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創業者の田口儀之助。ドライバーの将来性を見抜いていた。 |
創業して間もない頃の田口鉄工所倉庫。製造はほぼ手作りだった。 |
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田口儀之助が触発された舶来のドライバー。見える部分は丸軸、柄の中は平軸。1923(大正12)年頃のもの。 |
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宝船の夢から生まれた「VESSEL」ブランド。1933(昭和8)年に商標登録した。 |
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初期の製品カタログ。モダニズムを意識したロゴやデザインが秀逸だ。 |
どこの家庭にもある工具箱。ペンチやニッパー、スパナなど中に入っている工具は様々だが、最も多いのはドライバーだろう。何しろ出番が多い。電気製品の修理、DIY家具の組み立て、家の補修等々。たいていは必要に応じて買い足していくため、種類もサイズも雑多なドライバーが工具箱の中に集まってしまう。プラスとマイナス、刃先の大小、軸の長さ、グリップの素材など、確かに1本1本違っている。中にはなぜか同じものもあるけれど。
つらつら眺めているうちに気が付いた。「VESSEL」と記されたドライバーが多いのである。作りもしっかりしている。「これはドイツのメーカーなのかな?」そう思って、ちょっと調べてみた。
意外にも、「VESSEL」は大阪にある工具メーカー、株式会社ベッセルのブランド名だった。なんでも、日本で初めてドライバーを量産したメーカーだという。そういえば、工具箱の中にある木柄(もくえ)のドライバーは随分昔から売られていたような気がする。知る人ぞ知るロングセラーの系譜を辿ってみよう。
ベッセルの歴史は1916(大正5)年にまで遡る。創業者・田口儀之助が現在の大阪市城東区諏訪に興した田口鉄工所がその母体だ。儀之助は農耕具を作る親戚の鍛冶屋に奉公するうちにドライバーの製造を思い付き、若干15歳の若さで独立。生家の納屋を作業場に改造して事業を開始した。
なぜ儀之助はドライバーに目を付けたのか? 当時盛んだった紡績業をはじめ、多くの工場で使われる産業機械は、そのほとんどが海外からの輸入品だった。初期のドライバーは機械の付属品として日本に入ってきたのである。
「これを自分で作れば商売になる」そう思った儀之助は、刀鍛冶のようにフイゴで火をおこし、真っ赤になった平板の鋼鉄を叩いては伸ばしてドライバーに仕上げていった。ドライバーといっても、当時の製品は今とはだいぶ違っている。使われていたのは、スコッチ型やロンドン型と呼ばれた、軸が平らのマイナスドライバーだけだった。
ドライバーの将来性を確信していた儀之助は、最初からドライバー1本に絞った専業量産体制を整えた。それでも、1本1本を手作りするため、生産量は1日300本が限界だったという。
やがて丸軸のスマートなドライバーが輸入されるようになると、儀之助は柄に入る部分は平軸にしたまま、目に見える部分だけを丸軸にしたドライバーを製造。軸部をペーパーで研磨する作業は時間と手間がかかるが、儀之助はロクロを用いた足踏み方式を考案して作業の効率化を図った。ここに、儀之助の才覚が見て取れる。品質さえ維持できれば目に見えないところに時間をかける必要はない。それよりも生産効率を上げ、事業を軌道に乗せることの方が大切だ。儀之助がそう考えたのは、海外への輸出を想定していたからだった。スタート時こそ舶来工具を真似ていたが、儀之助の目的はオリジナルの国産ドライバーを作ること。最初から海外の製品と勝負するつもりだったのである。
量産化の目処が付いたのは1930(昭和5)年頃。海外へ出るとなると、商標を作らなければならない。ある夜、儀之助は宝船の夢を見た。金銀の財宝を満載した船に七福神が乗り込んでいる。「これはめでたい」と喜んだ儀之助は、「FUNE」というブランド名を考えた。だが「FUNE」では外国人に通じない。そこで、英語で大きな商船を意味する「VESSEL」に決めた。商品を満載した貿易船のイメージが気に入ったし、「VESSEL」なら語呂もいい。この時代に横文字のブランド名は珍しかったが、儀之助はそれもまた誇らしかったのだろう。 |