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愛媛青果連の2代目会長・桐野忠兵衛。えひめ飲料の敷地内には銅像もある。 |
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発売当時の宣伝ポスター。品質の高さを強調している。 |
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1955(昭和30)年当時のポンブランド製品。缶詰のように見えるのもジュースだ。 |
段々畑に燦々と降り注ぐ太陽光線。大海原を渡ってくる爽やかな潮風。穏やかな自然に恵まれた愛媛県は、西日本を代表する果樹王国として知られている。県下各地で生産されているのは、温州みかん、伊予柑、ハッサクなどの柑橘類。中でもみかんの生産量は2003(平成15)年まで30年以上にわたって日本一を続け、今も和歌山県に次ぐ全国2位の生産量を誇っている。
みかんそのものが愛媛のロングセラー商品なのだが、もうひとつのロングセラーも忘れるわけにはいかない。“POM”のロゴでお馴染みの「ポンジュース」。数あるジュースブランドの中でも、その知名度の高さはトップクラスだ。「ポン〜ジュ〜ス♪」というCMソングと共に、赤・白・緑をあしらったボトルラベルを思い出す人も多いだろう。今回は愛媛発、“まじめな”ジュースの物語である。
現在、ポンジュースを生産・販売しているのは、2003(平成15)年に設立された「株式会社えひめ飲料」。全農グループの会社だが、その出発点は1948(昭和23)年に発足した愛媛県青果販売農業協同組合連合会(愛媛青果連)にまで遡る。これはみかん事業全体の拡大を目的に、県下の青果生産者たちが自主的に組織した団体だった。
全国的なみかんブームが到来するのは昭和30年代の後半からだが、青果連には将来の供給過剰を予期している人物がいた。会長の桐野忠兵衛その人である。愛媛のみかん生産量はこれからどんどん伸びるだろうが、みかんには表年(収穫量の多い年)と裏年(収穫量の少ない年)があるため生産量が変動し、市場価格がなかなか安定しない。小玉のみかんは既に増えつつあり、中身は普通のみかんと変わらないのに市場で値が付かず、処分せざるを得ない状況にあった。
「日本のみかんは生食と缶詰だけでいいのか。農家が汗水流して作ったみかんから、もっと多くの実りを引き出さなければ……」桐野の心中には、みかん農家の将来に対する強い危機感があった。
1951(昭和26)年、北米への視察旅行に出かけた桐野は、現地の圧倒的な生産規模と高い効率性に大きな衝撃を受ける。何より驚いたのは、果汁入りジュースがその栄養価の高さを認められ、主食か副食か分からないほど普及している事だった。日本でもオレンジジュースは売られていたが、当時はまだもの珍しく、普及していないも同然だった。まるで味噌汁のような感覚でジュースが飲まれている光景を目の当たりにした桐野は、これが地元の危機を救う有効な手だてになることを直感する。「ジュースなら原料を貯蔵できるから、みかんの周年供給が可能になる。市場では売れない小玉のみかんも有効利用できるはずだ」
思いついたら何でもやってみたくなる性格だった桐野は、帰国後すぐに行動を開始する。愛媛青果連で果汁事業への参入を正式に決定し、52(昭和27)年12月に三津工場を完成。その2日後にはジュースの製造を開始したのである。
最初期の製品の原料は、県下各郡の原液搾汁工場で荒搾りした温州みかんと夏柑。それを三津工場の巨大な凍結タンクで凍結し、香料等の調合を経て加熱殺菌した後に瓶詰めしていた。半自動の人海戦術による製造法だが、基本的な流れは50年以上経った今でもほとんど変わっていない。
愛媛青果連初の果汁飲料製品は、当時の愛媛県知事から「日本一(ニッポンイチ)のジュースになるように」との願いを託され、「ポンジュース」と名付けられた。発売当時のデータは残っていないが、内容量は180cc(その後200ccに変更)で、価格は1本50円ほどだったという。果汁比率は10%で、「真の天然果汁、栄養豊富なオレンジジュース」を謳い、全国規模でポスターを掲示。松山市のデパートでは試飲会も開催した。当時は100%はおろか、果汁が入っているジュース自体が珍しかったのである。
この頃、他社からも多くのオレンジジュースが発売され、市場は一気に活気づいた。愛媛青果連は200ccの瓶入りだけでなく、コンク(濃縮)ジュースや缶入りジュースなどを発売し、ポンブランドの拡販に力を入れてゆく。 |