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記念すべき世界初の缶コーヒー「UCCコーヒーミルク入り」。飲み口はプルトップではなく、トップに付けられた缶切りで開けるようになっていた。 |
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1970(昭和45)年に完成した大阪綜合工場。コーヒーの計量・焙煎から包装・商品化まで全てを行う近代的な工場で、缶コーヒーもここで生産された。 |
開発に当たって、上島らは単なる「コーヒー」ではなく、「ミルク入りコーヒー」であることにこだわった。1960年代、一般家庭において乳飲料は高級品であり、健康に寄与するというイメージが浸透していたからだ。同時に、甘み成分にも気を遣った。自然の甘みを重視した結果、当時普及していたサッカリンやチクロといった人工甘味料ではなく、砂糖を選んだ。
ところが、開発を進めてすぐに問題が持ち上がった。コーヒーの抽出液とミルクを溶かして缶に入れても、缶の上部にミルクが浮いてしまい、うまく溶け合わないのである。この問題はミルク製造業者と一緒になって研究を重ね、ミルクの粒子を均質化する技術を導入して解決した。
次に直面したのは、殺菌処理による味の変化だった。UCCが作ろうとしている缶コーヒーは、商品分類上は乳固形分を3%以上含む「乳飲料」にあたる。長期保存するためには、低温殺菌ではなく高温処理する必要があった。ところが、どうやっても加熱臭が付いてコーヒーの風味が悪くなってしまう。開発陣は失敗したコーヒーを飲み続けながら、加熱後に美味しく感じる最適な成分比率を探り続けた。その結果、ミルク及び砂糖:コーヒーのベストな比率がほぼ7:3であることを発見。味の問題はこれで解決した。
最後に待ち受けていた難題が、コーヒーと缶の間で起こる化学反応だった。従来の缶メッキ技術では、溶接部分に使うハンダや金属缶から鉄イオンが溶出し、コーヒーの成分のひとつであるタンニンと結合してしまう。その結果、コーヒーが真っ黒になってしまったのである。これを見て、さすがの上島も「ブラックコーヒーを作れとは言うてないで」と苦笑するしかなかったという。
化学反応を避けるためには、缶の内側に特殊なコーティングを施すしかない。開発陣は製缶技術の専門家に指示を仰ぎながら、来る日も来る日も実験を繰り返した。工場裏には大型トラック数台分の試作用缶コーヒーの空き缶が潰され、山積みにされていった。
開発に当たったある役員が、当時の様子をこう振り返っている。「ひとつの缶がコーヒー代と同じくらいしたから、本当に大変でした。気持ちを支えたのは、コーヒー屋の意地と執念だけ。ほかの業者に先を越されるわけにはいかなかったんです」
缶のコーティング問題は苦労の末に解決した。完成したコーヒーを試飲した上島は、「成功、満点や」とひと言だけ言い、感涙にむせびながら開発陣一人一人の手を握ったという。
UCCが世界初の缶コーヒー「UCCコーヒーミルク入り」を発売したのは、1969(昭和44)年の4月。値段は喫茶店のコーヒーとほぼ同じで、1本70円だった。今も続くシンプルで印象的な「三色缶」は自社のデザイン。赤はコーヒーの実、白はコーヒーの花、そして茶は焙煎したコーヒー豆の色を表している。
「UCCコーヒーミルク入り」は、UCCの技術を結集して作り上げた自信作だった。社内の誰もが、「これは売れる」と固く信じていた。
だが、UCCの思惑は見事なまでに外れた。コーヒー業界からは、「こんな商品は邪道だ。コーヒーとして認めるわけにはいかない」と無視されたのである。ならば直接消費者へアピールして売り込みたいところだが、喫茶店など業務用ビジネスに力を入れていたUCCには、家庭用の販売チャネルがほとんどなかった。せっかくいいものを作ったのに、このままでは大変なことになる。上島は社員を叱咤激励した。それに応えるべく、社員も一丸となって缶コーヒーの販売に乗り出した。
とにかく人目に付くところで販売し、缶コーヒーの存在を知ってもらう必要がある。営業マンは鉄道弘済会売店(キヨスク)のルートを開拓し、大声で缶コーヒーを指名買いしたり、買った缶コーヒーを車窓に並べるなどして宣伝に努めた。また、販売とは直接関係のない社員たちも食料品店などに飛び込み営業を行い、販売ルートの開拓に尽力した。涙ぐましい努力はほぼ1年にわたって続けられたが、残念ながら実際の販売には結び付かなかった。缶コーヒーは市場に受け入れられないのか?──社内に暗いムードが漂い始めた頃、思いがけないところから大きなチャンスが巡ってきた。
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