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「手で考える」ことを忘れては、良い知恵は生まれません。
第22回 作家、旋盤工 小関智弘さん


現場を見続けることへのこだわり

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ものづくりについて伺う前に、小関さんご自身のことを伺いたいのですが、小関さんは、18歳の頃から旋盤工として町工場で働き始めたとのこと。と同時に、小説や町工場の視点から社会を見つめたノンフィクションなど執筆活動も行っていらっしゃる。そもそも、どのようなきっかけで旋盤工になられたのでしょうか?

小関

よく「工業高校卒」という肩書きを見て、「なるほど、だからか」と納得される方がおられますが、在学中はちょうど戦後の教育制度の改正があったために工業の授業がほとんどなかったんです。ですから肩書きは「工業高校卒業」ですが、工業の勉強なんて製図や電気の基礎の基礎を学んだ以外、全くしていません。
高校卒業後、大学進学を考えていた時期もあったのですが、家の事情もあってすぐに小さな工場で働き始めました。私の家族は、当時、終戦から6年経っても、まだバラックで生活をしていて、そのバラックというのが、人が住める状態ではないくらい朽ち果てていた。指でトタンを押すと、ずぶずぶっと崩れるような有様で(笑)。だからまず生活を立て直さなくてはいけないと考えたんですね。それで求人募集のポスターで見つけた小さな工場に勤めることになりました。その工場に、たまたま旋盤という機械があって、私がそれを使うことになりました。それが旋盤工となったきっかけです。もしその工場が求人募集をしていなかったら、もしそこに旋盤がなかったら、全く違った人生を歩んでいたかもしれません。

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それでは将来「もの書きになる」ということはお考えでしたか?

小関

全くありませんでした。ただ、中学、高校と文芸部に所属していたこと、工場で働き始めた頃というのは、戦後、労働組合や地域の文芸部や演劇のサークルが盛んだった事もあり、私も地域の青年会の文芸好きを集めて、サークルを立ち上げました。その後結婚してから、4人の仲間と『塩分』という文芸サークルを作りました。1959(昭和34)年に立ち上げて、今でも創立のメンバーを中心に活動を続けています。
文章を書くことについて、『塩分』の影響は大きかったですね。本を読んで、それについてメンバーで討論するという作業を通して、かなり力がついたと思います。

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いわゆる「二足の草鞋」ということですが、ご著書を拝読する限り、旋盤のお仕事と作家のお仕事は切り離せない車の両輪のようにも感じられます。

小関

「二足の草鞋」とはよく言われますが、私自身にとってみれば一足の草蛙しか履いていません。小説でもエッセイを書くのでも、自分の周りで起きたことや体験したこと、場所や登場人物など、自分の身の回りのことを書いているんです。旋盤工でしか書けないことを書いている。逆にいうと、旋盤工だったおかげで書けたことを書いているのだと思います。

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作品が直木賞や芥川賞の候補にまでなり、その時に作家として生活して行こう、とは思われませんでしたか?

小関

確かに出版社の編集担当者からは、もの書きになるように勧められました。でも当時、70年代の終わり頃は、マイクロエレクトロニクスが登場し、工場の様子が一変した時代でした。これまではハンドルを握って、それを微妙に操作しながら鉄を削っていたのが、コンピュータにプログラムを入れると機械が自動的に鉄を削る。私は、その変化を目の当たりにして、今は書くことを一旦止めても、この変化の現場にいなくてはならない、と考え、実際「しばらく本は書かない」と宣言していました。
新しいものが好きなんですね。新しい機械の技術を学びたかった。初期の制御機械というのは、三角関数やピタゴラスの定理を使った数式を自分で計算して入力しなくてはいけなかったので、息子の数学の教科書を借りたりしながら必死に復習しました(笑)。その後、NC旋盤を導入している町工場に勤めることになり、技術を習得していきました。

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それは、おいくつの頃のお話でしょうか?

小関

43、44歳の頃ですね。とにかく音を立てて世の中が変わっていった時期でした。今まで現場の主役だった職人たちが脇役になってしまった時期とも言えます。

仕事に向かう姿勢が作る「働きがい」
   

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私たちが働く環境は、以前に比べて大きく変化し、ともすれば「働きがい」を見失いがちだと言われます。小関さんは、当初旋盤の仕事を軽く見ていたというお話ですが、今は、旋盤のお仕事を理解し愛しておられます。どんな気持ちの変化があったのでしょう?

小関

30代の始めは「鉄なんて、削っても削っても変化がないもの。一生俺はこんなことをして過ごすのか」と思っていた時期があります。旋盤工としては、人並みの技術をつけた事もあって、慢心していたところもあるのでしょう。ですが、子供も産まれたばかりだったし簡単に辞めるわけにも行かない。作家と言ったって保証があるわけでもなし、やはり一生続けていく仕事として覚悟を決めなくてはいけない、それなら、腕のいい旋盤工になろうと思ったんです。
そこで、まず、毎日の仕事についてメモを取り始めました。この鉄は粘りがあるとか、固いとか、どの刃物を使ったとか、その時の研ぎ方はどうしたとか、削るのにどれくらい時間がかかったとか、削った時の鉄の色はこんなだったとか、そういった内容です。やってみたら何とも奥が深い。それに私は何も知らずにそのメモを付けていましたが、自分が仕事を通して書いたメモの内容が、鉄を科学的に測定し分析したものと同じ結果だったということを聞いて「鉄を削るって面白い仕事だったんだ」と知りまして(笑)。
それまでは与えられたものをただ削っているに過ぎなかったのですが、削り方を工夫したことによってどういう変化があったかを自分で実感できたためでしょう。受け身の姿勢を変えたことで面白さがわかったんですね。そうやって自分がどれだけ仕事に「乗る」か、ということは、働きがいを感じる上で大切なことでしょうね。
また、勤めていた工場で隣にいた職人の影響もあると思います。ものすごく腕が良い上に、器用というだけではなくて、ものを作るのに非常に知恵を働かせる人でした。

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知恵を働かせるというと、具体的にどんなことでしょうか?

小関

例えば、旋盤の仕事には「治具作り」という過程があります。これは簡単に言うと、工作機械で正確に加工するための道具のことですが、職人はこれを自分で作ります。求められる製品を作るための設計図はあるけれど、それを作るための過程は、それぞれが自分で考えるのです。その治具の善し悪しで、製品の出来上がりも全く異なってくるのですから、職人の腕前がはっきりと出る、正に職人の知恵のかたまりと言えるでしょう。

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経験や仕事への姿勢が物を言う場面ですね。

小関

そうですね。特にコンピュータ化された機械相手では、機械の機能やプログラムの仕方さえ分かればものが簡単に作れてしまう。「マニュアル通りにやっていればいい」という気持ちになるのもたやすいことでしょう。ですが、それでは「自分で作っている」という実感が何もなくなってしまいます。それは「作る」のではなく「作れてしまう」、さらに言えば「作らされている」に過ぎません。それでは働いているのではなく「にんべん」のない「労動」になってしまいます。

小関

私は、小さい工場をたくさん訪ね歩いていますが、日本人は働くことが生き甲斐になっているのだなとしみじみ感じています。そういう民族的な文化があることは良いことだと思います。
日本人のすごさというのは、現場を作り上げてきた人達が現場に踏みとどまっているということ、つまり現場に底力があるんです。
大田区の小さな工場を始め、日本の工場は現在、世界で唯一というものをたくさん作り出しています。例えば、缶詰の蓋。ジュースや缶詰のプルトップ型の蓋は指を切りやすく、これを解消するために日本の大学の研究機関でも億単位の予算をかけて研究していましたが、実際にそれを作り出したのは、大田区の工場にいる、金型作り数十年というベテラン職人でした。
カメラ用のモーターのシャフトも、今までは削り出して作っていたものを、削らずに100分の1の精度で作れる製法を日本の町工場が編み出しました。これら全て、現場の人間が蓄積してきた感覚、感性、知恵があってこそ発想できる、新しいものづくりのプロセスです。知識ではなく、知恵です。

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それは、ひとりひとりが自分の中に積み重ねていくものなのですね。

小関

結局、ものづくりというのは人づくりなんです。今、若い時に実際に手でものに触れ、考える経験を経た人が少なくなってきていますが、そうした人達に、現場の人達が蓄積した技術や知恵をどうやって継承していくかということが、産業界でも問題になっています。例えば工場でしたら、コンピュータで管理された大工場では、手で鉄を叩いたり、削ったりしなくても、ものが作れてしまうシステムになりましたが、それによって、例えば機械の音がいつもと違う、とか、匂いが変だということに気づきにくくなりました。

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事故を未然に防ぐ手だてを失いつつある、ということですね。

小関

そうです。今はまだ、コンピュータ化される以前から、現場で働いてきた人達がいるので、蓄積した経験をもとに、異常をすばやく察知出来ますが、彼らがいなくなってしまったらどうなるか……。人間の能力というのは、非常に精密で、機械はそれを補おうとするものに過ぎない。ですから、多くの企業では危機感を持っていて今の内に、コンピュータだけで仕事をして育ってきた人達に、人間の持っている感覚や感性、知恵、工夫の大切さを教育していこうと動き始めているのです。これは事故防止という例ですが、それだけではありません。
最近「現場力」という言葉をよく耳にしますが、私はつまり必要なのは「手でものを考える能力」だと思います。手を通してものと接触して、作る感覚を身につけることによって、マニュアル労働ではなく、自分の仕事への提案も出てくるでしょう。「これはこういうものだから」と教われば、問題意識を持てません。ですが、新しいことに挑戦しよう、こうしてはどうか、という提案は、現場をこなした人間にしかできません。「手でものを考える」ことなしに、ものが作れてしまう状況になってしまうのは、経済にとっても危惧すべきことです。手でものを考えていくことの重要さは、もっと見直さなければいけないことだと思います。

インタビュア 飯塚りえ
小関智弘(こせき・ともひろ)
1933年東京、大森生まれ。都立大学付属工業高校卒。高校時代から文筆活動に親しみつつ、18歳から大森・蒲田の町工場で働く。『羽田浦地図』『祀る町』で芥川賞候補、『錆色の町』『地の息』で直木賞候補に。著書に『町工場・スーパーなものづくり』(筑摩書房)、『ものづくりに生きる』(岩波ジュニア新書)、『職人学』(講談社)など多数。
知恵と感性が蓄積された日本の現場力
撮影/海野惶世 イラスト/小湊好治 Top of the page

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