ナビゲーションを読み飛ばすにはここでエンターキーを押してください。
COMZINE BACK NUMBER
ニッポン・ロングセラー考 Vol.65 養命酒製造 養命酒 健康を守り続けて400年日本を代表する薬酒に成長

製法は旅の老人から伝授された?──伝説に彩られた創製の物語

塩沢宗閑翁の図

行き倒れていた老人を救う塩沢宗閑翁の図。

塩沢宗閑翁の図

老人から霊酒の製法を伝授される塩沢宗閑翁の図。

古文書

塩沢家伝来の古文書。養命酒は作るのに2300日余りもかかる事、製法が秘伝中の秘伝である事などが記されている。

お酒に生薬を浸しておくと、アルコールに生薬の薬効成分が浸出して“薬酒”となる。「百薬の長」とされるお酒に生薬の成分が加わったこの不思議な飲み物は、古くから世界中の人々に愛飲されてきた。中国では紀元前91年頃に書かれた『史記』にその記述が見られ、ヨーロッパでも1世紀に記された書物『薬物誌』に、57種類の薬酒が記載されている。
日本では、奈良の東大寺正倉院に伝わる文書(739(天平11)年頃に書かれたとされる)に、薬酒の存在を確かめることができる。宮中で用いられるようになったのは811(弘仁2)年から。以降、長い年月を経て徐々に庶民の間に広まっていったらしい。

1000種類以上といわれる中国に比べると、日本で販売されている薬酒の数は決して多くない。というより、ある一銘柄の独壇場といっていいだろう。「養命酒」──薬酒と聞けば、まずこの名前を思い浮かべる人が多いだろう。赤い箱に入った独特なダルマ型ボトルと、ラベルに記された古風なロゴタイプ。飲めばほんのりと甘く、かすかにシナモンの香りがする。
今は飲んでいなくても、「そういえば、昔おじいちゃんが毎晩御飯の前に飲んでいたなあ」「子供の頃、母親に飲まされていたっけ」……そんな記憶がある方も少なくないはず。もしかしたら、中年になって健康が気になり、再び養命酒を飲み出した人がいるかも知れない。
それにしても、養命酒はなぜここまで大きな存在になったのだろう。大手薬品メーカーの新商品も、中国で知名度のある人気商品も、養命酒には勝てなかった。その理由を探るために、まずは歴史をひもといてみよう。時計の針は今から一気に400年もさかのぼる。

時は慶長年間。信州伊那の谷大草(現在の長野県上伊那郡中川村大草)に、大庄屋として知られる塩沢家があった。その当主・塩沢宗閑翁がある大雪の晩、行き倒れている旅の老人を救い出し、塩沢家に迎え入れて手厚く介抱した。老人は人の情の温かさと伊那谷の風景を気に入って3年間も塩沢家に逗留していたが、塩沢家を去るにあたり、こんな申し出をしたという。「助けて頂いた御恩に報いたいが、旅の身である自分は何も持ち合わせていない。ただ一つ、霊酒の作り方を心得ているのでそれを伝授しましょう。幸いこの地は原料も豊富に揃っているし、風土も適しています」。
この時教えられたのが薬酒の製造法だった。宗閑翁は自ら飼っていた牛に跨り、地元の深山幽谷を探索して薬草を採取。秘伝の製法に従って薬酒を作ることに成功した。そして1602(慶長7)年、「世の人々の健康長寿に尽くすこと」を願い、この薬酒を養命酒と名付けた。
元々造り酒屋でもあった塩沢家にとって、酒の製造はお手のもの。宗閑翁は願い通り、養命酒を近隣の病人や貧しい村人に分け与えた。やがて養命酒の評判は伊那谷一帯を越えて伝わり、山を越えて養命酒を求めに来る人が絶えなかったという。

この誕生秘話はあくまでも伝説だが、その後の経緯は古文書にも残っている。戦災で消失した『信濃風土記』には、徳川家康が江戸幕府を開いた時に養命酒を献上し、その後、幕府から「天下御免萬病養命酒」と免許され、霊薬の象徴として“飛龍”の使用を許されたと書かれていたという。ちなみにこの飛龍のマークは今でもパッケージやボトルに使われており、日本で最も古い商標の一つとみなされている。
また1687(貞享4)年に書かれたある易学書には、「天下御免萬病養命酒一合銀三匁也」という記述があり、当時の養命酒が非常に高価なものだった事がうかがい知れる。1882(明治15)年の『深山自由新聞』にも「官許養命酒壱廻(1週間分)定価三十六銭」の広告が掲載されており、同じ新聞に上米一升が十銭一厘とあるから、価値の高さは明治になっても変わらなかったようだ。
作るのも大変だったようで、1735(享保20)年から塩沢家に伝えられている古文書によると、養命酒は成分の浸出から熟成完了まで2300日ほどもかかっていたらしい(現在は約2ヶ月で完成)。
ともあれ、誕生から300年以上を経た時点で、養命酒は地元・信州では知らぬ人のない高名な薬酒となっていた。


古くから続けてきた広告戦略で、初期の苦境を脱出

天龍館創業当時の様子
天龍館創業当時の様子。これはおそらく東京出張所の社員たち。
天龍館本店工場

設立間もない頃の天龍館本店工場。場所は現在の長野県上伊那郡中川村。

1929(昭和4)年の養命酒

1929(昭和4)年の養命酒。ダルマ型徳用瓶(600ml)で価格は4円だった。

新聞広告

大正後期から昭和中期にかけての新聞広告。効果は大きく、養命酒の販売に火を付けた。

明治を経て大正期に入ると、交通機関や通信手段が発達し、人々の生活様式にも大きな変化が現れた。都会の人々を中心に、消費文化の萌芽のようなものが芽生えてきたのである。それは商売人にとって大きなチャンスだった。塩沢家も「養命酒の効用を一人でも多くの人々に届けたい」と考え、1923(大正12)年に家業の養命酒製造事業を会社組織(株式会社天龍舘)に改めて東京に進出。渋谷に事務所を開設し、薬局・薬店を通じた養命酒の販売に乗り出した。ブドウ酒瓶に詰めて売り出した養命酒は、580ml入りで小売価格2円。大卒初任給が50円くらいだったから依然として高価な商品だったが、特級酒1升で3円近くした時代だから、養命酒だけが特別高かったわけでもない。天龍館の社員は大いに期待したが、これが意に反してまったく売れなかった。
「地方の特産品に過ぎないものが売れるわけがない」販売担当者は問屋からこう言われ、冷たくあしらわれたという。庶民の購買力は高まりつつあったが、購入にあたっては意外なほど保守的だったのである。

「伊那谷では300年も人々に支持されてきたのに、東京ではなぜ分かってもらえないのだろう。世間の人々は健康になることをそんなに望んでいないのかもしれない……」。販売責任者は日比谷公園のベンチに座り込み、深々と嘆息した。だが、嘆いてばかりもいられない。天龍館東京支社は1930(昭和5)年頃から、新聞や雑誌を舞台に積極的な広告活動を始める。
実は、養命酒にとっての広告活動はこの時が初めてではない。古くは文政期(1818〜29年)に引札(江戸時代に登場したチラシ)を配布しているし、1876(明治9)年の『東京日々新聞』には「官許家傳萬病養命酒」の広告を掲載している。先述したように82(明治15)年の『深山自由新聞』にも広告を出している。養命酒を創製した塩沢家は代々、広告の重みをよく知っていたのである。

はじめのうちは30円かけて新聞広告を出しても、2円の養命酒が1本か2本売れる程度の効果しかなかった。赤字が続いたが、天龍館の経営陣は諦めずに広告を打ち続けた。
やがて、新聞や雑誌で養命酒の存在を知った人々が薬局・薬店に足を運ぶようになる。それまで養命酒に理解を示さなかった問屋の態度は一変し、問屋自ら「養命酒を扱わせてくれ」と言ってくるようになった。地道に続けた販売戦略が実を結んだのである。
1928(昭和3)年には14.4キロリットルしかなかった販売量は、40(昭和15)年には846キロリットルにも増えていた。そのうち約30%は、早くから力を入れていた輸出に振り向けられた。事業は順調に進んだが、ここから戦争を挟んだ50(昭和25)年まで、養命酒は試練の時を迎える。アルコールを含むことから酒店ルートで扱われることとなり、瓶も規格瓶に統制された。何より原料の入手が難しくなり、戦火に見舞われた日本の市場も大打撃を受けた。
だが、養命酒がそこから回復したきっかけもまた、広告だったのである。

 


ラジオ、テレビなどのマスメディア広告で人気は全国区に

録音風景

連続ラジオ放送劇「少年探偵団」の録音風景。

宣伝カー
宣伝カー

宣伝カーによる街頭宣伝。1960(昭和35)年頃。

戦後の1949(昭和24)年、養命酒は再び薬局・薬店ルートで販売できることになった。加えてその翌年には戦時中に敷かれていた価格統制が撤廃され、養命酒の自由販売が実現。これを機に、経営陣は今まで以上の積極販売に乗り出すことになる。51(昭和26)年には社名も現在の「養命酒製造株式会社」に改称した。
ちょうどこの頃、日本のマスメディアに大きな変革が訪れていた。51年にはラジオの民間放送がスタート。その2年後にはテレビ放送が開始されている。広告効果を熟知していた養命酒製造が新しいマスメディアを見逃すはずはなかった。同社は52(昭和27)年には早くもラジオ東京(現:TBSラジオ)でスポット広告を打っている。昭和30年代に入るとメディア露出はさらに加速し、55(昭和30)年にはCMソング「養命酒音頭」「幸福の酒」を制作。翌56(昭和31)年にはシンギングCM「養命酒一杯の歌」を制作したほか、ニッポン放送の連続ラジオ放送劇「少年探偵団」のスポンサーにもなっている。

興味深いのは、この頃の広告が多分に子供を意識している点だろう。子供向けラジオ番組の提供がそうだし『少年サンデー』『少年マガジン』といった当時の少年漫画誌には、漫画スタイルの広告が掲載されている。漫画がブームになっていたこともあるが、その背景には養命酒ならではの巧みな広告戦略があった。
元々養命酒は滋養強壮剤を目的とした薬酒である。昭和30年代、最も滋養強壮を必要としていたのは大人ではなく子供だった。食糧事情の悪かった状況が完全に払拭されたわけではなく、巷にはまだ虚弱児童が少なくなかったのである。果たして養命酒製造の子供向け広告戦略は大いに成功し、「子供が飲んで元気になったから親も養命酒を飲むようになった」というケースが増えたという。今は時代が変わり、14度数のアルコール分を含む事もあって、養命酒は子供向けには宣伝・販売していない。

養命酒製造の広告戦略はまだまだ続く。1964(昭和39)年からは本格的にテレビCMに参入。ワイドショーや家族向けのバラエティ番組、ゴールデンタイムのドラマ等、あらゆるジャンルで番組提供を行い、養命酒の知名度を大きくアップさせた。CMタレントも俳優の坪井研二に始まり、山本學、加藤芳郎、藤田まこと等、親しみやすい顔ぶれを多数起用してきた。現在オンエアされているのは、女優・原田美枝子を起用した落ち着いたテレビCM。淡々と養命酒の効能を語る語り口が印象深い。
こうしたマスメディア広告以外にも、養命酒製造は宣伝カーによる街頭での拡販活動、東京国際ホームショー等の展示会への出展、店頭ポスターやチラシの配布など、地道な宣伝活動を継続して行った。

企業規模から考えると、同社が広告にかけた予算はかなり大きい。リスクも相当あったはずだが、ここまで思い切った戦略を取ったからこそ、養命酒は市場で独占的な地位を築くことができたともいえる。市場には養命酒に競合する商品が何度も登場したが、結局はどの商品も養命酒の牙城を切り崩すことができなかった。
1965(昭和40)年、養命酒の年間販売量は4000キロリットルを越えた。その後も高度経済成長期と足並みを揃えるように、養命酒はその販売量を年々増加させていく。ピークは1996(平成8)年に記録した約14000キロリットル。近年は漸減気味だが、平成以降も平均約12000キロリットルを販売している。薬酒業界のシェアは、なんと90%以上になるという。

ポスター
雑誌広告
ポスター
ホーロー看板広告
1958(昭和33)年制作のポスター。
1970(昭和45)年頃の雑誌広告。漫画形式になっている。
昭和40年代のポスター。
珍しいホーロー看板広告。

 
赤い箱、飛龍のマーク、養命酒のロゴタイプは伝統の証

汎用規格瓶
平型小瓶
汎用規格瓶600ml(昭和18年発売、8円19銭)。

平型小瓶270ml(昭和32年発売、200円)。

丸型黄箱中瓶
黄箱変形徳用瓶

丸型黄箱中瓶450ml(昭和33年発売、295円)。

黄箱変形徳用瓶1000ml(昭和34年発売、590円)。

400年以上の歴史を持つ養命酒。この長い歴史を考えると、その中身や外装に加えられた変化は少ない方かもしれない。
処方については、誕生から1877(明治10)年までは「朝鮮人参」「杜仲」「桂枝」など8種類が組み合わされている。1929(昭和4)年に「丁子」「鬱金(ウコン)」など5種類が新たに加えられ、全部で13種類となった。その後77(昭和52)年に行政指導があった「規那(キナ)」が削除され、「地黄」と「芍薬」が追加。79(昭和54)年に「番紅花(サフラン)」が「紅花」に変わり、現在へと至っている。
効能についても、昭和初期までの養命酒は、「貧血」「栄養不良」「疲労倦怠」といった滋養強壮的な効能と同時に、「風疾(漢方でいう中風、リウマチ、痛風などの事)」に適応する効能をうたっていた。だが、29(昭和4)年に処方が大きく変わったことにより、以降は効能も滋養強壮剤としての効能を強く打ち出すようになった。現在の養命酒は、「胃腸虚弱」「肉体疲労」「食欲不振」等、7つの効能を訴求している。

処方や効能以上に変わったのはボトルの形だ。天龍館創立時のブドウ酒瓶に始まり、ダルマ型瓶、戦時中の汎用規格瓶、丸型瓶、平型瓶等、数種類の形を変遷しながら現行のスマートなダルマ型瓶に落ち着いている。変わり種としては、1959(昭和34)年に変形徳用瓶に入った養命酒が発売されている。
反対に、ほとんど変わっていないのが外装パッケージだ。天龍館設立時から使ってきたのは、独特の深みがある赤色をベースに、山と雲と水を模したデザイン、飛龍の商標、古風なロゴタイプを配置したもの。ただ71(昭和46)年からは流通段階で一目で区別できるよう、このデザインは酒店ルートの商品のみに使われるようになった。薬局・薬店ルート向けには、「薬用」と銘打たれた飛龍のマークと養命酒ロゴだけのシンプルなパッケージが使われている。

歴史を振り返ると、養命酒ならではの難しさも見えてくる。早い時期から薬酒としてブランドを確立したせいか、そのバリエーション商品が極めて少ないのだ。1958(昭和33)年から71(昭和46)年まで、若い層の取り込みを狙ってやや甘口に仕立てた「黄箱」を発売したが、これは販売面でうまくいかなかった。養命酒が育てたともいえる消費者層は、細工のない養命酒本来の味を求めたのである。

現行の薬用養命酒

現行の薬用養命酒(医薬品)・700ml(1628円)。ほかに1000ml(2310円)もある。

現在、養命酒の消費者層は、男女比が半々。年齢分布では60歳以上が大半を占めている。メインターゲットの高年齢層がこれからも増え続けることは確かだ。医療費が上がり続ければ、「病気になってから治療するのではなく、病気になる前に体調を整えておこう」と考える人が増えるだろう。
そう考えると、養命酒がアピールしている「未病(体調不良)改善」は、飽食の時代を経て再び健康を意識せざるを得なくなったこれからの日本人にとって、「なるほど」と思わせるだけの説得力がある。加えて最近の購買層には30代の女性も増えており、今後、養命酒製造はそれより下の若年層にもPRを行っていくという。400年以上もの歴史を持つ稀代のロングセラー商品・養命酒は、これからも粛々と歴史を刻んでいくことだろう。

 
取材協力:養命酒製造株式会社(http://www.yomeishu.co.jp
     
養命酒のふるさと、「駒ヶ根工場・健康の森」
健康の森の「記念館」
健康の森の「記念館」
養命酒 健康の森の「記念館」。

養命酒の“変わらない要素”の一つに、今もなお発祥の地である伊那谷で作られている事が挙げられる。長野県駒ヶ根市にある工場が開設されたのは1972(昭和47)年。天竜川を挟んで中央アルプスと南アルプスに囲まれるこのエリアは、養命酒の製造にとって欠かせない絶好の自然環境となっている。中央アルプスから流れる清冽な水が仕込み水となり、清々しい空気と穏やかな気候風土が酒の熟成を助けるのだ。
敷地の広さは約36万平米と広大で、その約70%が「養命酒 健康の森」と名付けられた自然の森林に覆われている。この中には、自然と触れ合える散策路、養命酒の歴史や50種類の生薬を展示する記念館、体に優しいハーブを使用したスイーツが楽しめるカフェ、さらには縄文・弥生時代から平安時代にかけての遺跡まである。施設の利用や健康の森の散策はいつでも自由(年末年始除く)。このほかに工場見学(少人数なら予約不要)も人気があり、地元の小学生の社会見学コースにもなっている。

 
タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト Top of the page

月刊誌スタイルで楽しめる『COMZINE』は、暮らしを支える身近なITや、人生を豊かにするヒントが詰まっています。

Copyright © NTT COMWARE CORPORATION 2003-2015

[サイトご利用条件]  [NTTコムウェアのサイトへ]