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ニッポン・ロングセラー考 Vol.111 スポーツサイクル

1890年 発売

ミヤタサイクル

INDEX

日本初の安全型自転車を経て純国産品の製作へ

画像 二代目・宮田栄助

ミヤタサイクルの開祖となった二代目・宮田栄助。

画像 試作した安全型自転車

宮田が試作した日本初の安全型自転車。タイヤ以外は全て自社製だった。

画像 アサヒ競走用自転車

明治30年代の「アサヒ競走用自転車」。自転車レースはこの頃各地で開催されていた。

画像 蒲田工場

昭和初期の蒲田工場。自転車とオートバイを生産する最新設備が整っていた。

自動車ならカローラ、オートバイならスーパーカブ。乗り物にはロングセラーが少なくないが、なぜか自転車にはそれが当てはまらない。メーカーの名は知っていても、自分が乗っている自転車の商品名まで知っている人は少ないはず。量販店で購入した自転車なら、メーカー名すらはっきり分からないかもしれない。
特別なロングセラー商品はないけれど、日本で最も早く量産型の自転車を発売し、今も魅力的な商品を作り続けているメーカーが東京にある。神奈川県茅ヶ崎市に工場と開発拠点を構える、株式会社ミヤタサイクルだ。戦前は宮田製作所、60年代以降は宮田工業として数々の自転車を開発・製造。2年前に自転車部門を分社し、現在の形になった。
戦前に誕生した国産自転車メーカーで、現在も事業を続けている会社はほとんどない。“MIYATA”ブランドそのものが、自転車業界のロングセラーといっていいだろう。

そのルーツは明治初期にまで遡る。鉄砲鍛冶(鉄砲製造職人)だった初代・宮田栄助が銀座に宮田製銃所を開設したのは1881(明治14)年。次男の二代目・宮田栄助も腕の立つ鉄砲鍛冶で文明開化の波に乗り、銃を基礎としたさまざまな機械の製造に取り組んだ。
89(明治22)年、彼の元にある外国人が1台の自転車を持ち込み、修理を依頼する。自転車は19世紀初めに発明されたものだが、この頃には菱形のダイヤモンドフレーム、チェーン駆動を特徴とする現在の形に近い「安全型自転車」が登場し、日本にも細々と輸入されていた。
なぜ、銃の製造所に当時最新鋭の自転車が持ち込まれたのか。実は欧米の自転車メーカーも、その前身はほとんどが製銃工場だった。銃身パイプや焼き入れなど銃の製造技術が、そのまま自転車に応用できたからだ。

この経験から自転車の将来性を予見した二代目・宮田栄助は、1890(明治23)年に日本初の「安全型自転車」を試作する。タイヤ以外の部品は全て自家製という苦心の作で、欧米の自転車に比べても遜色のない出来映えだった。この自転車は希望者に販売するだけでなく、当時の皇太子殿下に上納するという栄誉にも浴している。
日清戦争後の1902(明治35)年には、会社を宮田製作所に改めて自転車製造に専念。市場は輸入品が中心で購入者も富裕層に限られたが、同社はアメリカの製品をモデルにした「アサヒ号」や安価な「パーソン号」を発売し、徐々にその評価を高めていった。今も使われている“ギヤM”マークは、06(明治39)年に登録商標されている。

日露戦争、第一次世界大戦、そして関東大震災という荒波を経て、自転車は富裕層向けの高級品から庶民の実用品、生活の道具へと変わっていった。宮田は長年培ってきた高度な技術力を駆使し、良質で廉価な自転車を大量生産。1930(昭和5)年には年産20万台を達成し、国産自転車のトップメーカーになった。
意外に知られていないのは、宮田が早くから事業の多角化を図っていたこと。当時の他メーカーと同じく、明治、大正期からオートバイと自動車の製作に着手していた。特にオートバイは昭和初期から生産を開始。太平洋戦争終結後も人気車を次々と発売して、一時代を築いた。52(昭和27)年には日本初の粉末消化器を発売し、乗り物とは異なる分野にも進出している。
だが熾烈な販売競争のあおりを受け、62(昭和37)年にはオートバイの生産から撤退。以来ミヤタサイクルを分社するまで、宮田工業は自転車と消化器を2本柱に事業を育ててきた。


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電子フラッシャーで少年の心を掴んだ高度成長期

画像 サンライズ10

1969年の「サンライズ10」。ドロップハンドル、10段変速、角形ヘッドランプが特徴。

画像 サリー5、昔のカタログより

少年向けの「サリー5」。電子ウインカー、5段変速機付き。少年スポーツにはセミドロップハンドルが採用された。

画像 「エディ・メルクス」ロードレーサー

「エディ・メルクス」のロードレーサー・デラックス。15万円近い高級モデルだった。

画像 「ジュネス」ツーリング車

「エディ・メルクス」の弟分にあたる「ジュネス」シリーズ。普及型のスピードモデル、「ジュネス・ファーストライディング」。

オートバイ生産からの撤退は大きな痛手となったが、会社が生まれ変わる契機ともなった。宮田は1963(昭和38)年に社名を宮田工業と改称。翌年には茅ヶ崎に新工場を完成させた。
時代は日本経済が右肩上がりに伸びてゆく高度成長期。50年代後半には最初のサイクリングブームが起こり、各メーカーがこぞってスポーツサイクルを発売した。64(昭和39)年に開催された東京オリンピックで各種の自転車競技が行われたことも、本格的なスポーツサイクルの普及をバックアップ。この頃から自転車は実用の道具としてだけでなく、趣味的商品の色彩を強めてゆく。

この時代に、宮田は市場の牽引役となったいくつかのスポーツサイクルを開発・販売している。その先駆けとなったのが、1965(昭和40)年に発売した「サンライズ」。ドロップハンドル、多段変速機付きの26型スポーツ車で、高校生から青年層をターゲットにしていた。2年後には小中学生を意識した「サリー」を追加。同じ26型ながらこちらはフレームが若干低床化され、乗り降りしやすくなっていた。

今とは違ってゲームも携帯電話もないこの時代。子供の娯楽は外での遊びが中心で、機能満載で見るからにカッコいい自転車は憧れの存在だった。60年代後半から80年代初頭にかけて少年向けスポーツサイクルは大きなブームとなり、多くのメーカーがこぞって参入。電子フラッシャー(点滅式の方向指示器)やディスクブレーキ、自動車のようなシフトレバーなど、とても自転車とは思えない装備を積んだスポーツサイクルが矢継ぎ早に登場した。
宮田も「サリー」シリーズにオイルディスクブレーキやウインカーを積んだモデルを登場させるなどして、この商戦に参加。中にはリトラクタブルライトやフォグランプを装備したモデルもあった。
少年スポーツ車の価格は3〜5万円といったところ。70年代初期の大卒初任給が4万円くらいだったから、親も大変だったに違いない。

少年スポーツ車が流行した一方で、大人の自転車ファンに向けた本格スポーツサイクルも一定の需要があった。高速走行を重視したロードレーサー、ツーリング向きで分解しやすいランドナー(輪行車)、前後の車軸にバッグを据え付けたキャンピング車など用途に応じた複数のカテゴリーがあり、その全てを手掛けるメーカーもあれば、一部に特化した専業メーカーもあった。
マスプロメーカーの宮田はもちろん前者。ファンの記憶に残っているのは、1973(昭和48)年から数年間に渡って発売された「エディ・メルクス」シリーズだろう。史上最強と謳われたロードレース選手の名を冠したこのシリーズには、ロードレーサーからサイクルサッカー用のモデルまで、ありとあらゆるタイプが揃っていた。


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国産マウンテンバイクをリードした「リッジランナー」

画像 「ATBカーボン5000」、社史P.93より

新素材を採用したMTB「ATBカーボン5000」。セミオーダーシステムも導入された。

画像 「リッジランナー」代表モデル

ヒット商品となったMTB「リッジランナー」。多彩なフレーム素材が話題を集めた。

80年代に入ると、少年向けスポーツ車ブームは潮が引いたように去ってしまう。また大人向けスポーツサイクルの人気も下火になり、宮田はじめ各社がラインナップを整理し始めた。こうした動きとは逆に、スポーツサイクルの新たな市場を作り出す異色のカテゴリーが現れた。
それがアメリカ生まれマウンテンバイク(MTB)。アメリカで初の量産モデルが発売されたのは1981(昭和56)年だが、その翌年には日本でも市販モデルが発売されている。

宮田もその流れを読み、80年代からMTBを発売。中でも1990(平成2)年から2008(平成20)年まで継続販売した「リッジランナー」シリーズは、累計100万台近いヒット商品となった。海外ブランドの人気が高いMTBの中にあって、国産の「リッジランナー」は異色の存在だったといえるだろう。バリエーションも多彩で、オフロードタイヤやサスペンションを装備した本格派MTBから、細身のタイヤを履いたシティラン重視のモデルまで、用途に合わせて選ぶことができた。

この「リッジランナー」で注目すべきは、当時の宮田が持つ素材技術がフルに投入されていた点だ。宮田は1987(昭和62)年、フレーム素材として高品質のアルミ、カーボン、チタンに着目。しかしこうした新素材は従来の加熱溶接工法が使えないため、新たな工法を開発する必要があった。研究の末、開発に成功したのが宮田独自の新接着方式「APA工法」。従来の接着工法では避けられなかった“パイプ抜け”を防止でき、強靱で作業工程も少ない画期的なフレーム製造工法だった。
宮田は「リッジランナー」にフルアルミやフルカーボンの高級モデルだけでなく、新素材と従来のスチール(クロムモリブデン鋼)を組み合わせたやや安価なモデルも用意。MTBに興味を持つ新しい自転車ファンに幅広くアピールすることに成功した。

80年代まで個性豊かなカテゴリーが揃っていたスポーツサイクルは、90年代以降、オンロードを前提にしたロードバイク(かつてのロードレーサー)、街乗りや通勤にも使えるMTBルックのクロスバイク、そしてオフロード走行を楽しむ本格的なMTBへと姿を変えていった。
ユーザーにとっての位置付けも、趣味的商品から、ライフスタイルをより豊かに彩るファッションツールのような存在へと移行した。この頃から、自転車は“〜バイク”と呼ばれるようになる。


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最新技術をフルに投入し、高級スポーツ車市場に再参入

画像 「EXクロス」代表モデル

雨の日も安心して乗れる「EXクロス」。39,800円。サス付きや女性用もある。

画像 「メリダ」BIG.NINE TFS 100-MD

「メリダ BIG.NINE TFS 100-MD」は29インチのMTB。69,900円。

画像 「The miyata」レジェンドブルー・プレミアムゴールド/18金メッキ

「The miyata レジェンドブルー・プレミアムゴールド/18金メッキ」。799,000円。

2000(平成12)年以降、国内の自転車供給台数は1,100万台近辺だったが、ここ5年は漸減傾向にある。そのうち約9割を占めるのが中国からの輸入自転車。平均価格も下がっている気がするが、実際はその反対で、むしろ上昇傾向にある。電動アシスト車とスポーツサイクルの販売数が伸びているのだ。
スポーツサイクルの人気が復活した理由としては、ここ数年続く健康志向への高まりと、商品のバリエーション化やファッション化、そして低価格化が進んだことが挙げられる。

ミヤタサイクルの現行ラインアップも、こうした市場動向に沿ったものだ。MIYATAブランドとしては、街乗りからロングライドまで幅広く楽しめる「フリーダム」と、クロスバイクに実用性を加味した人気シリーズ「EXクロス」を用意。定番のMTB、クロスバイク、ロードバイクには、2年前に資本提携した海外ブランド「メリダ」の豊富なモデルが揃っている。メリダはジャイアントに次ぐ台湾のメーカーで、設計をドイツのファクトリーで行っているのが特徴。ミヤタサイクルはレースイベント「メリダ・ミヤタカップ」の定期開催や体験スペースの開設を通じて、同ブランドの販促に力を入れている。

かつての宮田製品を知っているユーザーなら、現行商品の価格がそれほど変わっていないことにも驚くだろう。今はアルミフレームのスポーツサイクルが4万円弱で購入できる。中国製品に比べると高価だが、商品価値の高さは比べるまでもない。
装備やデザインなら真似できるが、フレームの加工精度や作りの良さ、耐久性といった目に見えない部分は伝統と経験の差が物を言う。その意味では、同社の全ての製品に、122年に及ぶミヤタサイクルのノウハウが凝縮されていると言っていい。

今年1月、ミヤタサイクルは30年ぶりに高級スポーツ車市場に再参入した。30年前、同社はオランダの会社と提携して自転車の本場ヨーロッパへ進出。1980年(昭和55)年には日本製ロードバイクとして初めてツール・ド・フランスに出場し、翌年にはステージ優勝も果たしている。
販売されたのは、完成車4タイプ7モデルとフレーム販売4モデル。全て受注生産で、最上級モデルの「The miyata」には、粘りのある弾性を引き出しながら安定した走行性能を実現する究極のスチールフレーム技術が導入されている。
このプロジェクトのために工場内に新たな製造スペースを設け、熟練技術者のチームを組んだミヤタサイクル。そこには、どこよりも早く本格的な自転車を作り上げたメーカーの誇りと、自らの技術に寄せる絶対的な自信がある。

取材協力:株式会社ミヤタサイクル(http://www.miyatabike.com
MIYATAの設計思想はキッズサイクルにも

ミヤタサイクルには、スポーツサイクル以外にも大ヒットを記録した製品がある。1969(昭和44)年に創業80周年を記念して発売した、幼児用自転車の「ピーターパン」だ。当時は子供用の自転車こそあったが、幼児を対象にした補助輪付きの自転車は市場に存在しなかった。この製品は手を入れても怪我の心配がないプレスホイールや、体をぶつけた時のショックを和らげる丸ハンドルなど、細部まで子供の安全を考えて設計されていた。市場の評価は高く、なんと累計200万台ものセールスを記録。現行ラインアップに同じコンセプトの商品はないが、今はその安全思想を受け継いだマウンテンバイクフォルムの「ジャンパー・キッズ」が、このカテゴリーの代表モデルとなっている。

画像 「ジャンパー・キッズ」

男の子に人気の「ジャンパー・キッズ」。20,800円(16インチ)。

画像 「ピーターパン」

発売当時の「ピーターパン」。

タイトル部撮影/海野惶世 タイトル部撮影ディレクション/小湊好治 取材編集/バーズネスト
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