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記念すべき最初の商品「ピーナッツ入り柿の種」。
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個包装で新たな市場を開拓した「フレッシュパック柿の種」。 |
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現在の主力商品「スーパーフレッシュ柿の種6個装」。菓子業界屈指のガリバー商品でもある。 |
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さて、話の本題はここからである。柿の種が新潟で生まれ、やがて全国的な商品になったことは分かったが、ピーナッツを入れたのはいったい誰なのか?
これには諸説あるが、有力なのは次の2つ。一つは、帝国ホテルのバーが、それまで単品で提供していた柿の種とピーナッツを混ぜて出したという説。フランク・ロイド・ライトが設計した旧帝国ホテル時代の話で、西洋にならって酒のつまみにサービスナッツを提供する際、日本らしさを出そうとして柿の種が選ばれたという。
もう一つの説は、創業間もない亀田製菓の直売所が舞台。店番をしていた創業者の奥さんの前に、瓶詰めの柿の種とピーナッツが並んで置かれていた。この2つを一緒に食べてみたらどんな味がするだろうとふと思った奥さんは、さっそく実行。そのおいしさに驚き、店でも売ってみたところ、あまりに評判が良かったので商品化したという説である。
どちらの説が本当なのか、あるいは全く別の起源があるのかは不明だが、ピーナッツ入り柿の種を最初に発売した米菓メーカーが亀田製菓であることは間違いないようだ。
亀田製菓が「ピーナッツ入り柿の種」を発売したのは、1966(昭和41)年。だが発売当時から圧倒的な売り上げを誇っていたわけではなかった。
そんな状況が変わったのは、77(昭和52)年に発売した「フレッシュパック柿の種」がきっかけだった。これは、同社が食べきりサイズの個包装(43g×6袋)を採用した初めての製品。そもそもの狙いは鮮度の追求にあった。ピーナッツには油分が多く含まれるため、大きな袋詰めでは一度開封すると、どうしても酸化して味が落ちてしまう。それを避けるため、個包装にして窒素を充てんしたのである。
この製品は、柿の種をめぐる食のシーンを大きく変えた。個包装だから、自分が食べたい分だけをどこにでも持って行ける。それまでは一家だんらんで食べるスタイルが主流だったが、子供が自分の部屋で食べる個食スタイルや、家族が行楽へ持っていくアウトドアスタイルが誕生したのである。
この製品の登場により、「亀田の柿の種」の売り上げは大きく伸びた。「フレッシュパック柿の種」の製品仕様は、そのまま現在の主力商品「スーパーフレッシュ柿の種6個装」に受け継がれている。
「亀田の柿の種」の商品力が高かったことは間違いない。だが、それを一気に大ヒット商品へと成長させた大きな要因は他にあった。80年代後半から90年代前半にかけて起こった、ビールの“ドライ戦争”である。全く新しい味の登場に活気づいたビール業界は、この間に全体の消費量が約3割伸びたと言われている。だが、「亀田の柿の種」の伸び率はそんなものではなかった。なんと3倍弱も売り上げを伸ばしたのである。
それまでもロングセラーではあったが、それが一気にトップ商品へと躍り出たのである。もちろん、登場した時から柿の種はビールのおつまみとして食されてきた。それが完全に定着したのが、この時代だったと言えるだろう。
亀田製菓は流通面でも積極的に挑戦した。50年代末から登場し始めたスーパーマーケットの可能性に着目し、早くからスーパー経由の流通に重点を置いたのである。販売店での状況把握を主眼とした女性の専門部隊「婦人ヘルパー制度」を1967(昭和42)年に設けるなど、そのアプローチは独特かつ綿密なものだった。その結果、「亀田の柿の種」は全国のスーパーの菓子コーナーやビール売り場の隣で販売され、主婦層がこぞって購入する“家庭に置いておきたいお菓子”の一つとなった。
販促面では、69(昭和44)年からテレビCMを行っていたが、90(平成2)年から「亀田の柿の種」のテレビCMをスタート。タレントの武田鉄矢や内藤剛志などを起用し、積極的に若年層への浸透を図った。
会社の規模も年を追って拡大。売上高は1974(昭和49)年に100億円になり、翌年にはついに米菓メーカーで日本一の座を獲得した。91(平成3)年には売上高700億円を達成。小さな「亀田の柿の種」が、会社躍進の大きな原動力になったのである。 |