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創業者・原敏三郎。硫黄に目を付けたクリーム状洗顔料の発明者であり、メディア戦略に長けた経営者でもあった。 |
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1935(昭和10)年頃の雑誌広告。「ニキビが消えて色が白くなる」という効能を明記している。
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源泉数、湧出量ともに全国1位を誇る温泉王国、大分。ここは天ヶ瀬温泉、赤根温泉、別府八湯の明礬温泉など、硫黄温泉が多いことでも知られている。
時は昭和の始め頃。大分のある町で、硫黄の臭いに包まれながら、一人の若者が不思議な研究に没頭していた。硫黄を精製し、粉末状にしようと四苦八苦している。若者の名は、原敏三郎。作ろうとしていたのは、ニキビに効果のある洗顔料だった。若い女性にとって、ニキビは大きな悩みの一つ。この悩みを解消できたら女性にとって朗報となるし、事業としても見込みがある。洗顔料を作ろうと思い立ったのは、母方の実家が地元・別府で医者を営んでいたせいかもしれない。
硫黄に目を付けたのは、昔から「硫黄温泉に入ると肌がすべすべし、色が白くなる」という評判を聞いていたからだった。「硫黄にはニキビに効く何かがある」敏三郎は硫黄の効能に確かな自信を持っていた。
敏三郎の頭にあったのは、ただの洗顔料ではなかった。軟膏のようにクリーム状の洗顔料を作ろうとしていたのである。洗顔料といえば固形石鹸しかなかった時代だから、クリーム状の洗顔料は驚きを持って受け入れられるに違いない。今までの製品とは全く違った、「ニキビを治し、色を白くする」洗顔料──敏三郎の狙いはそこにあった。
日々研究に没頭した結果、ついに日本初のクリーム状洗顔料が完成。1929(昭和4)年、敏三郎は天然硫黄のパウダーを練り込んだこの製品を「レオン洗顔クリーム」と名付けて売り出した。個人商店としての販売だったため販路を広げることはできなかったが、商品の評判は敏三郎が予期した以上に良かった。手作りのため大量には作れないが、作る端から売れていく。これに意を得た敏三郎は、1934(昭和9)年、株式会社レオン商会を設立し、本格的に製品を売り出すことにした。白いガラス瓶に詰めたレオン洗顔クリームの値段は、小瓶が1円40銭、徳用瓶が3円40銭。当時の固形石鹸は1個10銭ほどだったから、随分と高価な製品だった。
会社は作ったものの、製品を売るためには流通ルートを開拓しなければならない。洗顔料を扱っているのは薬局と化粧品店だが、会社を作ったばかりの敏三郎が問屋に顔が利くわけもなかった。既に購入者からは高い評価を得ているし、製品には絶対の自信がある。どうしたらレオン洗顔クリームを世間の女性に知ってもらえるだろう?
悩んだ末に、敏三郎は思い切った手を打った。
新聞に3〜4行の短い説明広告を出し、通信販売を始めたのである。「ニキビが消えて色が白くなる」という製品の効能をわずか数行で端的にアピールし、価格分の切手を郵便で会社まで送ってもらう。いわば、日本における通信販売の原点のようなスタイルである。マスメディアを積極的に利用し、最小限の費用で最大限の効果を上げる。敏三郎の卓越したメディア戦略はここから始まったのだった。
その後は大きなスペースを使った新聞広告を出すようになり、レオン洗顔クリームは徐々にその名を知られるようになる。利用者間の口コミ効果も大きく、今までにない洗顔料として、評判はどんどん高まっていく。確かに値段は高いが、ここまで効能をはっきりと謳った洗顔料はそれまでになかった。ニキビやシミ、色の黒さで悩んでいた世の女性たちは、こぞってレオン洗顔クリームを買い求めたのである。最初は相手にしなかった問屋も、結局はその人気を見過ごせなくなった。レオン洗顔クリームは、他に類を見ない高級洗顔料として、薬局や化粧品店の店頭を飾ることになったのである。
やがて日本は戦時体制下に入り、レオン洗顔クリームの生産もやむなく中止された。だが、この大ヒット商品は戦後まもなく復活し、新たな道のりを歩み出すことになる。
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