時代を超えて愛される国民的菓子の代表格
創業者の森永太一郎。パートナーの松崎半三郎と共に事業を大きく育て上げた。
明治38年当時、赤坂田町の森永商店・西洋菓子製造所。
バラ売りされていた頃の「ミルクキャラメル」。10ポンド缶に入れられ、1粒5厘で販売された。
発売当時の森永ミルクキャラメル。ポケット用紙サック入りは画期的なアイデアだった。
昭和の子供だった中年層にとって、キャラメルは忘れられないお菓子のひとつ。遠足の際に持参するおやつ袋には、チョコレートやガムと一緒に必ずキャラメルの箱が入っていた。それはおまけ付きの「グリコ」だったり、大粒の「サイコロキャラメル」だったり。でも一番よく食べたのは、おそらく「森永ミルクキャラメル」だろう。黄色いレトロなパッケージに入った、まろやかな味わいの一粒。キャラメルと言えば、まずこの商品が思い浮かぶ。
「森永ミルクキャラメル」の歴史は森永製菓の歴史でもある。創業者の森永太一郎は、足掛け12年に及ぶアメリカ修業を経た1899(明治32)年、東京の赤坂に「森永西洋菓子製造所」を設立した。目的は、日本に西洋菓子の文化を普及させること。わずか2坪の工場で、マシュマロやチョコレートクリーム、そしてキャラメルを作り始めた。
だがキャラメルを買ってくれるのは外国人や海外からの帰国者ばかりで、一般庶民にはほとんど売れなかった。理由は簡単。太一郎がアメリカで学んだのはバターやミルクを大量に使うこってりしたレシピで、乳製品に馴染みの薄い当時の日本人の口に合わなかったのだ。高温多湿の気候では短期間でべとべとになり、口当たりも悪くなった。
太一郎は原料となる水飴の配合や煮詰める温度を再考し、キャラメルの品質を改良。一粒一粒をワックス紙で包み、それを10ポンド缶に入れて1粒5厘でバラ売りした。この時生まれたのが、気軽に持ち歩ける携行缶のアイデア。美しく印刷されたブリキ缶入りのキャラメルを販売したが、価格が10粒入り10銭と高かったため、思うようには売れなかった。
「もっと安価な携帯用容器が必要」と考えた太一郎は、さまざまな容器を開発・試作する。その結果1914(大正3)年に完成したのが、後にキャラメル容器のスタンダードとなったポケット用紙サック。同年、上野公園で開催された東京大正博覧会にて20粒入り10銭で販売したところ、飛ぶように売れた。前年の6月10日に商品名を「ミルクキャラメル」に変えていたので、私たちが店頭で目にする箱入りの「森永ミルクキャラメル」は、今から97年も前に誕生したことになる。もちろんこれは、日本で最も古い量産キャラメルだ。
ちなみに森永製菓は6月10日を「ミルクキャラメルの日」に制定し、ほぼ毎年記念商品を発売している。今年は女優の杏がプロデュースした「杏仁キャラメル」を期間限定発売し、話題になった。
大正3年の「煙草代用」広告。キャラメルは大人の嗜好品だった。
世界記録を連発した古橋廣之進選手を応援する広告。
大正4年の類似品注意の新聞広告。
発売翌年の大正3年に出した広告の絵柄は85年後、記念切手のデザインになった。
完成した「森永ミルクキャラメル」を普及させるには、大量に生産し、大量に販売しなければならない。当然、宣伝にも力が入る。森永は新聞などのメディア広告を積極的に打ち、全国津々浦々に「森永ミルクキャラメル」の名を浸透させていった。
興味深いのは、大正期のキャラメルが大人向けの菓子だったことだろう。発売当時の新聞広告や車内吊りポスターには、「煙草代用」のコピーが記されている。大人のたしなみに代わりうるハイカラな存在だったのだ。
この頃の森永製菓に在籍していたのが、戦前の名コピーライターとして知られる片岡敏郎。広告部長だった片岡は、写真や絵を使わない文字だけの感覚的な広告や、人気力士の手形をアイキャッチに使った独創的な広告などで、「森永ミルクキャラメル」の認知度を高めていった。
昭和に入ると、「森永ミルクキャラメル」の生産量は急激に伸びていく。それまで手作業で行っていた包装作業を機械化すると共に、温度と湿度を管理する空調設備を導入。品質の向上を果たしながら、伸び続ける需要への対応を図った。機械化を実現した鶴見工場の生産高は日産30万箱。東洋一の規模だったという。
拡大する需要の担い手は子供たちだった。この頃の広告を見ると、遠足や運動会など、子供の行事をテーマにしたものが非常に多い。
世相を反映した広告が多いのも「森永ミルクキャラメル」ならではの特徴だろう。1915(大正4)年には人気が急上昇していた大学野球をイメージした広告を出稿。25(大正14)年には社団法人 東京放送局による日本初のラジオ放送開始に合わせ、話題が盛り上がっているところでタイミングよく新聞広告を打った。戦後の50(昭和25)年には、当時大活躍し、国民的なヒーローだった水泳の古橋廣之進選手を応援する広告を出稿。世紀のテレビ中継が行われた59(昭和34)年の皇太子御成婚時にも、祝賀に合わせた広告を出している。
こうした多種多様な「森永ミルクキャラメル」の広告は、森永が発売当時から悩まされていた類似品対策の上でも効果的だった。同社は紙サック中箱の引き出し部分に「ニセ物に御注意!」の文字を入れると共に、折にふれて広告文面にも同様の注意書きを記入。こうした広告を目にすることによって、人々は特徴的なエンゼルマークと「森永ミルクキャラメル」の名を一緒に記憶することになった。
郵政省が1999(平成11)年に発売した「20世紀デザイン切手」には、森永が1914(大正3)年に発表した「煙草代用」広告の絵柄が使われている。一企業の広告が、時代の象徴として採り上げられたのだ。
「森永の飛行機セール」では全国横断飛行と飛行機模型のプレゼントを実施。
「キャラメル芸術」受賞作品ポスター。子供への浸透度がよく分かる。
後楽園球場の「フェンス広告」。テレビ中継で目にした人も多いはず。
数字を強調するコピー文面から、森永の自信が伝わってくる。
「森永ミルクキャラメル」急成長の背景にあったのは、大胆なまでのキャンペーン戦略だ。昭和初期の日本は大不況に見舞われており、菓子業界は品質よりも値段で競争するようになっていた。だが品質重視・適正価格を重視する森永は、1931(昭和6)年に「森永の飛行機セール」を実施。これは九州から北海道に至る主要都市を複葉機で訪問し、上空から宣伝ビラを撒くという、前代未聞の消費者キャンペーンだった。
これだけではなく、「森永ミルクキャラメル」30銭分購入毎に、紙製飛行機模型1組を進呈。最終的には300万個もの模型が消費者にプレゼントされたという。
翌年からは「キャラメル芸術」キャンペーンを展開。こちらは「森永ミルクキャラメル」などの包装紙や空き箱を使った立体物などを募集する、学校を対象にした図画工作コンクール。1932(昭和7)年から37(昭和12)年まで計6回行われ、応募総数は全部で186万6400点にもなった。
また36(昭和11)年には「森永母を讃へる会」を発足し、翌年イベントを開催。これがきっかけになり、日本でも「母の日」が広く知られるようになる。
同社にとって、母親や子供は大切なお客様。不況下だからこそ消費者を大切にしなければならないことを、森永はよく知っていたのだろう。
戦後の森永は、それまで以上にマスコミ広告に注力する。民間放送がスタートした1950年代初めから、ラジオやテレビの番組提供を開始。当時人気の高かった民放の大相撲中継も単独でスポンサーになり、「森永賞」を設立した。今も本場所では「森永ミルクキャラメル」が懸賞になっている。
ほかにも、1953(昭和28)年の設置から長らく銀座のシンボルとなっていた地球儀型のネオン塔や、後楽園球場に出したフェンス広告など、森永はさまざまな方法で「森永ミルクキャラメル」をアピールした。
戦後の経済成長と歩みを揃えるかのように、販売量は伸び続けた。52(昭和27)年の広告には、「世界を3まわり半」という誇らしげなコピーが躍っている。これは1年に生産される量を横に並べた長さ。「森永ミルクキャラメル」が国民的菓子になった証だった。
現行の「森永ミルクキャラメル」。変わらぬパッケージは丸い特別表記付きになった。
「森永ミルクキャラメル袋」。小分けタイプで家族用に最適。
レギュラー商品の「あずきキャラメル」。
秋のフレーバー満載の「さつまいもキャラメル」。期間限定商品。
キャラメル市場は長らく子供が支えてきたが、90年代以降は菓子類の多様化や少子化が進み、以前のような急成長は望めなくなっている。数年前の生キャラメルブームで販売量が伸びたが、以降は踊り場。ブランド力のある「森永ミルクキャラメル」も例外ではないが、森永は独自の戦略で新たな市場を開拓しようとしている。
ひとつは、種類とサイズのバリエーション展開。1992(平成4年)に約2倍の粒の「森永ミルクキャラメル大箱」を発売。その翌年には「森永ミルクキャラメル袋」を発売した。98(平成10)年には「黒糖キャラメル」が登場。21世紀に入って味のバリエーションが増え、「抹茶キャラメル」「あずきキャラメル」「和栗キャラメル」「いちごキャラメル」など、さまざまなフレーバーのキャラメルが店頭を飾っている。一度の登場で消えた商品もあれば、消費者の支持を得て復活する商品もある。また、今年発売された「さつまいもキャラメル」や「珈琲キャラメル」のように、期間限定で毎年新商品が投入されるのも大きな特徴だ。
森永が進めるもうひとつの開拓ターゲットは、ウォーキングやハイキングなどのスポーツ・アウトドア市場。キャラメルは夏場でも溶けにくく、かさばらないので手軽に持ち歩ける。運動時の糖分補給に最適な食品なのだ。
2007(平成19)年からスタートした「キャラメル・ウォーキング」キャンペーンでは、ホームページを通じた広報活動を行い、各地で行われるウォーキングイベントを協賛。イベント参加者に「森永ミルクキャラメル」やオリジナルグッズを提供している。
近年の健康志向の高まりから、こうしたウォーキングイベントには年齢性別を問わずさまざまな人々が参加している。大人になるとキャラメルなどの飴菓子類をあまり食べなくなるが、ウォーキングがきっかけなら、かつてのユーザーも再び「森永ミルクキャラメル」に注目するだろう。また、キャラメルに親しみのない若い層を取り込むこともできる。
現行の「森永ミルクキャラメル」を口にすると、昔とはちょっと違うという印象を持つかもしれない。口当たりが柔らかく、食感は滑らか。昔はもっと飴に近い感覚だった。
森永の話では、発売当時は米飴を使用し、オレンジフレーバーを併用していたとのこと。今は小麦粉などの粉原料を使わず、滑らかな食感と適度な軟らかさをを実現しているそうだ。
近所をウォーキングした後、久しぶりに「森永ミルクキャラメル」を食べてみた。上品な甘さが心地良い疲労感をゆっくりと溶かしてくれる。パッケージを決める際、森永は「滋養豊富」「風味絶佳」の二語にこだわったという。その理由がよく分かった。
東日本大震災以降、防災グッズが大きな注目を集めている。食品の場合は長期保存がきく缶詰やレトルト食品、ビスケット類が中心。お菓子には避難所生活における食事面のストレスを軽減する効果もあるという。森永も防災への取り組みとして2008年に「森永ミルクキャラメル」と、同じくロングセラー商品の「マリービスケット」の缶入り商品を発売している(毎年8〜9月にかけての限定発売)。「ミルクキャラメル缶」には通常の「森永ミルクキャラメル」70gを封入。10粒で御飯1杯分のカロリーを摂取できるので、非常時には頼もしい味方になってくれるはず。耐久テストを重ねた結果、賞味期限も3年から5年に延長されている。
もしもの時のために常備しておきたい「ミルクキャラメル缶」。期間限定商品。