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戦時中に使われていた陶製の容器。見た目はきれいだが壊れやすかった。 |
戦後のガラス瓶。ラベルに隠れた瓶の色は青、キャップは金属製。 |
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プラスチック容器を採用したチューブ糊。手を汚さずに使える糊は画期的だった。 |
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こちらは現行のチューブ糊。左からT-70、T-220、T-380。数字は内容量(g)を示している。 |
初期のボトル糊。側面にへらが差せるようになっていた。 |
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現行のボトル糊。へらはキャップの裏に収納されている。小さい順からP-70、P-220、P-380。数字は内容量(g)。 |
ヤマト糊の歴史を語る上で忘れてならないのは、容器の移り変わり。なじみ深い緑色のチューブや青いボトルに入ったヤマト糊は、いつ頃から販売されているのだろう?
先述したように、発売当時に使っていたのは円筒形のガラス瓶だった。発売時こそ値段が高かったものの、もともと糊は低価格で売られる日用品。ヤマトは積極的に製造コスト削減に取り組み、ガラスくずを溶かした再生ガラスなどを使うようになった。
戦争が始まるとガラスが入手しにくくなり、1941(昭和16)から5年間は陶製の容器を使用したこともあった。だがこの容器は壊れやすかったため、戦後は再びガラスの容器に戻している。
ガラス容器入りのヤマト糊は昭和30年代頃まで製造された。戦時中の陶器時代を除いても、約60年もの長きに亘ってほぼ同じ容器が使われていたのである。確かにガラス瓶は生産しやすく安価だが、重くて割れやすいという欠点はいかんともしがたい。ガラス瓶時代のヤマト糊(普及品)の重量比率を比べると、瓶と中身が1対1。半分は瓶を運んでいるようなものだから、流通コストの低減はヤマトの懸案事項の一つだった。
ガラスに代わる、割れにくく軽い素材──それを求めていたヤマト糊が目を付けたのは、1950年代始めから徐々に生産が始まったプラスチック素材「塩化ビニール」だった。加工しやすく難燃性、耐久性に優れた塩化ビニールなら、軽く、割れない容器を作ることができる。開発陣は早速、新しい容器の開発にとりかかった。
この時期、ヤマトにはもう一つの開発テーマがあった。経済成長と共に事務職に就く女性が増え、働く女性の間で「糊で手を汚したくない」「もっと簡単に糊を使いたい」という声が上がっていたのである。瓶入りの糊を使う時は、指かへらで糊をすくう。糊を使う度に指を拭いたりへらを掃除するのは、確かに面倒だ。開発陣がヒントにしたのは、歯磨きのチューブだった。先端の細いチューブなら、ほとんど指を汚さずに塗ることができる。
様々な試行錯誤を経た後の1952(昭和27)年、同社はチューブ入りのヤマト糊を発売。価格は瓶入りの糊より高かったが、「重たい」「割れやすい」というイメージを払拭し、更には「手を汚さずに」使用できる画期的な糊として、一躍人気商品となった。この頃、化粧品業界もプラスチック容器を採用したが、ヤマトはそれに先んじていたのである。
ただ、プラスチック容器の製造は簡単ではなかった。初期の容器はチューブにピンホールがあり、そこから空気が漏れて糊がやせてしまうという欠点があったため、途中で素材をポリエチレンに変更。同時に一貫成形を取り入れて、安定した品質を実現した。
4年後の56(昭和31)年には、戦後世代になじみ深い現行のチューブ糊が登場。以来53年間、チューブ糊のデザインはほぼ変わっていない。
1958(昭和33)年にはボトル型のヤマト糊が登場。スチロール樹脂をブロー成形(加熱して溶かした樹脂に空気を吹き込んで金型成形する方法)したボトル容器は、肉厚が薄く凹みやすかったため、縦方向にひだを付けて強度をキープ。へらを添付したのもこのボトルが最初で、使用後は容器の外側へ差し込めるようになっていた。
ボトル型のヤマト糊も、83(昭和58)年に現在の柔らかな四角いデザインに変更されて以降、ほぼ手が加えられていない。印象的なのは、戦後に誕生したガラス瓶と金属製の蓋から受け継いだ“青いボトルと黄色いキャップ”の組み合わせがしっかり受け継がれていること。封筒貼り、仕事の資料作り、スクラップブックの作成…この鮮やかな色遣いは、中年世代の記憶にしっかりと刷り込まれている。 |