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イラストを使った広告。1950〜60年代、新聞や雑誌に数多く露出していた。 |
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カネヨ製品の新聞・雑誌広告。高品質であることをアピールしている。
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商売人としての再起をかけて発売したカネヨクレンザーだったが、高めの値付けと商品の新規性が仇となり、発売当初はなかなか思うように売れなかった。
毎日足を棒にして問屋を回っても、一個も見本を引き取ってもらえない日々が続いた。そんなある日、治作は遂に腹を決める。札幌時代に自身が考案して実践した“鈴木式リヤカー商法”を再びやろうというのだ。リヤカーにカネヨクレンザーを積み込み、部下と二人で問屋を訪問する。商品をリヤカーから降ろして問屋に運び込み、リヤカーをちょっと離れた先に停めておく。商談がうまくいかなくても、「リヤカーが先に帰ってしまったので商品を持ち帰れません。戻って来るまで置かせて下さい」と頼み込み、そのまま帰る。商品が気になる問屋は電話をかけてくるが、その日は取りに行かず、明くる日再び出向いて交渉する。こうすると、たいていの問屋は治作のしぶとさに根負けして商品を置いてくれるのだった。
果たして、カネヨクレンザーは徐々に売れるようになっていく。ブームがやって来たのは、戦後になってからだった。
戦後の高度経済成長期、クレンザー市場は右肩上がりに伸びていった。背景には、日本人の食生活が大きく変わったという事情がある。食の欧米化が進み、油を使う料理が多くなったのだ。台所用の合成洗剤が登場するのは1950年代半ば。それまではクレンザーが台所用洗剤の主役だったのである。
クレンザーが支持された大きな理由として、その優れた洗浄力がある。当時広く使われていたアルマイトの弁当箱を洗うのに、クレンザーほど便利なものはなかった。また、主成分が白土という自然物であるという点も、主婦には評判が良かったという。つい最近まで磨き砂や米の研ぎ汁で食器を洗っていたわけだから、合成洗剤に抵抗がある主婦も多かったのである。
1950年代後半から60年代前半にかけては、大小様々なメーカーがクレンザー市場に参入し、業界は激しい競争時代に入った。最盛期には100種類を越えたと言われているから、相当大きな市場だったのだろう。
そんな厳しい市場の中で、カネヨクレンザーが抜きん出る存在になれたのはなぜか? その大きな理由は、巧みな宣伝力と地道な営業力にあった。
治作は早くからマスメディアの効果に注目しており、1949(昭和24)年にはラジオCMを流してカネヨクレンザーを宣伝している。また、新聞や主婦向け雑誌への広告出稿も頻繁に行った。消費者向けのプレゼントキャンペーンはもちろん、当時東京の蔵前にあった国技館を借り切って特売会を行うなど、直接消費者にアプローチする宣伝方法を積極的に取り入れていたのである。
同時に、治作は販売拠点作りにも力を入れた。40〜50年代にかけて、関東圏を中心にカネヨ会と呼ばれる問屋グループを組織。クレンザーの需要が伸びることを見越して、大手メーカーと互角に戦えるような販売網をしっかりと作り上げたのである。
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現行のカネヨクレンザー。350g入り。90円(税抜)。
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現行のカネヨソフトクレンザー。350g入り。90円(税抜)。
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発売当時のカネヨソフトクレンザー。細部が少し違うが、ほとんど同じデザイン。
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赤い箱に入ったカネヨクレンザーは、「赤函」という愛称で庶民に親しまれた。1957(昭和32)年には、クレンザー第2弾となる「カネヨソフトクレンザー」を発売。こちらは中身に界面活性剤を加え、より傷が付きにくく、滑らかに汚れが落とせるのが特徴だ。青と白のシンプルなパッケージは「青函」と呼ばれ、赤函と並んでカネヨ石鹸の主力製品となっていく。
この赤函と青函は、せいぜいパッケージの商品コピーを変更したくらいで、現在もそのパッケージデザインをほとんど変えていない。赤函のアール・デコ調イラストやロゴタイプは今もプロのデザイナーから高く評価されているし、青函のパッケージはシンプルデザインの極致と言ってもいいだろう。
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