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かしこい生き方 数学者 新井紀子さん
計算だけが数学じゃない「とは力」「ならば力」を培え

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「数学に挫折した」という経験を持っている者ではありますが、数学的な考え方というものは、「かしこく」生きるのに役立ちそうな気がしています。

新井

私自身、中学や高校のころは、数学ができる人を自分とは頭の構造が違うのだろうと思っていました(笑)。
数学というのは、人類が都市国家を造った紀元前3500年前位から、長い歴史を持った学問です。そうすると私達は、足し算引き算といった非常に初歩的なことから始まって、それが段々と発達して現在の数学へとつながったのだと思いがちですが、実はそうではありません。古代バビロニアでは、すでにルート2の小数点以下5桁くらいまでの正しい値が出ていました。ですから計算の技法から言ったら、大変進んでいたのです。しかし、その数学の長い歴史の中で、「論理」というものが生まれたのは紀元前500年くらい。それまでは「この場合は、この値になる」という点ばかりに注目されていたんですね。今で言えば、練習問題とその解答が書いてある問題集はあったけれども、「なぜ、それが正しいのか」を説明するという視点がなかったんです。数学の練習問題を解いた経験は、皆さん、あると思います。

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公式をあてはめて答えを出しましたが、「なぜ、その公式を」などとは、あまり考えませんでした。

新井

多くの方はそうだと思いますが、それは古代エジプト人向けの数学です(笑)。では「論理」がどうやって生まれたか。初めて地上に証明や論理というものが生まれたのは、紀元前500年頃の古代ギリシャです。古代ギリシャは都市国家であり、多民族国家、つまり異なる価値観を持つ人たちの集まりだったのです。それまでの古代エジプトなら、同じ民族が同じ文化を共有する社会を作っているので、例えて言うなら、お父さんの「あれ取って」でお母さんが目的のモノが分かるというような環境だったわけです。ところが古代ギリシャは異なる文化的バックグラウンドを持つ都市が集まって出来上がりましたから、そういう以心伝心は通用しません。「『あれ』とは何か」を相手に伝えることから始めないといけないわけです。事が起きた時に「だって、これが普通じゃない!」と言ったところで、皆の「普通」が違うのですから、なぜ相手の言う「普通」よりも、こちらの言う「普通」の方が正しいのかを説明する必要が生まれたんです。多様な価値観と、多様な文化背景をもっている人々が、殺し合いではなく、話し合いによって解決する方法というものが発明されたわけですね。「AならB、BならC、よってAならC」という、非常に数学的な証明方法など、この時期に数学に「論理」が生まれたんです。

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お話を伺うと、今の世界の状況に非常に似ていると感じるのですが。

新井

民主主義や論理、多民族の間で意見が対立した時に話し合いによって解決するというのは、正に現在のグローバル化された社会そのままです。だから、今、数学の論理力が必要だと考えているのです。

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大人の私たちがその論理力を養う方法はあるのでしょうか。

新井

人間の論理力って、大人になったから発達しないということではありません。では、どういう時に論理力が発達するかというと、自分がどうしても意見を通したい事があって、それを周囲に反対された時。そういう状況って、大人になってからの方が多いでしょう?
私は法学部出身なので、冤罪事件などの裁判を傍聴した経験もあります。あまり良い例ではないかもしれませんが、冤罪事件に巻き込まれた被告の方は、「本当に自分はやっていない。それをどうしても分かってもらいたい」と思っている。だから最初はごく普通の方なのに、裁判後半、無罪を勝ち取る時には、ものすごく論理的な方になっているんです。これが良い経験とは決して言いませんが、自分がどうしても伝えたいこと、あるいは自分が絶対に正しいと思っていることがあって闘う時に、論理力が一番身につくという強烈な例ではないかと思います。
具体的な話をしましょう。論理を身につける時に、方法論として重要なのは「〜とは」「〜ならば」と考えられることです。「とは力」と「ならば力」と呼んでいるのですが「とは力」とは、「人生とは」と哲学的に考えるということではなくて、例えば「今日一番重要なこととは」「私がやるべき仕事とは」と常に考えること。「今日私がやるべきこととは」と考えることで、何をすべきか、しかもそれらのプライオリティも考えて、仕事をすることができる。更に必要なのが、「だからこうなる」「更にこうなる」と論理的に積み上げる「ならば力」です。この2つが身につけば、ほんの少し人生が良くなるはずです。

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それらが数学に代表される考え方ということですか。

新井

そうです。ギリシャ時代に生まれた考え方で、当時であれば「円周率とは」「数とは」ということが考えられていました。これは今でも面白い問題であって、普通「円周率」と言われたら、「3.1415……」と答える方が非常に多いんです。有名な大学でも「円周率とは何でしょう。その円周率の定義に従って、円周率が「3.」から始まることを示しなさい」と問うと、正解率は1割を切りますね。この問題は、小学校5年生の数学の教科書に載っていますが、円の中に正六角形、外に正方形を描いてみると、説明することができます。
「○○とは?」という問いを立てる習慣がないのでしょう。でもこのままでは、古代エジプト人と同じです(笑)。社会人になると、誰かに「それは何だ」と問われる機会に幾度となく出会うはずです。その時に、「とは力」と「ならば力」の訓練が足りなかったにこと気づくでしょう。

 

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数学の論理ということを実感できる、具体的な問題を挙げていただけますか?

新井

例えば「0.9999999999…」(小数点以下は、無限に9が続く)は、イコール「1」です。納得いきますか?

   

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いえ…。

新井

見た目が違いますから、同じと言われてもそう思えませんね (笑)。多くの方がそうだと思います。
では「1」から「0.9999999999…」を引いたとしたら、どうでしょう。

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小数点以下「0.0000000000……∞……1」と、無限の先に「1」が残りそうです。

新井

では「0.0000000000……∞……1」が数だとしましょう。それを5倍したら、どうなりますか?

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「0.0000000000……∞……5」と、やはり小数点以下、無限の先が「5」になると思います。

新井

小数点以下は無限に「0」が続くわけですから、最後を「05」としても同じですよね。でも、それって、先の「0.0000000000……∞……1」の半分じゃないですか?

   

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はい、100倍しても、割っても、無限なので、変わりないですね。

新井

では5倍にしても半分にしても同じ数ってどういう数かというと「0」ですよね。つまり「0.9999999999……−1=0」。よって、「0.9999999999……」=「1」となるわけです。

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狐につままれたようとは、正にこういう状態でしょうか(笑)。

新井

この「0.9999999999……=1」という数式を証明する方法は、他にいくつもあります。もしも納得できなければ、他の方法でも説明できますが、どうあっても「0.9999999999……=1」という結論が出る。これが論理でものを見て、論理で説得するということです。「どうしてもそう思う以外にない」ものです。

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「見た目が違うのに」という感情を乗り越えて納得するところに、数学的考え方の回路が生まれるようですね。数学の論理というものに触れた気がします。

新井

例えば「www」を作り出したティム・バーナーズ=リーなど、イギリスの計算機科学者ですが、もともとは物理学を学んだ人で両親は数学者。そういう背景を持った彼が「www」を作り始めたのが、1980年代の頃です。「www」は目に見えない世界ですが、そうした目に見えないものを、どういう仕組みで作ったら、何ができるのかと論理的に考える能力が彼にはあった。もちろん80年代は、ブロードバンドも普及していない時代ですから、彼が描いたのは、単にその「仕組み」と「仕様」の記述のみです。つまり、あらゆるものを「ファイル」と「取り決め」だと考えることで、何もない中で「この仕様であれば、これができるはず。ならば、これもできるはず」と、今日提供されているさまざまなサービスについて「論理的に考えてできるはずだ」として、世界を構築していたんです。

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先生ご自身もソフトウェアの開発を手掛けられていますよね。同時にそれを用いて、多様な活動をなさっている。

新井

今は、ブロードバンドが発達して、ウェブで情報のやりとりができる状態になりましたが、その時に、私は何をしたいのだろうと思って開発したのが、コンテンツマネジメントシステム「NetCommons」です。普通、ウェブで情報をやりとりしようと思うと、まずサーバありきとなりますが、それでは何かをする度にサーバを作ってそれを管理してとなって、負担が大きい。そこで、「すべての情報をwwwを通してやりとりできる」というウェブ上のサービスが作れるはずだと思ったんです。
私は、数学もやるし、情報系のこともやる、つまりたくさんのファイルを持っていて、それらのファイルを背負いながら生きているわけです。そして誰かと仕事をする時は、自分が持っているファイルの一部を共有して仕事を行い、最終的にはそれぞれに成果物をもって、また別々に歩むことになる。その時に、いちいちサーバを立ち上げていたら不便で仕方がない。
例えばmixiなどの場合、mixi上でやりとりしたら、結局ファイルがmixiの上にあるわけで、他に引っ越したいと思ったら、そのファイルを置いていくしかない。それはちょっと面倒だ。サービスを与えている人からも、端末からも自由でありたい。更には、自分で管理なんかしたくない(笑)。自分の実生活に近いように、バーチャルな空間が欲しいと思って作ったのが、このシステムなんです。まだ開発途上で課題はあるのですが、オープンソースとして公開していて、今では全国の1000の学校で使われるまでになりました。

   

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ご自身では、どのように使われているのですか?

新井

プロジェクト管理はもちろんですが、例えばインターネット上で、小中高生に学びの場を提供する「e-教室」というプロジェクトがあります。算数の授業だけでなく、経済や理科、英語やクラブ活動も行っていて、それらの部屋を、子供たちは自由に行き来して、興味のあるトピックに関して、話題を提供したり、皆で見せ合ったりしています。ネット上の学校みたいなものですね。子供達が、自分自身で好きなものを選んで、その部屋に入って勉強するシステムにしたんです。更に、算数について話し合いをして、問題を解いた結果、何らかのアウトプットができたら、書籍化するといった活動も行っています。

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改めて伺いますが、日常生活で、数学はどのように役立つのでしょう。

新井

アイコンタクトで全ての問題が解決できれば、数学は必要ありません。互いに「そうだよね」と言って理解できるうちは困らないでしょう。でも、今はそんな単純な時代ではなくなっています。就職や結婚の場面でも同じですが、たくさんの選択肢があって、たくさんの決断をしなくてはいけない。今、どのような状況かを把握して、どうやって問題を解決するか、つまりインプットがあって、ベストなアウトプットを出そうとすること。これは、まさに数学ですよね。
数学を身につけるために、メールでビジネス文書、それも定型ではなく提案文書を書くことは、とても良いことだと思います。自分とあまり親しくない第三者に、テキストだけで誤解がないように、うまくコンパクトに伝えられるかを考えるというのは、論理的な力を養う訓練になる。そういう訓練を、e-教室でも行っています。例えば「計算するとは何だろう?」という問いに対して、掲示板で意見を交換しあう。身振り、手振りで伝えられないから、自分の意見を第三者に分かるように説明するという訓練ですね。

   

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極端な言い方をすれば、人に正確にものを伝えることは、数学だということでしょうか。

新井

感情的な内容ではなくて、自分の考えたことを理解してもらうという意味で、そうだと言えますね。数の並びだけが数学ではないんです。私は「論理=ロジック」というものは、誰もがユニバーサルに持てる唯一の武器だと思います。ロジックを持つことで、社会の構造も見えてくるはずだし、それが分かれば、自分が抱えている問題の本質が見えてくるはずです。
もちろん「足し算とは」「割り算とは」といった問いが、すぐに役に立つわけではありません。けれど、運動と同じで続けていけば体質改善になるんです。

数学的思考は生きる上での武器
新井紀子(あらい・のりこ)
東京生まれ。一橋大学法学部卒業後、イリノイ大学数学科博士課程修了。理学博士。現在、国立情報学研究所教授。情報共有システム「NetCommons」の開発を手掛け、また教育サイト「e‐教室」を通じて全国の小学生や中学生へインターネット上で授業を行っている。主な著書に『ハッピーになれる算数』(理論社)『数学にときめく あの日の授業に戻れたら』『数学にときめく ふしぎな無限』)(ともに講談社)など多数。
 
●取材後記
論理の壁はなかなかに高く、ほとんど手品のような数学の論理に唖然とするだけというのが、今回の取材だった。ただ「論理的にそう思うしかない」という、数学的な姿勢、難しいけれど、身に着ければ少し生きやすくなるのかも、と中学以来の苦手を克服することを決意しつつ、帰路についた。

構成、文/飯塚りえ   撮影/海野惶世   イラスト/小湊好治 Top of the page

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