二木 |
そうした世界を見ているから、家康は人事に長けているんですね。家康はかなりの苦労人です。信長の時は、織田と徳川は同盟を結びながらも、徳川があまり強くなったら困るからと信長から長男・信康の自害を命じられ、それでも家康はじっと我慢した。その信長が、本能寺の変で亡くなり、ポスト信長は家康だと有力視されていたにも関わらず、秀吉が明智光秀を討って、どんどん勢力を増していく。家康は、秀吉に黙って頭を下げる訳にはいかないから、小牧・長久手の戦で秀吉と戦って、自分の実力は示し、豊臣政権の客分扱いの重鎮としてうまく収まった訳です。そうやって一目置かれる家臣と思わせつつ、豊臣政権の中で力を蓄えて、関ヶ原の戦いに勝利した後は、秀吉が作った組織ごと江戸に持っていって江戸幕府を開いた。家康は、信長の下でも秀吉の下でも冷遇され、人生の半分を家来として過ごした人物ですから、人間関係の裏を熟知しているし、信長の先見性、秀吉の気配りといった事を学びとってきました。
例えば秀吉は、人を惹き付ける力はあったけれど、自分の親類を重用するなど身内に甘かった。そうした秀吉の優しさや醜さを見ているから、家康は、三河三奉行のように「鬼作佐」と呼ばれた本多重次、「仏高力」と呼ばれた高力清長、「どちへんなしの天野」と呼ばれた天野康景と、厳しいタイプ、温情タイプ、公平で冷静なタイプと個性の違う3人を組み合わせたチームを組織するなど、人の使い方が非常にうまかった。組織運営には、絶対必要な事です。 |
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今の私達と同じと言われた意味が、実感できます。 |
二木 |
武将達がどんな時に、どんな判断をしているかを見ていくことで、先を見る力を学ぶことが出来るんですね。関ヶ原の戦いなんて、日本中の大名が、東軍につくか西軍につくか、トップの判断次第ですからね。 |
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そういう時、庶民はどうしていたのですか? |
二木 |
庶民は戦とは関係ないんです。戦国時代は、要するに、武士と武士との戦いですから、隣の大名が攻めてきたら、百姓は家財道具を持って山の中かどこかに逃げていって、戦争を見物している。「あ、うちの領主さんは勝った」とか「新しい領主さんに変わった」とみたら、どちらにしても山を下りて、新しい支配者に頭を下げる。支配者が変わるだけで、殺される訳でもない。もちろん心情的に良い悪いはあったでしょうが、それ以外に影響はないんです。 |
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でも野心があれば、戦に参加することもできるというわけですね。 |
二木 |
そうなんです。秀吉が侍になれたように、ある程度身分は自由だったんです。ところが秀吉自身が、天下統一後に身分統制令を出して、百姓は侍になれない、侍は商人になれないと、身分を固定してしまいました。 |
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自分が百姓出身だったにも関わらず? |
二木 |
そうです。公家は朝廷の事をやる、お寺は経を唱えて法事をする、百姓は農地を耕すというように仕事と身分を固定しました。よく知られている刀狩りをして、寺や百姓から刀を取り上げ、更にその土地から移動させないために、太閤検地を行った。誰がその土地を耕しているのか明らかにしたのです。太閤検地は、日本で初めての戸籍と土地台帳となりますが、世界的に見てもイギリスに次いで二番目の早さという画期的な仕事です。平安時代や奈良時代も戸籍は作っていたけれど調べるのは6年ごとでしたし、年貢も稲の束で納めていました。つまり稲穂がどれだけ付いていようがかまわなかった。 鎌倉時代になってようやく枡を使って測るようにはなりましたが、枡の大きさが何千種類もあったんです。それを規格化したのも秀吉です。基準となる升を作り、統一した単位によって測量を行い、全国の土地台帳と、郡や村の絵図を提出させたのです。更に大名を「国替え」をして、移動させる事で、領主と百姓の関係を絶つという仕組みも作り、それが江戸幕府の仕組みにも取り入れらたのです。 |
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大河ドラマの影響がどうしても拭えず、秀吉のイメージも演じた役者さんに負うところが大きいのですが(笑)、秀吉が成したことは、今の私達の社会の基礎になっているものばかり。その功績はとても大きいのですね。でも気前が良かったが故に(笑)、派閥を作る事にもなったりもした。 |
二木 |
ええ。だから家康は、前田や島津、伊達といった力のある大名は、独立した自治体としては認めたけれど、辺境の地に追いやってしまった。そうした外様大名には官位を授けるけれども、徳川政権の閣僚には抜擢しない。対して、直轄地(天領)や譜代大名に大大名はいない。一番大きくても井伊30万石で、あとは10万石以下の小大名ばかり。そうした小大名を閣僚に抜擢して、任期中は手当をつけて上げる、いわゆる役職手当ですね。だから3万石の小大名でも老中を勤めている間は8万石もらえる。家康の腹心と言われる本多正信なんて禄高は1万石だったんですよ。でも老中という役職にいたから手当がもらえたんです。 |
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企業での人事そのものという感じがあります。信長、秀吉、家康の3人をメインにお話を伺うだけでも、感じ入るものがありますが、魅力的な武将というのは他にもたくさんいるのでしょうね。 |
二木 |
戦国時代の戦いは、勝てば国が倍になるかもしれないという戦いですから、スケールは壮大です。その戦いに参戦しているのですから、武将達は皆、個性的で、エピソードには事欠きません。例えば毛利元就は、褒め上手。家臣の子供と初めてお目見えするとしましょう。その父親が手柄を立てた事があったら「お前は父親に良く似ている。父のような手柄を立てるだろうな」と褒める。父親に手柄のなかった子には「お前は人物器量が優れている。親を超えて出世するだろう」と褒める。あるいは酒好の家臣には「酒は体を温めるし、気分を良くする。酒は良い」と酒をすすめ、下戸には「餅をやろう。酒は体に良くない」と言って、必ず褒める。 |
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うまく相手を立てるわけですね。 |
二木 |
そうなんです。あるいは武田信玄は、家臣が同じ手柄を立てた時には、まず下位の者に褒美をやるというように、日頃、疎遠になっている者を優遇しました。いつも、金や銀を入れた壷を傍らに置いて、手柄を立てたらその場ですぐ褒美を与えたんです。
人を見る時に「その人の良い所、取り柄を見つけてやれ」と言ったのは家康。こうやって、武将達のしてきた事と、その結果を見ていくと、今に生きる私達も「こういう時、どうしたら良いか」というヒントになると思うんですね。 |
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先生ご自身も、実生活で武将から学ぶことが多いとお感じですか。 |
二木 |
ええ。縁あって、女子学園の校長を務めることになりましたが、元々、私は中学、高校の教員経験はありません。ですが、校長になって歴史から学んだ事が本当に役立っています。組織や人をどう動かすのかという知恵、あるいは教員や生徒に喜びや感動、夢を与える仕掛けを考えるといった時に、天下を取るぞという目標をもって突っ走った信長、秀吉、家康などから学ぶ事はたくさんあります。戦国武将として今に生きている感覚ですね(笑)。 |