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「アートは自分自身を映す鏡。背負っているものによって、感じ方が違うのです。」
第26回 京都造形大学教授 福のり子さん

アートを定義するのは私達の目

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私達は「美術」、「アート」と聞くと、身構えてしまうことがあります。接し方が分からないと言うか、「美術品」としてあがめ奉ると言いますか……。

今、「美術」と「美術品」という言葉が出てきましたが、私は「美術」という言葉をあえて使わないようにしています。というのも、一般的に「美術」と言うと、美しくて技術をもったものと思われてしまうからです。なので、個人的には「アート」という言葉を使っているのですが、質問にあった「美術」という言葉を「アート」と置き換えた時、「アート」と「アート作品」という言葉が出てきたことになりますが、それぞれの違いは何だと思いますか?

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「アート」や「美術」と言った時には、それがモノでも、インスタレーションでも、自分に影響を与える力を持っているという印象ですが、そこに「品」とついた途端に「モノ」として外から見ているように感じます。

「品」ってついたとたんに、「これ、なんぼ位するのかなぁ」って、お金のことも考えますよね(笑)。
「アート」と「アート作品」は違います。多くの人が混同していますが、私は両者をはっきりと分けて考えたいんです。アート作品は「モノ」。しかも、基本的に作家が意図して作ったモノです。だから、古いものでも新しいものでも、インスタレーションでもダンスや音楽でも「アート作品」に含まれます。しかし「アート」は、モノではありません。何かを見た時に、その人の中に起こる感情や考え、疑問、怒り、喜び……その現象そのものを私は「アート」だと思っています。ということは、たとえ作品があっても、そこに見る人がいなければ、あるいは見た人に何の感情も沸き立たせなかったら、「アート」は存在しないということです。
例えば、ここにヴィンセント・ヴァン・ゴッホの絵があるとしましょう。でも私がそれに気付かなかったら、そこに「絵」はあるけれど「アート」は存在しない……キュレーターもギャラリストも私達も含めて、見る人が一番大切であり、その見る人がアートをつくるという、これが重要なポイントだと考えています。美術館の中に収まっているものはプロが選んだもので、すばらしいものがたくさんありますが、だからといって別に美術館に収まっているものだけがすべてではありません。

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美術館にある作品を有り難く拝見するのではなく、それに接した時の自分の感情が重要だということですね。

ゴッホの描いた絵に数十億という価格が付いて話題になりましたが、彼が生きていた間、作品は一点しか売れていません。ゴッホの作品は、作られた時と全く変わっていないのに、評価は変わっていく。これは、作品を見る人が、そして社会が変わったことによって、新しい価値が付随したということです。もし当時、あの絵が美術館にあっても皆見向きもしなかった、というより「何だこれ?これがアートか!」って、怒ったかもしれません。しかし、時を経て見る人たちが彼の作品を「再発見」し、「再解釈」したのです。他にももっと多くの「ゴッホ」がいたかもしれないし、あるいは逆にある時期に素晴らしいとされた作品でも、時代を経て忘れられていったものもあります、つまり、アートを生かすも殺すも、私達自身。見る人が育たないと、アートは死んでしまうということです。
美術館に収まっているものは、何十年、何百年というプロセスを経て収められたものですから、もちろん良いものであることは確かです。ですが、だからといって全て有り難く、素晴らしいと思う必要はありませんね。自分に語りかけてくれないものなら、極端に言えば、無視してもいいと思います。

 

「見る」ことと「見えない」こと
   

一方で、私達は、アートを見る訓練を受けていません。読み書きといった文字に関するトレーニングは、学校教育も含めて何十年にもわたってしますが、モノを「見る」訓練はしていないのです。目を開けていたら見ることができてしまうから、「勉強せんでもええ。見えるもん」と思ってしまっているんです(笑)。忘れてならないのは、「見える」ということは、同時に「見えない」ということでもあるということなのです。
例えば、今こうしてお話をしている時、何が見えますか?

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福さんが見えます。

本当に?でも実は私のほうを見たとき、全てを見ているようで、たとえば私の後ろ側は見えていません。私の後ろにも何かがあると想像して、それを意識的に見ようとしなければ、見られませんね。
存在するものは、すべてその後ろにあるものを隠している。「見える」ということは「見えない」ことと共存していることを多くの人が気付いていない。だからまず、意識してモノを見ること。そしてその時に抱いた感情、例えば、ある作品を見て「嫌い!」と思ったら、何で嫌いなのかを考える。考えるためには「なぜだろう?」と、もう一回その作品を見る。そして考える。そうすることで初めて、見えないものが見えてくるかもしれない。その過程が大切なのです。

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「見よう」という意識が必要だということですね。

そうです。例えば、三角形の枠からモノを見たら、その枠以上に大きい丸いものを「丸」とは認識できない。自分が三角だと思って見ていたものが、実は丸だった、四角だった、六角形だったというのは、見ている枠を広げるとか、違う形にするとかしないと分からない、ということです。

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一般的な話ですが、古典的な作品は、分からなくても素晴らしいものなんだろうなと思い、逆に現代美術のようなものだと「何でこんなものがアート作品なの?」と思ったりしがちだと思うのですが。

 

「美術はこうあるべきだ」と思っているからでしょう。その枠に入らないものは「何でこれがアートなの?」ということになるわけです。
そして「何でこれがアートなの?」の理由が「だってこんなもん誰でも作れるやん」だとしたら、「誰でも作れるものはアートではない」という固定観念があるということ。「こんなん、安っぽいやん!」と思うのだったら「アートは高価で、ゴージャスでないといけない!」と思っている証拠。ジャクソン・ポロックの絵を見て「こんなん、うちの5歳の息子でもできるわ」と思うのなら、一見素人でも描けるようなものに、つまり高い技術で描かれていないような作品には価値はないと思っているのかもしれません。でも、そうした固定観念をちょっと広げれば、今まで気付かなかった何かを、作品は語りかけてきてくれるはずです。

 

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ただ、現代アートはやはりよく分かりません。

 

では、例えばポール・セザンヌの果物を描いた絵を見て、何が分かりますか? そこに、「りんごや、みかんが描かれている」と分かるのでしょう?(笑)中世の宗教画を見て「分かる」と思うのは、キリストや聖母という、私達が見知っている像が描かれているからでしょう。でも、本当に「分かる」ためには、聖書を読んで、きちんとその意味を理解する必要があると思います。それでもこういった作品が、現代美術に比べて何となく「分かる」のは、そこに描かれた、自分の見知ったモノを確認できるからです。そういう意味では、今を扱う現代美術の方が分かりやすいはずなのですが。ただ現代美術は、私達が持っている固定観念の半歩先を行っていることが多いから、そういう意味で分からないと思う人がいるのかもしれないですね。でも、分からないから考えるんですよね。

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マルセル・デュシャンの男性便器をひっくり返した作品(『泉』、1917/1964)を見ても、なぜ家にもあるものが恭しく飾ってあるのか…。

『泉』を見て「うちの便器はアートではないのに、ここにあると何でアートなんやろ」と、まず考えます。そしてクイズみたいに「なんで?」を重ねていくんです。そうするとデュシャンの思うツボにはまっていく。というのも、彼は『泉』を展示して、「これが、新しいアートだ!」と宣言したのではなく、「アートって何?」と、私たちに問題提起を投げかけているからです。

 

作品は自分を映す鏡。アートに向かうと、皆どうしても「こう見るべきだ」という、ひとつの答えを求めがちですが、そうではない。個人に依るところが非常に大きいんです。例えば作品を見て「なんやこんなの、一時間で描けそう」と思ったら興味を示さないし、逆に「時間をかけて作った作品だ」と思ったら、尊敬の眼差しで作品を見たりするでしょう? それは私達が、「一時間なんぼ」で、自分の時間を売って生活しているからです。お金は生きていく上で大切だからこそ、そういう反応になるわけです。つまり私たちは自分の生活や価値観や、経験を反映しながら作品を見ている。諸々のものを背負いながら作品を「見る」。作品とコミュニケーションする。アートとは見る人と作品の間に生まれる、不思議で、とても興味深いコミュニケーションなのです。「こんなことを言ったら間違ってるかも」とか、「どうせ私は素人だから」とか思わないで、どんどん作品との「会話」を楽しんでもらいたいと思うのです。

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でも、こんなこと言ったら馬鹿にされるかなとか(笑)、ついつい正解を求めてしまいます。

アートに答えはありません。良い作品になればなるほど、いろいろな疑問を投げかけてくるのです。そういう作品がたくさんある美術館は「知的ワンダーランド」。自分の固定観念の枠をちょっとずらして、もう一度作品を見て、考えてみる。そういうことを繰り返すことで、自分自身をもっと知るきっかけが生まれたり、あるいは今まで考えたこともない角度から世界を見ることができるようになるかもしれない。そういうチャンスを与えてくれるのが、アートなのかもしれませんね。

インタビュア 飯塚りえ
福のり子(ふく・のりこ)
米コロンビア大学で美術教育修士課程を卒業後、ニューヨーク近代美術館で研修。その後、16年間ニューヨークでインディペンデント・キュレーターとして主に現代写真の展覧会を手がける。2002(平成14)年よりスペインのフォトエスパーニャのゲスト・キュレーター。03(平成15)年にはニューヨーク・ジャパン・ソサエティーでアジアの現代写真を紹介する展覧会シリーズを企画。その他、ロバート・メイプルソープ、シィンディ・シャーマン、キース・へリング、ナン・ゴールデン、フィリップ=ロルカ・ディコルシア、パティ・スミス、ディビッド・バーン、アーネスト・サトウ、荒木経惟、畠山直哉、やなぎみわ等多数のアーティストの展覧会を企画。共著に『美術館ものがたり』 翻訳書にアメリア・アレナス著『なぜこれがアートなの?』等。
 
●取材後記
大学では、アートのプロデュースやマネージメントの講義を持ち、アートと鑑賞者の橋渡しをする人材を育てている福さん。アートに対する垣根を低くして、社会に対するアートの可能性を広げるために活動するエネルギッシュな姿に圧倒された取材だった。
アートはコミュニケーション。答えはない
撮影/海野惶世 イラスト/小湊好治 Top of the page

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