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かしこい生き方 からくり人形師 九代目玉屋庄兵衛さん
日本の技術を支えた精緻な技

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お祭や映画の中など、日本人なら誰しもからくり人形を見たことがあると思いますが、その歴史など具体的なことを知らない方も多いと思います。

玉屋

からくり人形についての最も古い記述は高陽親王の機械人形についてだそうですが、平安時代には人形遣いが小さな箱を持って町中を回り、人形を操って見せたとか、安土桃山時代には、武将がからくり人形で遊んだといった記述があります。その後1600年代になって竹田近江(たけだ・おうみ)が、大阪の道頓堀でからくり人形一座を旗揚げし、人形芝居を道頓堀から京都、尾張、そして全国へと広げていったことで、大衆に広まったんです。
からくり人形には、大きく分けて「座敷からくり」と「山車からくり」というふたつの種類があります。前者はゼンマイやバネ、歯車などを使って自動で動かすもので、「茶運び人形」に代表されるような小ぶりの人形。後者は、人形の体内に仕組まれた何十本もの糸を人が操作して動かす大型のものです。山車からくりは、愛知県や岐阜、群馬、滋賀、京都、福岡などの祭りで良く見ますが、中でも愛知県には600体を超える山車からくりがあります。というのも愛知県、つまり旧尾張藩には、家康を奉った東照宮の祭りがあり、人寄せとしてそれぞれの町が競ってからくり人形を作ったからなんです。当時は、徳川吉宗の時代で質素倹約が叫ばれていた時ですが、尾張の殿様である徳川宗春は、祭りや芸事といった娯楽に力を入れていて「楽しく派手に遊べ」というのが許されていた土地柄なんです(笑)。尾張地方で、からくり人形が発展した理由とも言えるでしょう。もともと京都でからくり人形を作っていた私の先祖も、1734(享保19)年、ちょうど宗春の時代に尾張へと移り住み、この地にからくり人形師として残りました。私の先祖だけではありません。「尾張には仕事がある」と、全国から色々な職人が集まってきたんです。

 

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からくり人形は、ロボットのルーツとも言われ、日本人のロボット観を作ったとも言われていますが、そうした技術は現在もこの地域に根づいていますね。

玉屋

時計や食器、機械などの産業技術が多く集まっていますし、そうした技術を育む歴史的背景があるからなのでしょうね。

 
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もともと「からくり」という言葉は「機械」とか「仕掛け」とかいった意味を持っていたということからも分かりますが、人形の作りはどのようになっているのでしょうか?

 

玉屋

からくり人形は、胴体のほとんどが木でできています。動きは糸などで制御します。動力はぜんまいや石などの重りです。
使われる木は1種類ではなく、部位に応じて複数の木材を使い分けます。もちろん木を選ぶところから、からくり人形師の仕事です。茶運人形の場合、顔には細工もしやすく脂や変色も起こさない檜を用います。胴は桜。歯車には堅さのある花梨。軸心には赤樫。調速機と呼ばれるスピードを調整する部分には、柘植、黒檀、竹を使います。計7種類を、用途に合わせて選ぶ目が必要なんです。そうして選び抜いた素材を使ったからくり人形は、二百年経っても動きます。特に檜は、「樹齢二百年の木を使えば、二百年持つ」と言われるほどに良い木。顔は人形にとって大事な場所ですから、やはりそうした木を使うのです。今、目の前に彫りかけの顔がありますが、これが大体樹齢二百年経った木ですよ。ちょっと持ってみますか?

 
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肌触りも優しくて、まるで生きているようです。こうした木の選択から、すべてお一人でなさるわけですか。

 

玉屋

そうです。歯車も胴も顔も、それだけでなく人形の背景にあたる大道具や小道具もすべて自分で作ります。更には木を削りだす道具も、刃以外は自分で作ります。柄をつけて、自分の握りやすいように削り出していくんです。それにすべり止めとなる籐を巻いて漆を塗る。使いやすい、疲れない道具は、やはり自分で作らないと。

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玉屋さんご自身は、九代も続く人形師のお宅に生まれたわけですが、初めから人形師になろうというお気持ちがあったのですか?

玉屋

いや、全く考えていませんでした。僕は三男でしたし、兄が長男として八代目を継いでいたので。中学校を出てすぐに働き始めたのですが、飛行機や車のエンジンを作っている会社に勤めたり、喫茶店のバーテンをしたり、工事現場で作業をしたり……とにかく色々な仕事に就きました。その間に、様々な機械の使い方や溶接の仕方も覚えましたね。

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世界ががらっと変わって、ご苦労はなかったのですか?

玉屋

それはありませんでした。親父が亡くなって、兄貴と二人で、とにかくやっていかないといけないなと思いましたね。何代も続いてきた「玉屋」というものを受け継ぐということ、また何百体とあるからくり人形を修復する時には必要とされる。兄が病気で亡くなる半年前に九代目を襲名したわけですが、とにかく私一人でも続ける必要があると思いました。その責任は重いなと思うのだけれど、やめてしまおうとは思わなかったし、ごくごく自然に流れてきて、今があります。

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お仕事は、新しい人形の創作と、昔に作られた人形の修復とがありますね。

玉屋

木には「精(しょう)」があります。やはり二百年も経つと、その精が抜けて木が疲れてしまうんです。そこで修復となるわけですが、この時には、材料も仕組みもすべて元と同じようにしなくてはいけないんです。顔が檜なら檜で、歯車が6枚だったらそのまま6枚で修復するんです。衣装も同じ素材で、同じ文様にしなければいけない。自分の好きな顔に仕上げてしまってもいけない。その意味では修復の方が難しいかもしれません。創作であれば、自分の好きな顔を作れますが、復元の場合はそうはいきません。

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非常にストイックな作業ですね。

玉屋

そっくりそのままに作り直すというのは確かに難しい作業です。例えば、犬山にある13の町内にある人形は、当然どれも顔が違います。そして復元を依頼した方達は、自分達の町内の人形が同じ顔、同じ動作で戻ってくることを期待しているんです。その町内が200年近く守(もり)をしてきた人形を、修理に出して顔が変わったり、動作が変わったりしたらだめなんですよ。

 

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今後は、創作にも力を入れたいとか。玉屋さんにとって、からくり人形師という仕事の面白さはどこにあるのでしょう。

   

玉屋

からくりの技術をふんだんに取り入れた九代目による創作からくり(撮影:老川良一)

からくり人形師は、あまり表に出ることがない影の存在です。作り上げたら、あとは人形を受け取った人達がどれだけうまく動かすかにかかっている。だからこそ、それを見た観客が「すごい」「どうやって動いているのだろう」と思ってもらえる仕掛けを作りたいですね。それが人形師としての喜びでしょうね。江戸時代の人形師達は、互いに張り合いながら、新しい山車からくりを考えてきたわけです。人形が木の枝にのって逆立ちをする山車からくりがあったとしたら、それよりも、もっとすごいものをつくってやる!とね(笑)。現代で例えるならば、ロボットの開発のようなものじゃないでしょうか。二足歩行をしたり、楽器を演奏するロボットなど次々と開発されていますが、「他のロボットよりも人が驚くものを作りたい」という思いが、そこにはあると思うんです。そういう、ものづくりの姿勢は、昔も今も変わっていないと感じますね。

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なんだか、工作好きな男の子みたいですね(笑)

   

玉屋

そうそう(笑)。子供と一緒です。「どうしたら、作れるかな」と考えて、手を動かすんです。何百という種類のからくり人形があるのですが、それらの全てを吸収して、玉屋の創作を作り上げるのが夢です。また戦災で、初代の作った人形が失われたので、それを復元したいですね。

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「愛・地球博」では、長久手愛知館のシンボルとして「唐子指南車」を制作されています。ここでは、回転や面変わりを、コンピュータで制御してますね。新しい試みにも積極的になされているように思いますが、ご自身としては、いかがでしたか?

玉屋

八代目の頃から、コンピュータを使うなど新しい試みに取り組んできました。愛知博の期間中、動かし続けるという条件がありましたから、エアやモーターを使って、コンピュータ制御したんです。ただ人が操作すると、使い手の気分や調子によっても毎回動きが違いますから、面白さはありますね。

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なるほど。新しい試みに取り組まれる一方で、海外に出かけられたり、講演を行ったりと外に向けて、ご自身の技術を開こうとしているのはどのような思いからでしょうか?

玉屋

ものづくりの技術が無くなっていくのではないかという危機感があるからです。例えば今の子供たちは、刃物を自分で持たないでしょう? 人を傷つけるもの、危ないものだからと持ったこともないし、木で何かを作るという経験もほとんどないままです。だから、要望があれば作る様子を見せてあげたいし、体験させてあげたい。手を動かして、何かを作る、作りたいと思うのは、もの作りの基本だと思うんです。

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自分の手でものを生み出す機会が減っている中、そうした経験は何ものにも代え難いと思います。玉屋さんが九代目として、オリジナルで機構を考案された「烏天狗」では、からくりの仕組みを、あえて公開していますね。

玉屋

からくり人形って、衣装を着てしまうと、何がどうなっているのか分からないでしょう? ならば全部ばらしてしまおうと。「江戸時代には、こんなものがあったのですよ」と言葉で説明しても分からない。仕掛けが見えることで、面白いなと興味を持ってもらえたらと思ったのです。モノを作るっていうのは本当に楽しいことなんですよ。

手を使ってモノを作るのは本当に楽しい
九代目玉屋 庄兵衛(たまや・しょうべい)
尾陽木偶師(びようでぐし)の一家に生まれ、七代目玉屋庄兵衛(故・高科正守)を父にもつ。1995年に九代目 玉屋庄兵衛を襲名し、尾張地方のさまざまなからくりの制作・復元に寄与してきた。愛・地球博では長久手愛知県館のモニュメント「踊る指南鉄塔」に展示されたからくり「唐子指南車」を制作。愛知県春日井市生まれ。
 
●取材後記
取材の際、九代目が復元した、田中久重の弓曳童子を実演していただくという贅沢にあずかあった。間近に観る童子はじっくりと的を定め、弓矢を放ち、当たれば自慢げに、外せばどこか残念そうな顔をする。愛らしい。日本人は他国と違ってロボットに対して、親和感を持っていると言われ、それはからくり人形という「ロボット」が身近にあったからだとも言われている。確かに童子が弓を引く時には、心の中で「頑張れ」と感情が入っていたが、それは作り手が人形作りに注いだ情熱とも関係があるのではないか、九代目のお話を伺ってそんな気がした。

構成、文/飯塚りえ   撮影/海野惶世   イラスト/小湊好治 Top of the page

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