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ニッポン・ロングセラー考 Vol.57 日清食品 チキンラーメン 誕生から半世紀を数える元祖インスタントラーメン

食に対する夢を追い求め、無一文状態から開発に着手

研究小屋
研究小屋

「インスタントラーメン発明記念館」内に復元された安藤の研究小屋。広さはわずか10平方メートル程。すべてはここから始まった。

終戦直後の大阪。梅田駅裏手の焼け野原に闇市が立っていた。寒さ厳しい冬の夜、ある男が偶然そこを通りかかり、異様な光景に目を止めた。粗末な身なりの人々が2、30mにも及ぶ長い行列を作り、震えながら順番が来るのを待っている。男はいぶかりながらその先にあるものを確かめた。薄明かりの中から立ち上る白い湯気。ラーメンの屋台だった。
焦土と化した街で、人々はみな食べものに飢えていた。すいとんや雑炊はまだましな方。芋の蔓にさえ手を伸ばす人が大勢いた。「たった一杯のラーメンのために、人はこんなに努力するのか」──男の脳裏に、この光景が深く焼き付いた。同時に、暗示のような予感もあった。「ここには大きな需要がありそうだ」と。

男の名は安藤百福(ももふく)、この時35歳。台湾生まれの実業家で、織物事業や機械部品製造などで成功していたが、戦災でほとんどの資産を失っていた。街にあふれる飢えた人々の姿を見た安藤は、新たに“食”の事業を興す決意を固める。
手始めに行った製塩事業を契機に、1948(昭和23)年、食品会社「中交総社」を設立。この頃安藤は、アメリカの余剰小麦を使ったパン食を奨励する当時の厚生省に対し、「粉食を進めるなら、なぜ東洋文化そのものである麺類を推進しないのですか」と疑問を呈している。厚生省の返事は、「麺類業者は零細事業が多く、量産技術も流通ルートも確立されていない。それ程言うなら安藤さん、あなたがやったらどうですか」というものだった。
後年、安藤は、「終戦直後の闇市で見た屋台の行列と、麺類に関する厚生省とのやりとり。この2つの出来事が、10年後の私をラーメンの世界へと導くことになった」と述懐している。

1957(昭和32)年、安藤は思わぬトラブルに巻き込まれた。懇願されて理事長に就任していた信用組合が倒産し、完全な無一文になってしまったのだ。残ったのは大阪・池田の自宅だけ。
苦境に陥った安藤だったが、彼にはこれまでにも数多くの成功と失敗を繰り返してきたタフさがあった。このピンチをかねてからの発想を形にする最大のチャンスだと考えた安藤は、ラーメンの開発に乗り出したのである。
とは言っても、部下もいなければ資金もない。なじみの大工に頼んで自宅の庭に小さな小屋を作ってもらい、そこを研究所にした。中古の製麺機も安く手に入れた。巨大な中華鍋、大量の小麦粉や食用油などの道具は、自転車の荷台にくくり付けて研究所に運び込んだ。

安藤会長

チキンラーメンの生みの親にして日清食品の創業者・安藤百福。2005年まで会長職を務め、2007年1月、96歳で他界した。

作りたいのは既存のラーメンとは全く違う、新しい食べ物である。開発に当たって、安藤は5つの目標を設定した。第1に、美味しくて飽きのこない味であること。第2に、家庭で常備できる保存性の高いものであること。第3に、調理に手間のかからない簡便な食品であること。第4に、値段が安いこと。そして第5に、衛生的で安全であること。安藤は頭の中で、あらかじめスープの味が染み込んでいる乾燥麺をイメージしていた。
しかしながら、食品事業の経験はあっても、安藤は麺については全くの素人。これらの目標はあまりにもハードルが高く、研究はすべて手探り状態だった。裸電球の明かりの下で、思いついたことをメモにしては壁に貼り、来る日も来る日も麺の製造に明け暮れた。人手が足りない時は、家族の手も借りた。
麺は奥が深く、小麦粉、水、塩などの配合加減が難しい。つなぎや旨み成分としてさまざまな材料を練り込んでみたが、どれもうまくいかなかった。出来た端から捨てていくという、気の遠くなるような作業の連続。睡眠は毎日4時間しか取れなかった。
だが、安藤は気づいていた。失敗を繰り返しながらも、自分が少しずつ前進していることを。明かりは、すぐ先に見えていた。


てんぷらの原理を応用して生まれた「瞬間油熱乾燥法」

麺を入れて揚げた型枠
麺を入れて揚げた手作りの型枠。これも安藤のアイデアが生んだ道具だった。
田川工場時代の社員一同

会社はチキンラーメン発売時に日清食品へ商号変更。

工場の様子

発売当時の工場の様子。ほとんどの工程は手作業で行われていた。

チキンラーメン1958

記念すべき最初の「チキンラーメン」。パッケージをデザインしたのは、安藤の友人である画家の竹内仙之助。窓が開いているのは、消費者に中身を理解してもらうためだった。

試行錯誤の末、麺の配合がやっと決まった。次なる問題は、どうやって麺にスープを染み込ませるか。小麦粉の中にスープを練り込むと、出来上がった麺はボソボソになってしまう。それではと、蒸した麺をスープにつけてみると、今度は粘りが出過ぎてなかなか乾燥しない。結局、ジョウロを使ってスープを麺に振りかけ、自然乾燥させた後に手で揉みほぐす方法に落ち着いた。手間はかかるが、このやり方なら麺の表皮に均一にスープを染み込ませることができた。

最後の難関は、この味付麺をどうやって乾燥させ、熱湯で素早く戻せるようにするか。この問題をクリアすれば、保存性と簡便性を同時に実現できる。しかしなかなか良い方法が見つからず、安藤は再び開発の迷路に迷い込むことになった。
道は思わぬところから開けた。ある時、安藤が台所に入っていくと、妻が天ぷらを揚げている。何気なく見ていると、油の中に入れた衣が泡を立てて水を弾き出している。よく見ると、揚がった天ぷらの表面には小さな穴が沢山開いているではないか。「なるほど。この原理を応用すれば良いんだ」安藤は直感的にそう思い、すぐに実験してみた。麺を油の中に放り込んでみると、麺の中の水分がパチパチと弾き出され、カラカラに揚がった麺には無数の穴が開く。その麺に熱湯を注ぐと、今度は穴からお湯が吸収され、短時間のうちに麺が柔らかくなったのである。

麺を均一に揚げる方法にも工夫が必要だった。適当な固まりのまま油に放り込むと、麺はバラバラの状態で浮き上がってしまう。結局、針金と金網を使って四角い型枠を作り、その中にほぐした麺を入れて油で揚げることにした。この方法によって、四角い形を保ったまま、麺を均一に揚げることが可能になった。
安藤が開発したこの製法は、麺を瞬間的に乾燥させ、同時にお湯で戻しやすくする一石二鳥の画期的な発明だった。しかも油で揚げることによって、麺に独特の香ばしさを付け加えることもできる。
安藤はこの製法を「瞬間油熱乾燥法」と名付け、1962(昭和37)年に「即席ラーメンの製造法」として特許登録した。同時に、乾麺に味を付ける方法も「味付乾麺の製法」として特許を登録。この2つの特許は、インスタントラーメン黎明期の基本的な製法特許となった。

では、スープの味をチキンにしたのはなぜだろう。後年、安藤はその理由をこう語っている。
「開発当時、自宅の庭でニワトリを飼っており、時々調理して食べていた。ある時、調理中のニワトリが突然暴れ出すのを見た息子が、好物だった鶏肉を全く口にしなくなってしまった。ところが妻が鶏ガラスープを作ったら、息子は喜んで食べている。それを見て、私は開発中のラーメンのスープをチキン味にすることを決めた」
チキンは料理の基本的な味のひとつ。ヒンズー教徒は牛を食べないし、イスラム教徒は豚を口にしないが、鶏を食べない国はまず存在しない。チキン味は、後に日清食品が世界に進出する際にも大きなプラス要因となった。

開発からほぼ1年、安藤のインスタントラーメンはついに完成した。開発途中から安藤が「チキン、チキン」と叫んでいたため、商品名は自然に「チキンラーメン」に決まった。
大阪・梅田の阪急百貨店で500食を試食販売した時の価格は、85g入りで1袋35円。うどん玉1個が6円、普通の乾麺1個が25円の時代だったから、チキンラーメンはかなり高い値付けだった。それでも「お湯をかけて2分でできるラーメン(当時は2分と謳っていた)」のキャッチフレーズに、集まってきた主婦は興味津々。試食後の評判もすこぶる良く、用意した500食は瞬く間に売り切れた。
「これはいける!」安藤は確かな手応えを感じていた。

 


消費者主導で注文が殺到、爆発的なヒット商品に

チキンラーメン初期CM
チキンラーメン初期CM

初期のテレビCM。安藤は放送開始時からテレビの宣伝効果を重視していたという。

類似品

類似商品の数々。中には本物とほとんど見分けが付かないものまであった。

意外なことに、百貨店ではあれ程好評だったチキンラーメンも、問屋筋にはすこぶる評判が悪かった。「袋に入っただけで、今までの乾麺とどこが違うんや?」「うどん玉が6円でっせ。誰が6倍も金出してラーメン買いまっかいな」。どの問屋からも、そんな冷たい反応しか返ってこなかったという。
だが、安藤はあくまでも強気だった。商品に絶対の自信を持っていたので、どの問屋にも現金での決済を依頼したのである。「米は掛け売りをしていない。ラーメンだって主食的な商品なのだから、手形決済するのはおかしい」というのが安藤の主張だった。その熱意に負けて、大阪木津市場の食品問屋・中谷商店が、正規の取り扱いを決定。正式な発売日は1958(昭和33)年8月25日だった。
発売当初の流通量は限定的なものとなったが、そんな状況もすぐに一変した。安藤の元に、問屋から次々と注文の電話が入ってきたのである。「安藤さん、チキンラーメン売れるがな。100ケースでも200ケースでも持ってきて!」
問屋筋の不安をよそに、チキンラーメンは消費者の心を一気につかんでいたのだ。「美味しい!」「簡単に食べられて便利」そんな声が続々と安藤の元に届いた。「魔法のラーメン」──いつしかチキンラーメンはそう呼ばれるようになっていた。

その頃、チキンラーメンは倉庫跡に建てた小さな工場で生産しており、1日に6000ケース作るのがやっとだった。工場の前にはトラックが連なり、商品を待ち構えている。商品が不足したため、問屋との決済も現金から前金に変わった。さすがの安藤も、こんな状況は全く予想していなかったという。
「もっと本格的な工場と流通システムが必要だ」。そう考えた安藤は、大阪・高槻市に広大な工場を建設した。新工場では日産10万食以上を生産したが、それでも需要に追いつかない。爆発的な売れ行きで、工場用地の購入代金が1ヶ月の売り上げで賄えた程だった。
安藤は、チキンラーメンの販売を三菱商事など総合商社3社に任せることにした。特約卸店は全国に約3000店。その下に膨大な数の小売店が連なった。

それにしても、チキンラーメンはなぜこれ程までのヒット商品になったのだろう。第1に、流通が味方したことは間違いない。チキンラーメンが発売された1958(昭和33)年は、奇しくもダイエーがチェーン展開を始めた年だった。スーパーという欧米型の流通システムが徐々に浸透し、商品を大量販売するルートが全国各地に開かれていったのである。事実、チキンラーメンは卵と共にダイエー食品コーナーの特売品となることが多かった。
第2に、高度経済成長に伴う人々の生活スタイルの変化がある。仕事やレジャーに使う時間を重視するようになり、主婦も家事全般に簡便性を求めるようになった。ラーメンやコーヒーなどのインスタント食品は、その象徴的な商品と言えるだろう。
第3の要因は、マスメディアへの積極的な露出である。日清食品は発売翌年から新聞にチキンラーメンの広告を打っていたが、安藤の狙いは急速に普及が進むテレビでの宣伝効果にあった。日清食品は「イガグリくん」「ビーバーちゃん」「オリンピックショー・地上最大のクイズ」など、幅広い層に向けた番組を提供。チキンラーメンの知名度を着実に高めていった。

もちろん、良い事ばかりが続いたわけではない。ヒット商品の宿命と言うべきか、日清食品は発売翌年からチキンラーメンの類似商品に悩まされることになった。商品名に「チキン」が付いているだけならまだしも、パッケージデザインまでそっくりに真似た商品も少なくなかったのである。
ちなみに日清食品は、1959(昭和34)年にパッケージの意匠を、その2年後には商品名を登録している。同社はチキンラーメンの名を使っている13社を相手取り、訴訟を起こした。裁判は同社の勝利に終わり、チキンラーメンの名は晴れて安藤の元に戻ってきた。
困った事に、こうした係争は製法特許を巡っても起こった。特許は日清食品が持っているのに、異なる製法特許を主張する会社が後を絶たなかったのである。業界は大いに混乱し、インスタントラーメンの普及そのものも危ぶまれた。「小異を捨てて大同につく」気持ちで業界の取りまとめに当たった安藤は、64(昭和39)年に「日本ラーメン工業協会」を設立。商売の命でもある製法特許権を公開した。


 
誕生に続く第2の発明となった“たまごポケット”

チキンラーメン1967
チキンラーメン1971

1967年。まだ窓が残っている。この頃、中身は□型から○型へ変更された。

1971年。商品の認知が進み、保存性を考慮して窓が消えた。

チキンラーメン1991
チキンラーメン現行

1991年。キャラクターを「ちびっこ」から「ひよこちゃん」に変更。

現行商品。お湯を注いで3分、煮込んで1分の食べ方は昔と同じ。希望小売価格100円。

チキンラーメン5食パック
焼チキン

「チキンラーメン5食パック」。現在の販売はこちらが主力だ。希望小売価格500円。

「焼チキン」。普通のインスタント焼きそばとはちょっと違う味わい。希望小売価格100円。

高度経済成長と共に、自らが切り開いたインスタントラーメン市場を牽引し続けてきたチキンラーメン。だが市場が活性化するにつれてその構造は徐々に変わり、黎明期に比べると現在の市場は大きく様変わりしている。
1962(昭和37)年にはスープ別添タイプのインスタントラーメンが登場し、幅広い人気を獲得。味付麺は次第に数が減っていった。60年代後半に市場が飽和状態になったところで、71(昭和46)年に安藤は「カップヌードル」を開発、発売した。以降、カップ麺は徐々に売れ行きを伸ばし、今では袋麺に代る主力商材となっている。ちなみに日本即席食品工業協会のデータによると、2006(平成18)年における日本のインスタントラーメン生産量は、袋麺が18億9400万食。それに対してカップ麺は32億2900万食。生タイプを含めた年間総生産量は53.1億食で、日本人一人当たりの消費量は41.3食になるという。

ここ数年、市場全体はほぼ横ばい状態にあるが、袋麺の市場は徐々に縮小しつつある。厳しい状況が続いているわけだが、そんな中にあってもチキンラーメンだけは別格の存在だ。もちろん市場縮小の影響は受けているが、2003(平成15)年には過去最高の1億7700万食を生産。最近になって売れ行きを伸ばしているのである。
そもそもチキンラーメンは、他の袋麺と違ってブランド内でのバリエーションを作りにくい。スープの味がチキンに限定されているからだ。それでも、1991(平成3)年にはカップ麺タイプの「チキンラーメンどんぶり」と「チキンラーメンどんぶりミニ」を発売。94(平成6)年には袋麺の「チキンラーメンmini」を発売している。以降も、どんぶりやマグカップ、土鍋とのセット商品を数量限定で随時発売。味はチキンのまま、商品の形態やアイデアで勝負しているのだ。近年のヒット商品は07年7月に発売した「焼チキン」。チキンラーメン味の焼きそばで、これもまたアイデアの勝利といえるだろう。

2003(平成15)年に売れ行きを大きく伸ばした理由のひとつに、“45年目の大発明”とうたった「たまごポケット」がある。卵を載せやすくするため、チキンラーメンの上面に窪みを付けたのである。
このアイデアが大当たりした。多くの消費者がチキンラーメンに卵を載せて食べていたが、丼の中で麺が傾いていたら、卵がスープの中に落ちてしまう。窪みがあれば、卵は真ん中にきれいに収まるというわけだ。ちなみに卵をきれいに仕上げるには、あらかじめ器を温めておき、白身に直接かかるよう熱湯を回し入れるのがコツだとか。
この年は人気タレントを起用したCM効果や冷夏の影響などもあり、チキンラーメンにとっては記念すべきラッキーイヤーとなった。

形こそバリエーションが増えたが、チキンラーメンは発売当時からその味を変えていない。内容量も85gのままだ。パッケージも袋から麺が見えたり、キャラクターが変わったなど変更はあるが、基本的には昔のイメージを今も踏襲している。ファンにとっては、チキン風味のロースト醤油味、そして黄色と白の縞模様パッケージでなければ、チキンラーメンとは呼べないのである。袋麺にはロングセラー商品が多いが、“変わらなさ”という点では、何をおいてもチキンラーメンが一番だろう。
今年、チキンラーメンは発売50周年を迎える。日清食品も大規模な仕掛けを考えているというから、今まで以上に市場で注目を集めるに違いない。中身もパッケージも変えないまま、新しいファンを増やし続けている元祖インスタントラーメン。チキンラーメンは平成20年の今もなお、「魔法のラーメン」なのである。

 
取材協力:日清食品株式会社(http://www.nissinfoods.co.jp/
     
チキンラーメンを手作りできる!──インスタントラーメン発明記念館
記念館外観400
「インスタントラーメン発明記念館」の外観。阪急宝塚線・池田駅から徒歩5分。

安藤百福の業績を記念し、1999(平成11)年、大阪府池田市に建てられたのが「インスタントラーメン発明記念館」。いわゆる企業ミュージアムで、チキンラーメンの誕生エピソードやインスタントラーメンの歴史、世界のインスタントラーメンなど、インスタントラーメンにまつわる数多くの展示物を見ることができる。中でも見どころは、安藤がチキンラーメンを開発した小さな小屋(研究所)。細かな部分まで再現されており、チキンラーメンのファンでなくとも感動するに違いない。
自分で小麦粉をこね、味付けをしてチキンラーメンを作る「チキンラーメン手作り体験工房」(要予約)や、オリジナルカップヌードルを作れる「マイカップヌードル・ファクトリー」など体験型のコーナーもあり、大人も子供も充分に楽しめる。2006年7月には入場者が100万人を達成した。

チキンラーメン手作り体験工房600
チキンラーメン手作り体験工房600
記念館内部
記念館内部
「チキンラーメン手作り体験工房」は子供に大人気。
休日は家族連れでにぎわう。

タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト Top of the page

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