったから。

開発者の佐藤久一朗は長く仕事中心の生活を続けていたが、後年山へ回帰し、69歳になってスイスアルプスのアイガー登頂に成功している。記録は残っていないが、その時、佐藤が履いていたのは自身が手直ししたキャラバンシューズだったのではないか。そんな気がする。この靴を履いて世界の巨峰に挑戦したいと誰よりも強く願っていたのは、ほかならぬ佐藤だったはずだから。

 
取材協力:株式会社 キャラバン(http://www.caravan-web.com
     
ひと味違う、キャラバンのウォーキングシューズ
諸国漫遊靴、0210創
「諸国漫遊靴」創(つくり)。重厚感あふれる仕上げのチロリアンシューズ。31500円。

本格的な登山ではなく、もっと気軽に山歩きを楽しみたい──中高年を中心としたユーザーからは、そんな声が聞こえてくる。子供の手が離れた世代の間では、もう何年も前からウォーキングが流行っているのだ。ウォーキングシューズは、里山や街中を元気に散策するための靴。デパートやスーパーの靴コーナーには、様々なメーカーの製品が山のように置かれている。
今春、登山靴を専門とするキャラバンもこの分野に参入した。一般的なウォーキングシューズは、“軽くてしなやか、足にフィットして長時間履いても疲れない”というのが特徴だが、キャラバンが発売した「諸国漫遊靴」はちょっと違う。歩きやすさや疲労の少なさはもちろんだが、山歩きをするために必要な、“ある程度の硬さ”を備えているのだ。ソールのしっかりした作りなどからも、キャラバンならではのこだわりが見て取れる。

 
タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト Top of the page

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