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ニッポン・ロングセラー考 Vol.71 ポンジュース えひめ飲料 まじめさとこだわりでトップブランドへと成長

汗水流して作ったみかんから、より多くの実りを

愛媛青果連の2代目会長・桐野忠兵衛2代目会長・桐野忠兵衛の銅像

愛媛青果連の2代目会長・桐野忠兵衛。えひめ飲料の敷地内には銅像もある。

発売当時のポスター

発売当時の宣伝ポスター。品質の高さを強調している。

発売後間もない頃のポン製品群

1955(昭和30)年当時のポンブランド製品。缶詰のように見えるのもジュースだ。

段々畑に燦々と降り注ぐ太陽光線。大海原を渡ってくる爽やかな潮風。穏やかな自然に恵まれた愛媛県は、西日本を代表する果樹王国として知られている。県下各地で生産されているのは、温州みかん、伊予柑、ハッサクなどの柑橘類。中でもみかんの生産量は2003(平成15)年まで30年以上にわたって日本一を続け、今も和歌山県に次ぐ全国2位の生産量を誇っている。
みかんそのものが愛媛のロングセラー商品なのだが、もうひとつのロングセラーも忘れるわけにはいかない。“POM”のロゴでお馴染みの「ポンジュース」。数あるジュースブランドの中でも、その知名度の高さはトップクラスだ。「ポン〜ジュ〜ス♪」というCMソングと共に、赤・白・緑をあしらったボトルラベルを思い出す人も多いだろう。今回は愛媛発、“まじめな”ジュースの物語である。

現在、ポンジュースを生産・販売しているのは、2003(平成15)年に設立された「株式会社えひめ飲料」。全農グループの会社だが、その出発点は1948(昭和23)年に発足した愛媛県青果販売農業協同組合連合会(愛媛青果連)にまで遡る。これはみかん事業全体の拡大を目的に、県下の青果生産者たちが自主的に組織した団体だった。
全国的なみかんブームが到来するのは昭和30年代の後半からだが、青果連には将来の供給過剰を予期している人物がいた。会長の桐野忠兵衛その人である。愛媛のみかん生産量はこれからどんどん伸びるだろうが、みかんには表年(収穫量の多い年)と裏年(収穫量の少ない年)があるため生産量が変動し、市場価格がなかなか安定しない。小玉のみかんは既に増えつつあり、中身は普通のみかんと変わらないのに市場で値が付かず、処分せざるを得ない状況にあった。
「日本のみかんは生食と缶詰だけでいいのか。農家が汗水流して作ったみかんから、もっと多くの実りを引き出さなければ……」桐野の心中には、みかん農家の将来に対する強い危機感があった。

1951(昭和26)年、北米への視察旅行に出かけた桐野は、現地の圧倒的な生産規模と高い効率性に大きな衝撃を受ける。何より驚いたのは、果汁入りジュースがその栄養価の高さを認められ、主食か副食か分からないほど普及している事だった。日本でもオレンジジュースは売られていたが、当時はまだもの珍しく、普及していないも同然だった。まるで味噌汁のような感覚でジュースが飲まれている光景を目の当たりにした桐野は、これが地元の危機を救う有効な手だてになることを直感する。「ジュースなら原料を貯蔵できるから、みかんの周年供給が可能になる。市場では売れない小玉のみかんも有効利用できるはずだ」
思いついたら何でもやってみたくなる性格だった桐野は、帰国後すぐに行動を開始する。愛媛青果連で果汁事業への参入を正式に決定し、52(昭和27)年12月に三津工場を完成。その2日後にはジュースの製造を開始したのである。

最初期の製品の原料は、県下各郡の原液搾汁工場で荒搾りした温州みかんと夏柑。それを三津工場の巨大な凍結タンクで凍結し、香料等の調合を経て加熱殺菌した後に瓶詰めしていた。半自動の人海戦術による製造法だが、基本的な流れは50年以上経った今でもほとんど変わっていない。
愛媛青果連初の果汁飲料製品は、当時の愛媛県知事から「日本一(ニッポンイチ)のジュースになるように」との願いを託され、「ポンジュース」と名付けられた。発売当時のデータは残っていないが、内容量は180cc(その後200ccに変更)で、価格は1本50円ほどだったという。果汁比率は10%で、「真の天然果汁、栄養豊富なオレンジジュース」を謳い、全国規模でポスターを掲示。松山市のデパートでは試飲会も開催した。当時は100%はおろか、果汁が入っているジュース自体が珍しかったのである。
この頃、他社からも多くのオレンジジュースが発売され、市場は一気に活気づいた。愛媛青果連は200ccの瓶入りだけでなく、コンク(濃縮)ジュースや缶入りジュースなどを発売し、ポンブランドの拡販に力を入れてゆく。


「酸味が強すぎる」と不評だった100%天然ジュース

「ポン純生オレンジジュース」

記念すべき日本初の天然果汁100%ジュース「ポン純生オレンジジュース」。

ポンジュース扇状

水滴型に広がったビンは同じだが、昭和50年頃にはラベルに100 %天然果汁の文字が入った。

「ポンソフト」

市場拡大に寄与した「ポンソフト」。程よい酸味が好評だった。

減酸処理装置

減酸処理装置(松山工場)。これでジュースの酸味が抑えられた。

膜濃縮装置

松山工場の膜濃縮装置。逆浸透膜で果汁と水分を分離するプラントだ。

1953(昭和28)年10月、大手酒造メーカーとの間でポンジュースの製造販売提携が決まり、年間1000万本を生産すべく、東京に新工場を建設することになった。これだけの数になると、原料の果汁を貯蔵するだけでも巨大なスペースが必要になる。桐野はためらわずに濃縮機の導入を決めた。果汁から水分を飛ばして濃縮すれば、容積を小さくできるので貯蔵や運搬の効率が圧倒的に向上する。水分を加えるだけで果汁に戻るので利便性も高い。今では当たり前の濃縮果汁還元も、当時はまだ珍しかった。桐野は濃縮しても香りの残存性が高いヒートポンプ方式の濃縮機を日本で初めて導入し、貯蔵スペースと運賃をそれぞれ1/5に縮小。これを契機に愛媛青果連は、濃縮果汁原液の供給メーカーとしても販売を手掛けるようになった。

1969(昭和44)年、桐野は業界をあっと驚かせる新商品を世に送り出す。日本初の天然果汁100%ジュース「ポン純生オレンジジュース」である。この2年前、桐野は大干ばつで大量にできた菊みかん(表面がデコボコしていて味が濃い)を搾り、一升瓶に入れてテスト的に市場販売していた。これが思いのほか好評だったので100%ジュースを全国的に販売したのだが、意外のことに消費者の反応は想像以上に厳しいものだった。いわく、「酸味が強すぎる」「子供には無理」「これは水で薄めて飲むジュースだろう」云々。
「ちょっと早すぎたのかもしれない」……愛媛青果連の誰もがそう思い始めていた頃、思わぬところから追い風が吹いてきた。人工甘味料チクロの使用禁止をきっかけに砂糖や天然甘味料が再評価されるようになり、それが食品全体の天然志向へと拡大していったのである。1本320円と高価な天然果汁100%のポンジュースが、飛ぶように売れ出した。以降は天然果汁100%ジュースがポンジュースの顔になってゆく。

市場を切り開く先見性に加え、ポンジュースが広く一般に支持されたもうひとつの理由は、品質向上の手を緩めなかったからだろう。果実飲料、中でも天然果汁100%ジュースは、製造工程における加熱殺菌処理が果汁の風味を損なうという問題を抱えていた。
愛媛青果連は、搾汁後の濃縮工程における無加熱濃縮技術の開発に力を入れた。まず1983(昭和58)年に「凍結濃縮法」を導入。これは搾汁した果汁をマイナス3〜9度に冷却して果汁中の水分を氷にし、これを取り除くことによって残りの果汁を圧縮する方式だ。続いて1989(平成元)年には、逆浸透膜の性質を利用して果汁から水分だけを分離する「膜濃縮法」を新たに導入。これらの新技術により、ポンジュースはみかん本来の風味を可能な限り維持することに成功したのである。

品質に対するこだわりは、味そのものにも向けられた。天然果汁100%ジュースの味は、原料みかんの産地や収穫時期によって微妙に違ってくる。原料のブレンドで味の平均化を図るのだが、それでも消費者からは「沢山飲むと胸が重くなる」という声が上がっていた。
理由は果汁に含まれるクエン酸にあった。愛媛青果連は1982(昭和57)年に、果汁に含まれる過渡のクエン酸を選択的に除去・調整する画期的な減酸処理技術を開発。翌年、「ポンソフト」の名で新商品を市場に送り出した。消費者の反応はすこぶるよく、ポンソフトはどんどん売れ行きを伸ばしてゆく。昭和50年代後半から60年代の前半にかかるこの時期、ポンジュースの生産量はピークを迎えた。

 

人気を博した1リットル瓶からPETボトルへ──容器の変遷

角形になったポンジュース
広口瓶になったポンジュース

普及が進んだ大型冷蔵庫の内ポケットに入れやすいよう、胴体が角形になった。

広口瓶になった「ポンソフト」。それまで必要だった栓抜きが不要になった。

ユニバーサルデザインになったポンジュース
現行の1リットルPET

瓶の口径をやや細くし、飲みやすさを改善。瓶にくびれを付けて持ちやすさも考慮した。

現行のポンジュース1リットルPET。酸素バリアボトルで美味しさを長期間キープ。

現在のPETボトル入りポンジュースしか知らない人は意外に思うかもしれないが、今の中年層にとってポンジュースと言えば、それは1リットルの瓶入りを指している。それほど大型瓶のイメージが強いのだ。ポンジュースに初めてこの大型瓶が採用されたのは、日本初の天然果汁100%ジュースとなったポン純生オレンジジュースから。丈夫で再利用できるうえ、中身が見えることから来る安心感があったのだろう。消費者の評判もよかったという。
ポン純生オレンジジュースの瓶は口が細く、胴体部分が水滴型に膨らんだ欧米風の洒落たデザインだった。他社製品の瓶よりずっとスマートだったが、昭和50年代前半にリニューアルされ、胴体部分が角形に変更された。これは冷蔵庫の内ポケットに入れやすくするため。以降、ポンジュースは消費者のニーズを汲み取った容器のデザインを次々と開発してゆく。

販売数を伸ばしたポンソフトは丸型の瓶に戻されたが、大幅な軽量化を実現。酸味を抑えた点をアピールするため、ラベルにも大きく「ソフト」の文字が入れられた。赤・白・緑のイタリアンカラーが採用されたのも、この商品からである。
1985(昭和60)年には、広口瓶を採用したずんどう型のフォルムにリニューアル。この商品から、キャップが従来の王冠からリシールできるスクリューキャップに変えられた。ただキャップの口径が53ミリもあり、「注ぐ時にこぼれやすい」という声が上がったため、95(平成7)年のリニューアル時に口径を38ミリに変えている。この時は瓶にも手が入り、瓶口と胴体部分にくびれが付け加えられた。これは非力な女性やお年寄りでも持ちやすくするための工夫。既にユニバーサルデザインの考え方が採り入れられていたのだ。

瓶は完全密封容器だから、保存性の良さは文句のないところ。ただし衝撃に弱く、重いという宿命的な欠点は隠しようもない。1リットル瓶ともなると、冷蔵庫から取り出すだけで「よっこいしょ」という感じになる。そんな事情から、飲料業界では早くから合成樹脂容器の開発が進んでいた。様々な材料から選ばれたのは、PETと略されるポリエチレンテレフタレート。透明性が高く強度もあり、熱にも強いことから急速に普及が進んだ。
ポンジュースも1994(平成6)年から、大型瓶を徐々にPETに置き換えていった。現行のポンジュースはPETボトルとスチール缶、紙パックのみで、ガラス瓶は使われていない。ちょっと寂しい気もするが、そんな読者はえひめ飲料のホームページを見てみよう。他の種類のジュースだが、通販オリジナル商品として1リットル瓶がしっかり販売されている。

容器へのこだわりは、PETになった今でも変わっていない。えひめ飲料は2006(平成18)年から、ポンジュースをはじめとする100%ジュースの1リットル容器に、業界に先駆けて酸素バリアボトルを採用している。これは3層のPETの間に酸素をブロックするバリア材を挟み込んで5層構造にしたもので、酸素透過量が従来のPETボトルに比べて格段に少ないのが特徴だ。瓶と違ってPETボトルは酸素が透過するので、賞味期限を越えて長期間保存するとジュースの酸化が進み、味や栄養成分が損なわれてしまう。この容器なら、賞味期限を1ヶ月以上延ばすことが可能なのだという。
ちなみに容器がPETボトルに変わっても、イタリアンカラーのラベルとみかんのイラストは瓶の時代からそれほど変わっていない。このあたりも、ポンジュースが定番化した大きな理由のひとつだろう。


 
「まじめなこだわり」を強調して消費者にアピール

平成8年のCM
平成8年のテレビCM。みかん農家が自分たちでポンジュースを宣伝している。
現在のポスター

現在使われているポンジュースの宣伝ポスター。

ポンジュースを語るうえで外せないのが、その積極的な宣伝戦略だ。テレビCMをメインに各都市で試飲会などのイベントを仕掛け、ポンブランドの認知度アップを図ったのである。テレビCMを打ったのは天然果汁100%ジュースを発売した頃から。昭和50年代までは「天然の味」「健康」「安心」などをキーワードに自然イメージをアピール。昭和60年代に入ると愛媛産直のイメージを強調し、他社が真似のできない「まじめさ」「産直」イメージを打ち出すようになった。この頃作られたキャッチフレーズ「愛媛のまじめなポンジュース」はすっかり定着し、今も様々な広告媒体で使われている。

ポンジュースが人気商品になった背景には、昭和40年代に当時の農水省によって進められた補助事業がある。これは、いずれやってくる農産物の自由化を視野に入れた方策で、日本の農業を守るため、生産・加工・販売等全ての面で国が農家を援助するという内容だった。みかんを生産する他の地域も愛媛と同じような状況にあり、実際ジュース事業を行っていたのだが、それらは地域限定ルートでしか販売されず、ポンジュースとは最初から方向性が違っていたようだ。数ある農協系団体のうち、愛媛青果連だけが自分たちで作ったジュースを携えて、全国へ飛び出していったのである。
その青写真を描き、実際に形にしていった人物が桐野会長だった。ジュース事業への進出はもちろん、工場の設立から各地の販売拠点作りに至るまで深く関わり、愛媛産青果が全国的な存在になるための土台作りを行った功績は極めて大きい。

だが1992(平成4)年のオレンジ果汁輸入自由化以降は、市場の様相が大きく変わった。大手飲料メーカーが安価な輸入果汁を使って続々と市場参入してきた結果、店頭に果汁飲料が乱立し、激しい価格競争が起こったのである。最近は大手スーパーで販売される1リットル紙パック入りの製品も加わり、競争はさらに激しさを増している。
えひめ飲料も国産果汁だけでなく輸入果汁を使った製品を販売しているが、基幹商品であるポンジュースに対する“まじめさ”や“こだわり”はいささかも変わっていない。オレンジ果汁を加えてはいるが、ポンジュースの主原料は昔と同じように愛媛産の温州みかんのままだし、肝心の味も自由化以降、全くと言っていいほど変わっていない。

ポンジュースの誕生から57年。天然果汁100%になってからは、今年でちょうど40年目を迎える。数ある国産果汁飲料を見ても、ここまで長く続き、大きく成長したブランドはほかにない。
人によってはやや古めかしく感じるかもしれないが、老舗の安心感はそこから生まれるのである。外国産の有名ブランドと対等に渡り合える唯一の国産ブランド──桐野会長がそれを目指したわけではないだろうが、ポンジュースは確かにそういう存在になった。

 
取材協力:株式会社えひめ飲料(http://www.ehime-inryo.co.jp/
     
「愛媛では蛇口をひねるとポンジュースが出る」は本当だった!
ポンジュース蛇口
これが噂のポンジュース蛇口。もしかしたら空港で出会えるかも。

ポンジュースには、いくつかの有名な都市伝説がある。例えば、「愛媛の学校では牛乳の代わりにポンジュースが出る」というもの。この延長で、「愛媛の学校ではみかんで炊いた“みかん飯”が出る」というのもある。実はこの2つ、どちらも本当の話。毎日というわけではないが、確かにポンジュースやみかん飯が出される学校があるという。土曜日には学校で出されるポンジュースを飲んでから家に帰るというのが、愛媛で育った子供たちの思い出なのだ。都市伝説の中でよく知られているのは、「愛媛の家庭では水道の蛇口からポンジュースが出る」という話。さすがにこれは嘘だが、そんなに言うならと、当のえひめ飲料が本物のポンジュース蛇口を作ってしまった。松山空港のロビーに定期的に設置しているほか、県の観光イベントや物産展などで披露しているのだとか。運が良ければ実際に蛇口をひねってポンジュースを飲めるかもしれない。


タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト Top of the page

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