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麺を入れて揚げた手作りの型枠。これも安藤のアイデアが生んだ道具だった。 |
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会社はチキンラーメン発売時に日清食品へ商号変更。 |
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発売当時の工場の様子。ほとんどの工程は手作業で行われていた。 |
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記念すべき最初の「チキンラーメン」。パッケージをデザインしたのは、安藤の友人である画家の竹内仙之助。窓が開いているのは、消費者に中身を理解してもらうためだった。 |
試行錯誤の末、麺の配合がやっと決まった。次なる問題は、どうやって麺にスープを染み込ませるか。小麦粉の中にスープを練り込むと、出来上がった麺はボソボソになってしまう。それではと、蒸した麺をスープにつけてみると、今度は粘りが出過ぎてなかなか乾燥しない。結局、ジョウロを使ってスープを麺に振りかけ、自然乾燥させた後に手で揉みほぐす方法に落ち着いた。手間はかかるが、このやり方なら麺の表皮に均一にスープを染み込ませることができた。
最後の難関は、この味付麺をどうやって乾燥させ、熱湯で素早く戻せるようにするか。この問題をクリアすれば、保存性と簡便性を同時に実現できる。しかしなかなか良い方法が見つからず、安藤は再び開発の迷路に迷い込むことになった。
道は思わぬところから開けた。ある時、安藤が台所に入っていくと、妻が天ぷらを揚げている。何気なく見ていると、油の中に入れた衣が泡を立てて水を弾き出している。よく見ると、揚がった天ぷらの表面には小さな穴が沢山開いているではないか。「なるほど。この原理を応用すれば良いんだ」安藤は直感的にそう思い、すぐに実験してみた。麺を油の中に放り込んでみると、麺の中の水分がパチパチと弾き出され、カラカラに揚がった麺には無数の穴が開く。その麺に熱湯を注ぐと、今度は穴からお湯が吸収され、短時間のうちに麺が柔らかくなったのである。
麺を均一に揚げる方法にも工夫が必要だった。適当な固まりのまま油に放り込むと、麺はバラバラの状態で浮き上がってしまう。結局、針金と金網を使って四角い型枠を作り、その中にほぐした麺を入れて油で揚げることにした。この方法によって、四角い形を保ったまま、麺を均一に揚げることが可能になった。
安藤が開発したこの製法は、麺を瞬間的に乾燥させ、同時にお湯で戻しやすくする一石二鳥の画期的な発明だった。しかも油で揚げることによって、麺に独特の香ばしさを付け加えることもできる。
安藤はこの製法を「瞬間油熱乾燥法」と名付け、1962(昭和37)年に「即席ラーメンの製造法」として特許登録した。同時に、乾麺に味を付ける方法も「味付乾麺の製法」として特許を登録。この2つの特許は、インスタントラーメン黎明期の基本的な製法特許となった。
では、スープの味をチキンにしたのはなぜだろう。後年、安藤はその理由をこう語っている。
「開発当時、自宅の庭でニワトリを飼っており、時々調理して食べていた。ある時、調理中のニワトリが突然暴れ出すのを見た息子が、好物だった鶏肉を全く口にしなくなってしまった。ところが妻が鶏ガラスープを作ったら、息子は喜んで食べている。それを見て、私は開発中のラーメンのスープをチキン味にすることを決めた」
チキンは料理の基本的な味のひとつ。ヒンズー教徒は牛を食べないし、イスラム教徒は豚を口にしないが、鶏を食べない国はまず存在しない。チキン味は、後に日清食品が世界に進出する際にも大きなプラス要因となった。
開発からほぼ1年、安藤のインスタントラーメンはついに完成した。開発途中から安藤が「チキン、チキン」と叫んでいたため、商品名は自然に「チキンラーメン」に決まった。
大阪・梅田の阪急百貨店で500食を試食販売した時の価格は、85g入りで1袋35円。うどん玉1個が6円、普通の乾麺1個が25円の時代だったから、チキンラーメンはかなり高い値付けだった。それでも「お湯をかけて2分でできるラーメン(当時は2分と謳っていた)」のキャッチフレーズに、集まってきた主婦は興味津々。試食後の評判もすこぶる良く、用意した500食は瞬く間に売り切れた。
「これはいける!」安藤は確かな手応えを感じていた。
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