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かしこい生き方 名古屋園芸 小笠原左衛門尉亮軒さん
書物に見て取れる日本の園芸 植物と親しむ庶民の生活

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私たちはガーデニングと聞くと、海外から入ってきたもののように思ってしまうのですが、実は江戸時代にそのルーツを見る事が出来るそうですね。

小笠原

おっしゃるように、近頃はガーデニングブームというのでしょうか、植物を楽しむ方が増えました。では実際、ガーデニングというものを、庶民レベルでどこの誰がやっていたかというと、実は江戸時代にルーツがあるように思います。確かにヨーロッパには庭園というものがありますけれど、500年前にも本当にあったのか。例えばシェイクスピアの作品にどれだけ庭が登場してくるのか、あるいはもっと古い小説の中に庭がどのように登場してくるのかというと、案外見当たらない。フラワーデザインもそうです。ヨーロッパの人たちが「こんな素晴らしい芸術があるのか」と日本にあこがれて、自身の文化に取り入れたものなのです。

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その「素晴らしい芸術」が生け花ということですね。

小笠原

そうですね。「フラワーアレンジメント」という言い方をすれば、海外から持ってきた新しい概念と思いがちですが、ルーツは生け花にあるんです。もちろんヨーロッパにも花を飾る文化はあったでしょうが、それを生け花という形で、芸術まで高めたのは日本です。

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日本でそこまで発展した理由はどこにあるのでしょうか。

小笠原

縄文時代や古墳時代の古墳墓を掘り返すと、ご遺体のすぐそばから花粉がたくさん出てくる。そうした事から見ても、はるか昔から、死者を葬る時にお花を入れていたのではなかろうかと考えられます。その後、神道の広がりや仏教の伝来によって、神仏に対して花をお供えしてお飾りする――専門的な言い方をすれば荘厳するようになりました。それが段々と儀式の場や生活の空間も花で彩ったら良かろうという事で、「花道(かどう)」が始まったのです。仏前から、生活空間である書院空間へ、更に居住空間へと、さまざまな形で花が生けられるようになり、江戸の初期になると大流行になりました。しかも当時のトップである天皇が生け花を趣味とされていたので、花道ブームはますます広まっていったのですよ。

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宮中で、立花の会を催されていたとか。

小笠原

そうなんです。特に後水尾天皇(在位1611〜1629年)は、親王や公卿、高僧などとともに、年に何回か宮中紫宸殿(ししんでん)を花で飾ったと言います。天皇自ら花を立てられたという記録も残っています。そしてそれを指導したのが、二代目池坊専好でした。今で言えばフラワーアレンジメントの大先生が、御所で教えているというところでしょうか。後水尾天皇は、第108代天皇として即位され、紫衣事件で幕府と対立して譲位されました。譲位後、後水尾院のもとには、公卿の他に町衆なども含めた文化人が数多く集まったと言います。文化サロンですね。そうした人たちが生け花をこぞってなさっていたのです。

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その時代の頂点にいる方たちが、生け花という文化を築いていく…。そして武家や公家から発した文化を、庶民がどんどん真似することで裾野が広がっていったわけですね。

小笠原

そうです。商人たちが豊かになり、武家や公家の文化を取り入れる。つまり一般化していったわけですが、そのためにはテキストが必要で、寛永時代に初めて生け花のテキストが出版されました。最初は『古今立花集』など花形の精密でしたが、時代が下がってくるに従って、庶民の生活に親しみやすいものに改良されながら、出版されていったのです。
当時の文献からは、相当な生け花ブームだったことが伺えるんです。例えば、狂歌の作者連中がこのブームを冷やかして、『投入狂花園』という本を作っています。ここでは、よく見ると花ではないものを生けて、そこに狂歌を添えて遊んでいるんです(笑)。よーく見て下さい。

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花ではないもの?うーん…あ、刀が生けてありますね。羽子板に、茶せん、お椀の蓋…孫の手まで生けてありますね。これなんて、裏返した傘に大根おろしを盛って、そこに大根を生けている! まったく仕様も無いというか、馬鹿馬鹿しいと言いましょうか(笑)。

小笠原

そうそう(笑)。面白いでしょう。こうやって庶民が熱中している生け花を茶化しているんですよ。彼らが俎上に載せるのは庶民の生活ですから、裏返せば、確かにこの時代、生け花ブームがあったという事に他なりません。

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確かにそうですね。

小笠原

浮世絵にも花を生けている姿が、多く描かれています。変わったところでは、江戸時代の版元として有名な蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)が出した風俗本なども面白い。喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵、山東京伝らの黄表紙・洒落本など大衆本を数多く作った人ですが、彼が出版したものに生け花紹介もどきの風俗本『一目千本』があります。「吉原のあの店のナンバーワンは桜に似ている」とか、「こちらのは藤の花だ」とかを、置屋の名前と花魁の名前などを記しながら、それぞれを花に見立てた本です。これがまたヒットしたらしい(笑)。

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木蓮の花、椿、葛の花、わさびまでありますね。

小笠原

わさびは、4月頃に咲く花ですけれど、この花魁はぴりっと辛口だったのでしょうね(笑)。野菊に水仙、ひまわりに菊――ひまわりは当時、丈菊(じょうぎく)と呼ばれていました。

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背が高かったのでしょうか(笑)。

小笠原

そういう想像も楽しいですよね。そして生ける器にも非常に凝っている。わざと植木鉢を使って生けてみたり、水つぎを利用してみたりと、器を見ているだけでも面白いでしょう?

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花から花魁のイメージが膨らみますし、よくこれだけ花を違えながら見立てたものだと感心します。植物をよほど知っている人でないと、こんな見立てはできないですよね。遊び方が徹底しているし、そこにセンスを感じます。

小笠原

これはまったくの遊びでしょうが、花形図というのは、本当にたくさん出版されていました。そうしたところからも、花に対する意識の高さが分かりますね。

 

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単に生け花を楽しむだけでなく、葉を楽しむこともあったそうですね。

小笠原

長生蘭という蘭があります。デンドロビウムの仲間で、白あるいは淡紅色のかぐわしい花を咲かせるんですが、日本人は、この長生蘭の花ではなく葉っぱを珍重したんです。いかにも日本人らしい。この蘭に関する当時の書物『長生草』は、葉っぱの大小、斑の有無、茎の長短など、葉芸に話題が集中しています。

   

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葉の形や付き方が面白いものをこうして集めたというわけですね。しかも細かな描写はもちろん、一つひとつの蘭に名前が付けられています。

小笠原

ヨーロッパの人だったら花を求めたでしょう。現在の洋蘭のような立派な花への品種改良からもそれが分かります。けれども、日本人はそれがお好みではなかったようです(笑)。葉芸だけでなく、それを植える鉢にも凝った。いろいろなところに凝って凝って、凝りまくって、選んだんですね。
園芸の遊びとしては、品種改良も盛んでした。朝顔は花の色に変化が出やすく栽培も手軽なため、観賞用として江戸時代に人気が出て、文化文政年間になると、珍花奇種が各地で競われるようになりました。今でも入谷といえば朝顔市で有名ですが、これは成田屋留次郎という植木屋の活躍によるものです。自ら「朝顔師」と名乗るほど、朝顔の品種改良や普及に情熱を注ぎ、変化朝顔の図譜を刊行して、朝顔の大流行を生み出した人物です。図譜を見てみます?

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この図譜には、葉に斑が入っていたり、縮れた花びらや葉、八重咲きの花まであります。朝顔は品種改良しやすい植物なのでしょうか。

小笠原

そういう品種を見つけ出したんです。名古屋の三村森軒(みむら・しんけん)という尾張藩士が改良に取り組み、その栽培方法から茎や花の付き方、花の色やその変化、種子の形状まで詳細な観察記録を著作しています。享保8(1723)年の事です。そこで100種類ほど紹介しながらも、「変態百出している」、つまり、どれだけ変わっていくか分からないと書いている。同時に「これはほんの一部である」とも記しています。その100年ほど後、嘉永7(1854)年に、成田屋留次郎が、変化朝顔の図譜『三都一朝』などを出したわけです。

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しかし、そうした変わった品種を固定的に出現させるには、それなりの理論や経験が必要ですね。

小笠原

朝顔は一年草です。掛け合わせによって、変わった花が咲いたとしても一夏で枯れてしまうし、変わり咲きは、種が採れません。例えば、八重咲きの変わった朝顔が咲いたとしましょう。どうすれば、また来年、八重咲きの花が咲かせられるか? 不思議な事に、同じ株から採れた種、つまり兄弟を育てるとロート状普通咲きの花が多く出現するのです。奇花が出現する普通咲きの朝顔から種を採り、大量に育てた中から少数の奇花を得る。それ以外の固体は捨ててしまいます。一本一本観察して、混ざらないように別々に種を採って、慎重に育てて、求めていた花が咲いたら、その兄弟から、また種を採る。こんな面倒な園芸はないですね。

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園芸のプロからご覧になっても、面倒なことなのですか。

小笠原

面倒ですね(笑)。ここに載っているような花なんて、一粒一粒を管理した種を100粒蒔いたとしても、その内の一つ位しか出現しません。

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本気の遊びですね。

小笠原

真剣勝負です。とにかくすごい遊びですよ。更にすごいのは、メンデルが遺伝の法則を発見する50年も100年も前に、こうして複雑な遺伝の仕組みによって出現する変化朝顔作りが行われていたという事です。遺伝の法則は知らなくても、経験や知恵を背景に、絡み合った複雑な遺伝子を維持してきたというわけです。

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日本人独自の自然観もあり、植物の育て方、愛で方もまた特有ですね。

小笠原

15世紀から17世紀、ヨーロッパ諸国がこぞって海外進出に乗り出した時代、プラントハンターと呼ばれる植物専門家を派遣して、異国の植物集めが行われました。ヨーロッパは、植物の相――植相といいますが、それがとても浅い。それに比べて、日本や中国は膨大な植相を持っています。ヨーロッパの人たちはそれを渇望していたのです。例えば山百合。里山に行けば、ゆらゆらと普通に咲いていますが、ヨーロッパには小輪の百合があったのみで、日本産の山百合のような巨大な花はあこがれの植物だったんです。だから日本の百合を見た時は、さぞかし驚いたことでしょうね。この日本の品種に改良が加えられ、誕生したのがカサブランカです。ヨーロッパの品種と思っている植物に、実は日本や中国原産というのは、皆さんが思っている以上に多いんですよ。
当時、日本を訪れたイギリスのプラントハンター、ロバート・フォーチュンは「花を愛で育てるを楽しみとする事を、文化のバロメーターとすれば、この国の人々は、自国の庶民よりはるかに優れている」と著書に残しています。このように日本の園芸技術や園芸植物は、世界に誇るべきものだったのです。植木鉢での栽培も、古くから盛んです。江戸の中期になると、瀬戸や有田といった二大産地で、植木鉢の大量生産も始まっています。食器だけでなく、大産地の製品の中に、植木鉢というものが一つのジャンルとしてあったわけですよ。リサイクル社会として有名だった江戸ですが、植木鉢もしかりで、回収して別のところで使われたりしていたようです。

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こうしてお話を伺ってくると、盆栽や生け花がある日本は、園芸の分野で昔から先端を行っていたということが改めて感じられますね。

小笠原

そうですね。北斎が海外で評価されて、更に有名になったように、外国の人に評価してもらって初めて価値が分かるというところが日本人にはあるかもしれませんが、お花もそうです。少し前に浜名湖花博がありまして、その中で一番人気があった展示がモネの庭なんです。でも、モネと言えば浮世絵のコレクターとしても有名ですし、彼の作品も影響を受けている。またモネの庭は日本庭園を模して作られたものなんです。日本人は、その再現された庭を見て「素敵だ」と言っているのです(笑)。多くの人が今、フラワーデザインとおっしゃるけれども、元々はヨーロッパの人たちが日本にあこがれて、こんな素晴らしい芸術があったといって、取り入れてくれたもの。園芸は、日本にルーツがあるんですよ。

ガーデニング?アレンジメント?ルーツは「園芸」にあり
小笠原左衛門尉亮軒(おがさわら・さえもんのじょうりょうけん)
1933年名古屋市生まれ。園芸研究家。京都大学農学部研究生を経て、1957年名古屋園芸(株)を創業。現在、同社取締役隠居。江戸時代の園芸資料蒐集と研究に従事。実務と同時に講演、執筆活動も幅広く行い、園芸普及に尽力。園芸界随一の博学とされ、園芸文化にも詳しい。著書に『江戸の花競べ―園芸文化の到来』(青幻舎)、『江戸の園芸・平成のガーデニング―プロが教える園芸秘伝』(小学館)『NHK 趣味の園芸』(日本放送出版協会)など多数。
 
●取材後記
お話を伺ったご自宅には「雑花園文庫」(非公開)と称した、膨大な資料が並ぶ。貴重な資料を拝見して、園芸を楽しむ江戸時代の人々の息づかいが聞こえるようだった。花器を個々の花に合わせて作ったり、斑入りの葉をこよなく愛して自家出版したり。「ガーデニング」も「フラワーアレンジメント」も良いけれど、ここは「園芸」を始めてみようかと思わず、植木鉢を物色。

構成、文/飯塚りえ   撮影/海野惶世   イラスト/小湊好治 Top of the page

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