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ニッポン・ロングセラー考 Vol.60 サクラクレパス クレパス クレヨンとパステルの特長を合わせ持つ日本生まれのオリジナル描画材料

誕生の背景にあった、自由画教育運動の高まりとクレヨンの普及

山本鼎氏

2つの美術運動で歴史に名を残した山本鼎画伯。長野県上田市には記念館もある。

その箱を開ける時は、いつも心がときめいた。赤、青、黄、緑。そうそう、群青色や深緑なんていう珍しい色もあったっけ。形はクレヨンやパステルとそっくりだけど、クレヨンより色がはっきりしていて、パステルのように画用紙から剥がれることもなかった。好きな色を使えることが嬉しかったし、なんだか少し絵を描くのが上手くなったような気もした。
サクラクレパスの描画材料「クレパス」──誰もが一度は使ったことがあるだろう。団塊の世代の方々も、そろそろ中年の皆さんも、この春から社会人という若い人たちも。もしかしたらあの頃使ったクレパスが、まだ机の引き出しに眠っているかもしれない。
クレパスは、サクラクレパスが商標を登録しているオリジナル商品だ。他にも似たような描画材料はあるが、クレパスと呼べるのはサクラクレパスの商品だけ。分類上の一般名称は「オイルパステル」という。

クレパスが誕生したのは1925(大正14)年。誕生の背景を探るために、1910年代(大正初期)にタイムスリップしてみよう。
当時の小学校では、図画の時間に描画材料として、鉛筆、色鉛筆、水彩絵具が使われていた。子供たちはまず鉛筆で線画を描き、色を塗るのに低学年では色鉛筆を、高学年になると水彩絵具を使っていた。ただし色鉛筆は低品質で折れやすく、色数が少なかった。また水彩絵具も皿に入った日本画用絵具の転用品で、色付きが悪く、鮮やかさに欠けていた。つまり、線を描くのには適していても、色彩の描写には向かない描画材料だったのである。
そもそも、当時の図画教育自体が子供の創造性を重視したものではなかった。線や立体を表現し、そこから説明図や地図などを描くという実利重視の内容で、成績も模写の上手下手で決まった。描画材料は、ただ線が描ければよかったのである。
その一方で、1917(大正6)年頃からアメリカのクレヨンが輸入されるようになっていた。実利的な図画教育が行われていた時代にあっても、先進的な教育を実践する東京高等師範の付属小学校や欧米型の教育に熱心な一部の私立小学校は、図画の時間にいち早くクレヨンを採り入れていた。着色や発色に優れ、削る手間もいらない棒状絵具のクレヨンなら、子供たちはもっと伸び伸びと絵を描けるはず──現場の教育者にはそんな思いがあったのだろう。

桜クレィヨン

サクラクレパスがクレパス発売以前に売っていた「桜クレィヨン」。

この頃は第一世界大戦が終わり、いわゆる大正デモクラシーが日本全国を巻き込んでいった時代にあたる。民主主義・自由主義の思潮は政治・社会・文化などあらゆる方面に浸透し、当然、美術教育界にも台頭しつつあった。
その旗振り役となったのが、画家・版画家の山本鼎(かなえ)だった。山本はフランス留学の帰途、ロシアに立ち寄り、そこで目にした児童画と農民工芸に大きな衝撃を受ける。子供たちは思いのままに自由な絵を描き、農民は農閑期に工芸品を作って生計の足しにしていた。美術の有り様が日本とは全く違っていたのである。
帰国後、山本は自由画教育運動と農民美術運動に力を入れるようになる。1919(大正8)年に長野県の小学校で開催した講演会を皮切りに、「模写を成績としないで創造を成績とする」という彼の主張は、瞬く間に全国に広がっていった。それは、手本を忠実になぞることばかりに注力している当時の児童美術教育に対する、強烈なアンチテーゼだった。

自由画教育運動を実現するためには、子供が伸び伸びと絵を描ける新しい描画材料が必要になる。それまで細々と輸入されていたクレヨンの需要に火が付いた。1910年代後半から20年代にかけて各地にクレヨン製造業者が現れ、一気に国産化が進む。
サクラクレパスの前身にあたる日本クレイヨン商会(すぐに桜クレイヨン商会と改称)も、この時期にクレヨン事業を始めた会社のひとつだった。創業は1921(大正10)年。早くからクレヨンを図画の授業に採り入れていた成城学園(東京)の教師だった佐武林蔵と、彼の義兄たちが中心となって興した会社だった。
サクラクレパスが他社と違っていたのは、事業にかける創業者たちの真剣さだったかもしれない。佐武は蓄財も教職もすべてなげうってこの事業に取り組んでいた。創業の2ヶ月後に、彼は長野県にあった山本鼎のアトリエを訪問し、クレヨン事業への支援と指導を求めている。同時に山本を会社の役員として迎えた。サクラクレパスと山本鼎の終生に渡る親交は、この時から始まった。


「かたい・夏用」「やわらかい・冬用」の2種類あった最初のクレパス

クレパス製造機
クレパス製造機の第1号機。ローソク製造機を改良して作った物だった。
最初のクレパス―夏
最初のクレパス―冬

発売当時のクレパス。「かたい・夏用」と「やわらかい・冬用」は、それぞれ液体油の成分や分量が異なっていた。

1923(大正12)年に起こった関東大震災の翌年、サクラクレパスは大阪へ移転した。クレヨンの需要はますます伸びている。もっといいクレヨンを作るための助言を得ようと、サクラクレパスの佐々木昌興は長野の山本宅へと足繁く通っていた。佐々木はサクラクレパス創業メンバーの一人で、それまでやっていた炭坑事業を畳んでクレヨン事業に参加した人物。ある日のこと、佐々木は山本からこんな助言を与えられる。
「なあ佐々木君、クレヨンの時代は長くないかもしれんよ。色がちょっと下品だし、何より色を混ぜることができないからね。もしパステルのようによく混ざり、それでいてしっかり紙に定着し、なおかつクレヨンと同じくらいの値段の描画材料ができたらどうだろう。クレヨンは電灯の前に消えゆくランプのような存在になるんじゃないかね」

山本の助言は、新しい描画材料の姿をそのまま言い表していた。確かにクレヨンには、固くて手にべとつかず、画用紙に定着しやすいという利点がある。だがその硬さゆえどうしても線描が中心になり、絵を描く上で欠かせない混色ができない。一方、当時クレヨンと同じ棒状絵具として人気のあったパステルは、軟らかいので混色しやすく、様々な面描効果を出すことができる。だが顔料の粉が画用紙の上に付着しているだけなので、定着液を吹き付けなければすぐに絵具が擦れてしまう。子供たちにとっては手間のかかる描画材料だった。
「なるほど、先生の言うとおりだ」佐々木はそう思った。パステルのように自由に混色ができて、クレヨンのように後処理が必要なく、油絵具のように厚みのある塗り方ができる描画材料──それこそ子供にとって理想的な描画材料ではないか。会社に戻った佐々木は仲間たちと共に、その日から新しい描画材料の開発に乗り出した。

クレパスは、顔料にバインダーとして固形ワックス(蝋)と液体油を混ぜ合わせ、溶解して練り上げ、棒状に固めて作る。この組成はクレヨンに近く、既にクレヨンを製造していたサクラクレパスには充分なノウハウがあった。それでも、完成までには多くの試行錯誤があったという。佐々木は試作品ができるたびに長野の山本の元へと出向き、助言を仰いだ。帰社後は助言を元に試作品を作り直し、会社に身を寄せていた画家の卵たちに実際に使わせて、その効果を試してみた。
苦労が実ったのは1925(大正14)年。「便利で安価な点はクレヨンに似て、自由自在に色が混ざる点はパステルに似ている」ことから、佐々木自身がクレパスと名付け、同時に商標を登録した。
当時の資料がほとんど残っていないので値段などの詳細は不明だが、8色入りと12色入りのパッケージが、「かたい・夏用」と「やわらかい・冬用」のそれぞれ2種類あったようだ。

夏用と冬用に分かれていた理由は、当時のクレパスに使われていた椰子油や硬化油が、寒暖の影響を受けやすかったため。四季を通じて一定の硬度を保つことが難しかったので、サクラクレパスは苦心の末、硬めの夏用と軟らかめの冬用に作り分けたのである。
ところが、肝心の商品の切り替えが上手く進まなかった。流通事情が今程良くはなかったこと、さらには販売する側の手間がかかることなどから、店頭に並ぶ時期がしばしばズレてしまったのである。また、クレパスは買ってすぐに使い切る商品でもない。夏用のクレパスを冬に使おうとすると固くて使い物にならず、逆に冬用のクレパスを夏に使おうとすると軟らかすぎて溶け出す有様だった。消費者からの苦情が相次いだ結果、サクラクレパスは市場に出回っていたクレパスをすべて回収。会社の経営は危機に瀕し、新たな出資に頼るところまで追い込まれた。
「なんとしてでも通年で使えるクレパスを作らなければ」──佐々木はじめ、経営陣の全てがそう思ったに違いない。サクラクレパスは、持てる知恵と資産のすべてを商品の改良に集中した。

 


学童用描画材のスタンダードになった「ほんとの」クレパス

ほんとのクレパス

1950年代、ほとんどの小学生が使っていた「ほんとの」クレパス。1953(昭和28)年当時で、12色入りが40円、15色入りが50円だった。

昭和34年のクレパス
昭和44年のクレパス、16色入り

昭和30年代のクレパスのパッケージ。50歳前後の人ならこのクレパスの記憶があるかも。

1969(昭和44)年にリニューアルしたクレパスのパッケージ。写真は「サクラクレパス太巻16色」。

現行クレパス、24色入り

現行クレパスのパッケージ。ゴム付きになったため、横長だった25色入りは2段並びの24色入りに変更された。価格は1008円。

サクラクレパスにクレームが相次いでいたちょうどその頃、井上源治郎という有能な技師が入社してきた。佐々木は彼にクレパスの改良を託し、研究のために大阪市立工業研究所に通わせた。井上は通年使用できるクレパスの要点が高融点の蝋にあることを突き止め、天然のカルナバ蝋に着目。だがカルナバ蝋は価格が高く、商品化するのは難しかった。そこで、安価な蝋の開発を目指して研究を進めた結果、合成の高融点蝋を作ることに成功したのだった。
通年タイプのクレパスが発売されたのは1928(昭和3)年。発売当時は“棒状絵具の大革命”ともてはやされながらも、すぐに躓いたクレパスにとって、これは仕切り直しの大切な商品だった。

この時のパッケージがなかなか興味深い。大書きされたクレパスの文字の左上に、小さく「ほんとの」と書かれている。わざわざこんな事を書いたのは、もちろん数多ある類似品対策のためだった。
サクラクレパスは商標だけでなく、1926(大正15)年に「速乾固形絵具」として製造法の特許も取得している。それでも、クレパスが売れるのを見て、巷には似たような商品が次々と溢れ出てきた。中には堂々とクレパスの名をかたる商品まであったという。時代が時代だとはいえ、いくらなんでもこれではたまらない。「ほんとの」という但し書きは、商品を守るための苦肉の策だったのだ。

では、実際の売れ行きはどうだったのだろう? サクラクレパスはクレヨン発売時に関西の大手問屋と契約を結び、以来、小学校や文具店など主要販路を次々と開拓してきた。それでも新商品のクレパスとなると、先生や生徒たちに一から使い方を教えなければならない。当時の営業マンは背中のリュックにクレパスを詰め込み、日本中の小学校を訪ね歩いたという。
その甲斐あって。年を追う毎にクレパスが小学校の図画教材として採用されるケースが増えてきた。販売のピークは、今から約50年前の1950年代。これは1947〜49(昭和22〜24)年の間に生まれた団塊の世代がちょうど子供の頃にあたる。団塊の世代の人口は約800万人。仮にその半分が使ったとしても、販売数は驚くべき数字になる。この世代に「ほんとの」クレパスのパッケージを覚えている人が多いのは、学校推奨で購入するケースが多かったためだ。「ほんとの」クレパスは、誕生から約20年をかけて学童用描画材料のスタンダードになったのである。

その後、数度のパッケージデザインの変更こそあったが、クレパスはその組成やサイズをほとんど変えていない。大きな変更があったのは1969(昭和44)年。この年、子供たちが持ちやすいよう全てのクレパスが太巻になった。同時にパッケージも、従来の緑色系から薄橙系のものに変更。このパッケージデザインは現行商品にもほぼそのまま使われているので、おそらく40代半ば未満の人たちには、このクレパスの共通体験があるはずだ。
ちなみに学校から推奨される事が多かったのは、16色入りのクレパス。中にはカバンの中で蓋が開いてしまい、カバンの内側が塗り絵状態になってしまった経験がある人もいるかもしれない。ということから、昨年以降に発売されたクレパスのパッケージには、中身がバラバラになりにくいよう、ゴム付きのケースが使われている。


 
子供だけの画材じゃない!──クレパスの魅力を大人に訴求

過去の専門家用クレパス

昭和初期に発売されていた専門家用クレパス。残念ながら広く普及するまでには至らなかった。

サクラハイクレパス

大人向けの「サクラハイクレパス25色」。学童用より鮮やかで重厚な発色が特長だった。

クレパス スペシャリスト

現行商品「クレパス スペシャリスト85色(88本入り)」。ここまでくるとモノとしての存在感も充分。16,800円。

クレヨン、パステルと並ぶ学童用描画材料の代表格となったクレパス。最後発ながら、クレヨンやパステルの市場に食い込んだという点では画期的な商品と言えるだろう。だが、学童用として広く普及したということが、逆にクレパスの市場を狭くしてしまったとも言える。
元来、クレヨンもパステルも学童用に限定された描画材料ではない。棒状の油絵具とも言えるクレパスもまたしかり。サクラクレパスも早くからそのことを意識していたようで、1937(昭和12)年には専門家向けのクレパスを商品化している。だが、この商品は一部の画家たちに愛用されたにとどまり、絵を趣味とする大人の描画材料としては定着しなかった。

その一方で、太平洋戦争の最中は油絵具の輸入が途絶えてしまったこともあり、多くのプロの画家たちが油絵具の代用品としてクレパス画を描いていた。最初は代用品としての意識しかなくても、描いていくうちにクレパスの持ち味を生かしたオリジナリティ溢れる作品を発表する画家が現れ、クレパス画はちょっとしたブームになったという。戦後の1951(昭和26)年に開催された「現代大家クレパス画展」には、猪熊弦一郎、小磯良平、野口彌太郎といった名だたる画家たちが作品を発表している。

だが戦争が終わって再び油絵具が入手しやすくなると、プロの画家たちは徐々にクレパスから離れていった。それでもサクラクレパスは専門家向けクレパスの開発を諦めず、戦後も厳選した高級顔料を使用した「サクラハイクレパス」を発売。さらに2000(平成12)年には、角形形状にして面描だけでなく線描にも対応できるようにした「クレパス スペシャリスト」をラインナップに加えている。中でも88本入り木箱セットの豪華さは舌を巻くほど。学童用描画材料の印象は微塵もなく、まさしくプロの道具である。

近年、サクラクレパスは全国で「大人のクレパス画教室」を開催し、絵を描くことから離れていた大人たちに、再び絵画の楽しさを教えようとしている。ここで子供の頃に親しんだクレパス画の魅力を再認識し、本格的に始める中高年も少なくないらしい。確かに、上手に描かれたクレパス画を目にすると、「クレパスでここまで描けるのか」と驚くことがよくある。
サクラクレパスの担当者はこう言う。「私たちの心のどこかに、クレパスは子供の描画材料という刷り込みがなされているんです。でも、決してそうではありません。大人も充分に楽しめる奥の深い描画材料なんです。あまりにも子供用の描画材料として普及してしまったため、そのことがほとんど知られていないのは残念ですね。私たちは『大人のクレパス画教室』を通して、情報の入れ替えを試みているところなんです」

クレパスは、今でも小学校低学年向けの描画材料として学校から推奨されることが多い。全国で約230万人いる小学校低学年(1・2年生)の児童数を考えると、マーケットそのものは決して小さくない。だが、子供の絶対数は年々減っている。もはや学童需要だけに頼るわけにはいかない。クレパスの未来を左右するのは、かつてクレパスで絵を描いていた大人たちなのである。

何十年ぶりになるのだろう。新しいクレパスを買って絵を描いてみた。モデルは椅子の上で眠っている猫。黒いクレパスで薄く輪郭を描き、茶色と白を重ねながら塗っていく。そうそう、この感触。この色の鮮やかさ。描いているうちに昔の記憶がよみがえってきた。それに、なんだか思っていたよりもずっと楽しい。
80年以上に渡り、クレパスはほとんど変わっていない。そしてクレパスを使って絵を描く楽しさもまた、変わっていない。

 
取材協力:サクラクレパス(http://www.craypas.com/
     
描画材料の歴史や特性を勉強できる珍しいミュージアム
サクラアートミュージアム館内
サクラアートミュージアム館内。ほぼ月に1回、企画展が開催されている。
大阪市中央区森ノ宮、サクラクレパス本社ビルの1階にある「サクラアートミュージアム」。ここはサクラクレパスの企業ミュージアムとして、描画材料の歴史や特性などを紹介するユニークな企画展を随時開催している。2008年の年間テーマは「鑑賞を科学する」。油絵の道具と技法の基礎を学ぶことが狙いだという。「顔料 〜絵画のための顔料を知る〜」「油絵具の発達と絵画技法の変遷 〜巨匠に学ぶ油彩画の技法〜」といったテーマで開かれる展覧会は、他ではまずお目にかかれないだろう。実際、美術関係者や学生の来館者が多いらしい。
また、こうした企画展だけでなく、絵画の実技を教えるアトリエ開放講座も定期的に開催している。2008年6月1日〜7月21日までと9月28日〜11月17日までは「大人たちのクレパス画教室」を開催予定。クレパス画に少しでも興味が湧いたなら、次は自分で描いてみてはいかがだろう?
 
タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト Top of the page

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