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虫の合理的な生き方には、感銘を受けます
第30回 海野和男さん

究極の生き方を選択した昆虫の世界

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海野さんは、昆虫の目線で昆虫を撮影してらっしゃいますが、そもそもなぜ昆虫に注目されるようになったのでしょうか?

海野

生まれた時から、虫が好きだったんです。だから、なぜ虫を好きになったのか分からないんですよ(笑)。「虫には、人間のつくりだせない色をつくる能力がある」とか、いろいろへ理屈を並べてはいましたが、本当は虫がとても面白かっただけなんです。ただ大人になった今、改めて考えてみると、僕は、昆虫の多様性に惹かれていたのだなと思います。おもちゃなんか比べものにならないくらい、いろいろな種類の昆虫がいますからね。
今、日本では約3万種の昆虫の名前が知られており、知られていないものも含めると10万種類くらいいると言われています。世界的には約100万種の昆虫がいて、更に名前が知られていないものを含めると、1000万種類くらいいるだろうと言われているのです。すごい数です。そして、それぞれが違った生き方をしているのです。
僕らは、人間という一種類の生き物ですが、かなり近い仲間にゴリラやチンパンジーなどがいて、皆、違う生活をしています。似た者同士が同じ所で同じような生活をしていたら、必ず喧嘩が起きますから。昆虫でも全く同じ。つまり数万種類いるということは、数万通りの違う生き方をしているということ。だからこそ、これだけ多様なのです。
全部の昆虫を見ようと思ったら、一生あっても足りないですよ。僕は今、58歳ですが、5歳の頃から毎日一匹、新しい昆虫を見たとしても、1万8000種類にしかならない。日本には3万種類いますから、生きている内には無理でしょうね(笑)。実際は、これまで3000〜4000種類くらいを見たと思います。

 
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昆虫の場合、なぜそうした多様な生き方が可能なのでしょうか。

 

 

海野

虫は小さいから(笑)。例えば、今、目の前にが120cm幅のテーブルがありますが、人間ならばここに向き合って4人座れます。しかし、ここに蟻が同じように向き合って座ったとすれば、何匹座れると思いますか? よく公園などで見かける黒い蟻の体長が5mm〜7mmくらいですから、私達の身長の200分の1くらい。座ったときの巾も、僕達の200分の1と仮定すると、このテーブルに蟻は800匹座ることができる。蟻にとってみれば、この120cmという幅は、240mに相当することになるわけです。だからこそ、狭い日本でも、虫たちにとってみれば無限とも思える土地があることになる。 
もちろん、活動範囲が重なる場合も出てきます。その場合は、活動時間をずらしたりして、上手に互いの生活が重ならないような仕組みを作っていく。利用できるものは、ありとあらゆるところを利用するというのが昆虫。だから昆虫を見ていると、本当に嫌になるくらい合理的な生き方をしているものが多いんです。
ところが、すべてがシステマティックに合理的かというと、そうではありません。例えば、擬態(カモフラージュ)がその一例です。

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擬態は、海野さんがライフワークとして撮り続けていらっしゃいますね。

海野

昆虫の一番好きなところが擬態なんです。例えば、芸術的とも言えるほどに、姿や形、色を葉っぱに似せていく。そんなに似て、どうするのかというくらい、似ようとする(笑)。しかも、葉っぱに似せるがために、体をどんどん薄くしていった結果、飛べなくなった虫もいる。そんなことして何になるのかと、お思いでしょう? 飛べなくなるくらいまで体を薄くせずとも、早く歩いて逃げればいいじゃないかと思うのだけれど、一旦そうした進化の方向をみつけると、とことん突き詰めてしまうのも昆虫なんです。

種類の数だけ、生き方がある昆虫の多様性

海野

今いる昆虫は、すべて進化の袋小路にいるとも言えます。僕らから、新しい猿へと進化しないのと同じこと。もちろん小進化は起こるでしょうが、今の僕たちの頭の中身って縄文時代の人とあまり変わらないのじゃないかと思うんです(笑)。ただ縄文時代と現代が大きく異なるのは「環境」です。人間の文化というのは、積み重ねられた歴史の上で、多様な価値観をつくってきたわけです。だからいろいろな人がいて、いろいろな考え方があって当たり前であり、その多様であることが面白い。

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これまで数々の昆虫に出会った中でも、特に印象に残っている昆虫は何でしょう?

   

海野

一番驚いたのは、蛾の仲間の「ムラサキシャチホコ」です。写真を見てください。どこにいるか分かりますか?

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落ち葉の山にしか見えないのですが……。

   

海野

この中央にいるんですよ。蛾ですから、羽を屋根型に閉じて、落ち葉に止まっているのですが、どう見ても丸まった落ち葉にしか見えないでしょう? でも、これはムラサキシャチホコの羽に描かれた模様、つまり平らな紙の上に描かれた絵と一緒です。今見えているのは、片側の羽ですが、上手な画家が描く「丸まった落ち葉」そのもの、いやそれ以上かもしれません。ちなみにこの蛾は、比較的どこにでもいます。
他にも素晴らしい擬態を見せる昆虫はたくさんいます。例えば、自分がついた植物の成長に合わせて、擬態を繰り返していく蛾の幼虫もいます。葉っぱの形や茎の色に合わせて変化していくんです。自分で葉っぱを食べて、その食べかけの模様まで真似つつ葉っぱに似せる芋虫なんてのもいますね。
マレーシアに行った時に出会ったのは、木の幹に擬態するキリギリスの仲間です。

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苔が生えていますが、どこにも虫の姿は見えません……。

海野

その苔の部分にいるんです。ちょうど羽を広げて幹にくっついている状態なのですが、どこからどこまでが虫か分かりませんね(笑)。羽に、苔の模様がついているんです。まるで本物の苔が生えているかのようにその模様が、立体的に見えるでしょ?

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こうした昆虫は、自分の体の姿、形に合った場所を選んで止まっているのでしょうか。

海野

僕の見たところ「心地の良いところ」というのがあるようです。このバッタにとっては、苔が生えたところが心地良い場所。そうでない場所に移動させると、すぐに場所を変えてしまいます。このバッタがいるのは、標高が高いところで周りに苔が生えたところが多いということもありますが、それをどのように判断しているのかは分かりません。昆虫というのは、鳥に食べられるためにいるようなものですから、なるべく食べられないようにしなくてはいけない。それには、隠れるのが何といっても一番。それで、こうした擬態をするのでしょう。

 

海野

昆虫の戦略というのは、非常に高度にシステム化されているんです。昆虫に出来て、人間に出来ないことはたくさんあるけれど、人間に出来て昆虫に出来ないことといったら、電気器具を作ることぐらいでしょうか。それ以外のものは、例えばご飯だって、ハキリアリのようにキノコを栽培して食べる昆虫もいますし、タガメのように魚を捕まえる昆虫もいる--そういうプリミティブな行為は、我々以上に昆虫の方が優れていたりするんです。例えば、蘭の花そっくりのハナカマキリをご存知ですか?

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淡いピンク色で、手や足も花びらそっくりでとてもきれいなカマキリですね。

海野

このハナカマキリ、昆虫の目から見ると、本物の花よりも花らしく見えるらしいのです。花の蜜がある部分は紫外線を吸収しているのですが、ハナカマキリの体は、花よりも紫外線を吸収するようにできているので、昆虫は花に行かず、ハナカマキリの方に寄って行ってしまう。そして近寄ったら、食べられてしまう。とても怖い世界でしょう? ケーキ屋さんがあって、おいしそうだなと思って入ったら、人間を食べる昆虫がいて食べられちゃうようなものです(笑)。こうして虫を捕るために、ハナカマキリは、本物の花以上に「花」になってしまったという訳です。
それから昆虫の「目」についても挙げておくべきでしょう。複眼というのは、個眼と呼ばれるCCDのような小さなレンズが集まった眼のことで、トンボの場合、片眼で約1万個の個眼をもっています。つまり1万画素のデジカメと同じということ。細かい部分の識別能力は低いようですが、レンズそれぞれから入ってくる映像によって、恐らく超立体的にモノが見えているでしょう。だから空中を飛んでいる蚊を、簡単に捕ることが出来る。なかなかすごい技です。

昆虫の生態が教える「良い環境」

海野

僕は都会育ちなのですが、都会の自然というのは人の手が作った自然です。そういう自然は、非常に移ろいやすく壊れやすいもの。例えば5〜6年前まで、皇居の外堀には菜の花がきれいに咲いていて、モンシロチョウやツマキチョウという蝶をたくさん見かけることが出来ました。ところが菜の花の種ができるより前の時季に草刈りを行うようになった途端、これらの蝶の姿を見なくなりました。
しかし考えてみてください。もともとこの菜の花畑は蝶を呼ぼうと思って作ったものではありません。それが偶然、蝶を呼ぶことになった。つまり人間が作った自然に順応した昆虫がいたということ。そうして偶然そこに住むようになったけれど、また人間が偶然に環境に手を加えるといなくなってしまう--そういうことなのです。

   
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ということは、私たちが思い描くような自然豊かな場所だけが、必ずしも「良い環境」ではないということでしょうか。

海野

そうですね。体長2cmほどのハッチョウトンボという、日本で一番小さなトンボがいます。ハッチョウトンボの生息地に共通するのは、年間を通して4〜5cm程度の浅い水があるところということです。水深は、それ以上の深さでも浅くてもいけません。今や数がすごく少なくなってきていて、限られた場所にしか生息しない珍しいトンボだと思われていたのです。ところがこれが違いました。ある採掘場跡に、偶然にできた湿地にハッチョウトンボが集まってきたのです。この場所は隣に駐車場があるような、いわゆる「自然豊かな場所」というわけではありません。ただ崖から水が染み出て、ちょうどよい湿地が出来ていて、だから、ハッチョウトンボを呼ぼうと思って作ったわけではないのにものすごい数のハッチョウトンボが集まってきたのです。つまり人間がきれいだなと思う環境と、虫が住みやすい環境というのは違うということなんです。

高度にシステム化された昆虫の戦略
 
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ひとくくりに「環境」といっても、その捉え方が異なるのですね。

 

海野

それぞれの生き物によって、良い環境は違います。「環境が」と言う場合に「誰にとって良い環境なのか」を考えなくてはいけません。そして「良い環境」だと言った時に、はじかれるものもいるということを考えなくてはいけないはずです。
だから人間は、生き物のために環境を整備することもできるんです。特に都会のように人間がたくさん住んでいるところでは、やみくもに自然を残そうとするのではなくて、自然を作ろうと考える方が良いと思います。一方、山の中の原生林などは、手をつけずに残した方が良い。また偶然、昆虫が住みやすい環境ができたのなら、それを保護すれば良い。
環境指標生物というものがありますが「この虫がいるから環境が良い」とは言い切れないと思うのです。生き物が住みやすいからといって人間もそうとは限らないでしょう? 
しかし、環境を見る時に、虫と環境は非常に深い関わりがありますし、また昆虫はその生態系が良く知られていますから、昆虫を基準に環境を知ることはできると思います。昆虫の場合、大移動するものが少ないですから、そこでの盛衰をみていれば、環境を知る目安になります。その多様性を、ぜひ知っていただきたいですね。

 
インタビュア 飯塚りえ
海野和男(うんの・かずお)
1947(昭和22)年東京生まれ。昆虫を中心とする自然写真家。東京農工大学卒業、日高敏隆研究室で昆虫行動学を学ぶ。アジアやアメリカの熱帯雨林地域で昆虫の擬態を長年撮影。90(平成2)年から長野県小諸市にアトリエを構え身近な自然を記録する。主な著作に日本写真協会年度賞受賞の『昆虫の擬態』(平凡社)、『蝶の飛ぷ風景』(平凡社)、『大昆虫記』(データハウス)、『蛾蝶記』(福音館書店)、『昆虫顔面大博覧会』(人類文化社)など多数。日本自然科学写真協会副会長、日本昆虫協会理事、日本写真家協会会員
 
●取材後記
例えば昆虫の擬態について、たくさんの例を見せていただいた。その一つひとつにいちいち感心して声を上げ、無邪気に喜んだ取材だった。ご多分にもれず昆虫は苦手ではあるが、とりあえず遠くから仕組みを知るところから、虫とのおつき合いを始めてみよう。
撮影/海野惶世(人物のみ) イラスト/小湊好治 Top of the page

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