計算力向上に貢献したそろばん普及の立役者
中国型そろばん。上珠は2つ、下珠は5つのダンゴ珠を、指でなでるようにして使う。
江戸時代のそろばん。中国型そろばんより小型で、珠を弾けるよう菱形に進化している。
創業者の藤本勇治。一流のそろばん職人にして、野心的な経営者でもあった。
「ご破算で願いましては、○円なり、○円なり……」 パチパチと珠を弾く音が教室内に響く。子供たちの目は真剣そのもの。聞き逃さないよう、間違えないよう、全神経を集中してそろばんに向かっている。今ではあまり見かけなくなったが、昭和の後半まで、そろばん教室は学習塾やピアノ教室と並ぶポピュラーな存在だった。中高年世代なら、「珠算検定の○級を持っている」という人も多いだろう。
古代ローマに起源を持つそろばんが、現在に近い形になったのは中国に伝わってから。中国型そろばんは16進数で計算する必要上、上珠は2つ、下珠は5つあるのが特徴だ。日本には中国経由で室町時代に伝来し、江戸時代には商人を中心に広く普及していたらしい。この頃から、「読み・書き・そろばん」は学問の基礎と言われていた。
スマートフォンのアプリで計算する若い人も、そろばんと無縁ではない。小学校でそろばんが必修項目になったのは1935(昭和10)年から。今も3、4年生の算数の授業ではそろばんが取り入れられている。ちなみに日本のそろばんはこのころから、上珠1つ、下珠4つという今の形になった。
現在、日本にはそろばんメーカーが10社ほどある。最も規模が大きく知名度も高いのが、「トモエそろばん」を生産するトモエ算盤株式会社だ。同社は“播州そろばん”を生んだ生産地、兵庫県小野市で製造職人として働いていた藤本勇治が、独立して東京で始めた店がルーツ。創業は1920(大正9)年で、業界内では新しい部類に入る。有名な「三つ巴」の商標は、藤本家の家紋であり、お客・販売店・メーカーの三者が一体になって発展することを願ったものだという。
今では想像しにくいが、電卓が世に登場するまで、そろばんは多くの商売人にとって必携の計算器具だった。毎日使うので傷みも早い。勇治は傷んだそろばんを終業後に預かり、翌朝までに修理・メンテナンスして顧客の信頼を獲得した。同時に腕の立つ職人を集めて高品質なそろばんの製造を開始。1950(昭和25)年には小野市に最初の工場を建設した。
トモエ算盤(当時は播州屋算盤店)は、戦後間もなく米軍総司令部の購買局にも商品を納めている。これが、現在に続く輸出の足がかりとなった。
最もよく売れているのはスタンダードの23桁。写真は商品番号43300。4200円。
商品番号H7500の価格は5万2500円。選び抜かれた材料と精度の高さが特徴。
桁数を13〜17にまで減らした「スタンダード小型」。商品番号84302は3675円。
勇治はそろばん業界の革命児でもあった。そろばんは機械生産できる部分が少なく、昔も今も製造工程の多くが人手に任されている。昔は全て職人の手作りだったので、同じメーカーのそろばんでも品質に差があるのが普通だった。勇治は製造工程の一部を機械化することによって、徹底した品質管理を実現した。
次にメスを入れたのは販売体制。それまでのそろばんは専門の問屋を通じて流通させるのが一般的だったが、それでは販売量に限界がある。勇治は新たに文具ルートを開拓し、短期間のうちに全国にまたがる販売網を整えた。1950(昭和25)年には業界初の統一価格制を実施。品質はバラバラ、価格もまちまちだったそろばんを、近代的な工業製品へと一変させた。
1955(昭和30)年には東京・神田に新社屋を落成。小野市に2つ目の工場を建設し、アジアへの進出にも乗り出した。以降、「トモエそろばん」の名は全国に知られるところとなり、その販売量も右肩上がりに伸びていく。
成長の背景には、60年代から70年代にかけての高度経済成長に伴うオフィス需要の増加があった。電卓が普及する以前、そろばんは唯一の計算器具だったと言っていい。事務職の勤め人なら、誰もが日常的にそろばんを使っていた。そろばんがなければ仕事にならなかったのが、銀行などの金融関係。就職時には、そろばんを一定以上のレベルで使いこなせることが必須条件だった。
こうしたオフィス需要に加えて学校需要、家庭需要があったわけだから、当時のそろばん市場は非常に大きかったことになる。良質な製品を全国の販売ルートに乗せて送り出していたトモエ算盤は、またたく間にシェアトップの地位を獲得。現在も市場の約6割を占めているという。
60年代からはテレビCMを積極的に打ち、番組の冠スポンサーにもなっている。お茶の間に流れた「願い〜まし〜ては〜、トモエのそろばん。パーチパーチパッチパッチ♪」というメロディーを覚えている人も多いはずだ。
持ち運びを考えてサイズは小ぶりに、操作のしやすさから珠は菱形へと、日本のそろばんは進化してきた。その結果が、現在のそろばんの基本である4珠で23桁という形。最初に製造された「トモエそろばん」の記録は残っていないが、昔の製品も現在の製品も、形はほとんど変わっていない。
中心商品は「スタンダード」と呼ばれる一般的なタイプ。珠の材料は硬く摩耗しにくい樺材で、斧折樺(おのおれかんば)と呼ばれる非常に硬いものが使われている。枠に使われるのは強度の高い黒檀。軸は真竹で作られ、高額な商品には数十年以上自然乾燥されたスス竹が使われるという。
同じ「スタンダード」でも値段にはかなりの幅があるが、これは材料はもちろん、加工の精度に違いがあるため。高額なそろばんは熟練の職人が製作し、磨きや組み立てなどの工程も増える。それだけ入念に作られているのだ。
使いやすさを追求した「グレート」。商品番号G4330は3675円。
押すだけでご破算になる「ワンタッチそろばん」。商品番号ON100は1万500円。
新旧の計算器具が同居する「電卓付そろばん」。6825円。
「トモエそろばん」には、会社成長期に発売され、現在もロングセラーを続けている商品がいくつかある。そのひとつが、1961(昭和36)年に発売した「グレート」。側板を丸棒にし、珠をはじいた時に指が側板に当たらないよう工夫した独自の製品だ。長時間使い続けても疲れを感じさせないのが特徴で、軽快な指使いを求める人にも好評だという。
検定上位を目指すユーザーに支持されているのが、1981(昭和56)年に発売した「ワンタッチそろばん」。バネを組み込んだボタンを押すと、中棧(なかざん)と呼ばれる横板に設けられた上下の板が上珠と下珠を押し広げ、一挙にご破算にする仕組み。制限時間内にできるだけ多くの計算をしなければならない珠算検定では、そろばんをご破算にするわずかな時間も無視できないのだ。
伝統的な「スタンダード」型とは異なるタイプのそろばんもある。携帯用の小型そろばんとしてラインアップされているのが「プラスチックそろばん」。価格が安く、低年齢の子供が使うのに向いている。6色のカラー珠そろばんは、持っているだけで明るい気分になれそうだ。
初心者用そろばんとしてよく使われるのが「パチQそろばん」。一般の珠よりやや大きい八寸珠を使っているので、弾きやすく見やすいのが特徴。
「なぜこんな商品が?」と不思議な気持ちになるのが「電卓付そろばん」だろう。1978(昭和53)年に発売した「ソロメイト」から発展した商品で、現在も継続販売されている。足し算や引き算は馴れているそろばんで、掛け算や割り算は電卓で、というように、計算の種類によって使い分ける人に支持されているらしい。
昔懐かしい気分に浸れるのは「問屋そろばん」。サイズが大きめで、4つ珠と5つ珠の2種類がある。5つ珠は一桁に10までの数が置けるそろばんで、現在のそろばんとは使い方が異なっている。横板に漢数字で桁が書かれているところが商売用の証。老舗の蕎麦屋などでたまにみかける、風情のあるそろばんだ。
数の概念を分かりやすく伝えることができる「百玉そろばん」。
「10玉サポートそろばん」。両サイドが黒いので玉をはっきり認識できる。
玉のイメージを鮮明にするツールとして開発された「回転ターボそろばん」。暗算指導に最適。
「トモエそろばん」が販売のピークを迎えたのは1980年代。この頃からカードサイズの電卓が急速に普及し、そろばんは次第に活躍の場を失っていった。会社を引き継いだ藤本トモエ社長は、計算器具としてのそろばんの役割は終わったと判断し、「トモエそろばん」が進むべき新たな方向性を模索した。
その結果が、現在力を入れている教育ツールとしてのそろばん需要。そろばんが学校教育の項目から外れたことはないが、電卓が普及した後はさほど重要視されてこなかった。だがゆとり教育以降、若者たちの計算力低下が問題になると、指で珠を弾き、目で動きを確かめ、自分の頭で考えるそろばんが見直されるようになる。事実、ピーク時の204万5000人から18万人にまで落ち込んでいた珠算検定・暗算検定の受験者は06年度から増え始め、09年度は30万人近くにまで回復した。そろばんの効用が再認識されているのだ。
トモエ算盤は「百玉そろばん」「10玉サポートそろばん」「回転ターボそろばん」など、指導者用の補助教材を次々と開発。数感覚を身に付けるための道具としてそろばんを使い、子供たちに計算の仕組みを教えようとしている。また、実際のそろばんだけでなく、そろばんによる数の数え方や数の成り立ちそのものを教えるカードやドリルの教材もある。
他社にも同様の商品はあるが、これほどアイデアに満ちた商品を用意しているそろばんメーカーは他にない。同社は四ッ谷の社屋でそろばん教室を開いており、ここで得られた知見が新商品開発のヒントになっているという。今のトモエ算盤は商品としての「トモエそろばん」を販売するだけでなく、そろばんを教え、そろばんの世界を広げる活動に力を入れているのだ。
こうしたトモエ算盤の活動は、日本だけでなく世界を視野に入れている。創業者の時代から、「トモエそろばん」は世界48ヵ国で販売されてきた。現在はそれぞれの国情に合わせたそろばんを製品化するだけでなく、そろばん啓蒙のための専門家派遣にも協力している。
そろばんを学ぶのに才能は要らない。努力すれば誰もが上達するし、計算力が向上する。だからこそ日本では明治時代から学校教育に取り入れられ、日本人の基礎学力を底上げする要因のひとつになってきた。「トモエそろばん」がその土台を作ったことは間違いない。
現在のトモエ算盤は、その土台をもう一度しっかり作り直そうとしているように見える。往時に比べると販売量は減ったが、「トモエそろばん」の存在価値は以前にも増して高まっているのだ。
そろばんは目や指を使うだけでなく、集中力が必要とされる計算器具。そろばんを使っている時、脳の血流は活性化し、熟練者ほど右脳の働きが増すことが分かっている。そこで期待されているのが、認知症予防の効果だ。トモエ算盤は福祉センターなどからの要望に応え、シルバー世代を対象にした「認知症予防講座」を開講。専任の講師が独自のプログラムに基づき、トモエ算盤のオリジナル教材を使ってレッスンを行っている。使用するそろばんは、珠の大きな13桁そろばん「レジペット」や、指の大きなアメリカ人向けに作られた5桁の「USそろばん」。「レジペット」はもともと会計用のそろばんだったが、高齢者用そろばんとしてリニューアルした。講座には計算だけでなく、楽しんで参加できるよう、ゲームの要素も盛り込まれている。
黄色の大きな珠が操作しやすいと好評の「レジペット」。