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かしこい生き方 歴史学者 二木謙一さん
戦国時代に源を見出す事が出来る現代の文化、風俗

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今、また改めて戦国時代のブームですが、専門家の目から見て、戦国時代の魅力は、どこにあるとお考えですか?

二木

私の専門は有職故実――髪型、衣装、風俗など室町、戦国といった武家社会の組織、社会のしきたりや生活作法の研究ですが、戦国時代は、現代社会に通じる文化風俗の元を見ることができますし、また手本となる事が多い時代だと思います。
まずは、実力主義だったという点は現代にも共通する部分でしょう。戦国時代以前の室町時代までは、身分が定められていました。重臣の子は重臣に、下級武士の子はどんなに有能であっても下級武士。家来がいくら頑張ったって全部、主君の手柄になってしまう。ところが戦国時代は、皆さんご存知の豊臣秀吉も百姓の出身でしょう? どんな者でも実力次第でどんどん上っていくことが出来た時代です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を始め、英雄もたくさん生まれました。私は日本の歴史の中で、生き方のお手本が得られるのは戦国時代しかないと思うんです。

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戦国大名から教わるものがあるということですか。

二木

幕末にかけて、高杉晋作や桂小五郎といった人物が登場してきますが、彼らは下級武士ですよね。一方、戦国の時代にあって活躍するのは、すべて大名です。それら大名達が現代的に言えば、地区対抗予選から始まって、ブロック予選に勝ち進んで、最後は天下を取ろうという時代です。
もう一つ、現代のあらゆるもの原点は、戦国時代にあるんです。

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原点と言うと?

二木

例えば現在の、特に大きな地方自治体のルーツは戦国時代にあります。大阪は豊臣秀吉、東京は徳川家康、仙台は伊達政宗、福岡は黒田長政、金沢は前田利家といったように、人口十万人以上の地方都市の多くが、戦国大名が開いた城下町であって、それが江戸時代に受け継がれ、今に至ったものです。
現代に連なる日本文化も、室町時代に発達して戦国、特に安土桃山時代に花開いたものが多くあります。「茶道」は、鎌倉幕府三代将軍の源実朝が二日酔いの薬として抹茶を飲んだという話がありますが、当時は法会のもてなしや薬用として一部の上流階級が飲んでいたものです。それが応仁の乱以降、室町時代半ばから足利義政を中心とした東山文化へと受け継がれました。とはいっても、まだまだ特殊な文化人達がたしなむ程度。それが戦国時代に入り、大名達の間に広まっていき、安土桃山時代に登場した千利休によって大成されたんです。
絵師・狩野永徳父子にふすま絵を描かせたり、千利休に茶をたてさせるなど、あらゆる芸術家を集めた場所――それが信長の建てた安土城でした。室町時代の大名は、平常時は平地に住み、戦が起きると山にこもるという生活を送っていたのですが、信長は、生活の場として、政策の場として、平地に巨大な城を建設しました。秀吉の建てた大坂城や伏見城も同じです。更にその城下町には家臣を家族と一緒に住まわせました。

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城下町は、社宅がたくさんあったようなものですか。

二木

そうですね。室町時代までは、重臣大名は自分の領地を持っていて、家族はその領地に住みつつ、主人だけが主君の元に行ったり来たりしながら政治を行っていました。ところが信長は、自身が城を引っ越す度に、家臣を家族ごと移動させて城下に住まわせたんです。これが巨大な都市に発展していきます。
また、現在、郷土芸能と呼ばれるものの多くも、戦国時代に源を見ることができます。例えば秋田県の竿燈(かんとう)は、名君と言われた佐竹義宜のお国入りにちなんで行われたことがルーツとか、阿波踊りは蜂須賀家政が徳島城の落成した際に、領民に好きに踊れと命じたのが起源と言われているんです。

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大名の人物像が浮かんできます。先生は、信長は進取の精神に富んだ人物、秀吉はサラリーマンのお手本のような人、家康は年を重ねての変身が面白いとおっしゃっていますね。

二木

戦国の世を生き抜くために、上に立つ者は失敗を許されません。あまたの武将の中から信長、秀吉が出て来て、それらを受け継いだのが江戸幕府を開いた家康ですね。
私は戦国大名が書いた手紙を随分読んできました。信長は、総数が約1500通、その内自筆は2、3通程度しか残っていません。秀吉は1万通ほどあると言われていますが、自筆のものは約200通。家康は3000通位あり、自筆のものが20通程残っています。学生時代から、そうした手紙を読むのが大好きだったのですが、読んでいくうちに、彼らと友達になったような気分になってしまって(笑)。年代順に読み進めていくと、彼らが何歳の時に、こんな事があって、どんな事を考えていたのかが分かるような気がしてくるし、彼らの生き方が見えてくる。

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信長も秀吉も家康も、判断を誤ったら戦いに負けてしまう、家臣とその家族をも悲劇に巻き込む。絶対に成功しないといけない状況に置かれていた訳ですね。

二木

そうです。信長は49歳、秀吉は62歳、家康は75歳で亡くなっています。
信長は尾張の国、今の愛知県辺りで生まれました。親戚とも折り合いが悪く、弟の織田信行と家督争いをしていたこともあって譜代の家臣がいないという状況で、今川義元との桶狭間の戦いに勝って、一気に世に躍り出た人物です。言うなれば個人商店から10年位の内に日本の3分の1を支配するまでの巨大企業にのし上がったようなものです。信長はそのために、秀吉やその家臣である蜂須賀小六、川並衆といったダーティーな集団も使って美濃を取り、そして上洛に至りました。上洛後は、明智光秀や細川藤孝といった、自分が倒した室町幕府の幕臣達を引き抜き、あるいは新しい人材を登用して、天下の政治にあたりました。年功序列ではなく実力主義。新人だった明智光秀を5万石に取り立てるかと思うと、秀吉に12万石を与えて光秀より更に上に抜擢して競争心を煽る一方で、長年の重臣だった佐久間信盛を高野山に追放したり、領地を取り上げたりもする。使えなくなったら終わり――そうやって力のある者を競わせたのが信長のやり方です。
それに対して秀吉は、百姓の出なので武士の世界に人脈が無い。だから正室である北政所(おね)の親戚や遠縁にあたる加藤清正、あるいは福島正則など、ゲバルト集団を集めて天下を取ったんです。でも、若い頃はそれで良かったとしても、小田原の陣に勝利して天下を取った後、十万、二十万の大軍を動かす行政にあたるには、武器弾薬の輸送、食料調達、あるいは計算能力のある人物しか役に立たない。そこで五奉行と呼ばれた浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以といった、いわば制服組を重用するようになった。だから秀吉の廻りで力をつけた連中というのは、それらに秀でた人物ばかりです。ところがこれが、制服組と背広組、つまり武将派と奉行派の対立を生んでしまう。

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何だか、現代社会でも普通に聞かれる派閥争いのようですが。

二木

そうでしょう。ちなみに、北政所には、福島や加藤といった昔からの武将派がつき、対して側室の淀殿には石田三成や長束正家といった奉行派がついた。だから秀吉が亡くなった時、両派が争っていたために、きちんと葬式をしてもらえなかったんです。

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太閤秀吉が葬式をしてもらえなかったんですか!?

二木

ええ。言ってみれば葬儀委員長と葬儀委員会、更に喪主が決まらなかったんです。秀吉と淀殿の間に生まれた子、秀頼はまだ幼なかったですし、正室である北政所、側室の淀殿、どちらが喪主を務めてもしこりが残る。だから喪主が決まらない。次に葬儀委員長となると、五大老と呼ばれた有力大名のうち徳川家康はまずやらない(笑)。前田利家は、その前年に亡くなっているし、宇喜多秀家はまだ若造だし、毛利輝元や上杉景勝は国元にいるからという理由で決まらない。葬儀委員はと言えば、福島正則や加藤清正は、石田三成、増田長盛らと仲が悪いといったように、残った者に争いが残り、それが関ヶ原の戦いへとつながっていきます。

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秀吉が、何だか哀れに感じられます。

 

二木

そうした世界を見ているから、家康は人事に長けているんですね。家康はかなりの苦労人です。信長の時は、織田と徳川は同盟を結びながらも、徳川があまり強くなったら困るからと信長から長男・信康の自害を命じられ、それでも家康はじっと我慢した。その信長が、本能寺の変で亡くなり、ポスト信長は家康だと有力視されていたにも関わらず、秀吉が明智光秀を討って、どんどん勢力を増していく。家康は、秀吉に黙って頭を下げる訳にはいかないから、小牧・長久手の戦で秀吉と戦って、自分の実力は示し、豊臣政権の客分扱いの重鎮としてうまく収まった訳です。そうやって一目置かれる家臣と思わせつつ、豊臣政権の中で力を蓄えて、関ヶ原の戦いに勝利した後は、秀吉が作った組織ごと江戸に持っていって江戸幕府を開いた。家康は、信長の下でも秀吉の下でも冷遇され、人生の半分を家来として過ごした人物ですから、人間関係の裏を熟知しているし、信長の先見性、秀吉の気配りといった事を学びとってきました。
例えば秀吉は、人を惹き付ける力はあったけれど、自分の親類を重用するなど身内に甘かった。そうした秀吉の優しさや醜さを見ているから、家康は、三河三奉行のように「鬼作佐」と呼ばれた本多重次、「仏高力」と呼ばれた高力清長、「どちへんなしの天野」と呼ばれた天野康景と、厳しいタイプ、温情タイプ、公平で冷静なタイプと個性の違う3人を組み合わせたチームを組織するなど、人の使い方が非常にうまかった。組織運営には、絶対必要な事です。

   

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今の私達と同じと言われた意味が、実感できます。

二木

武将達がどんな時に、どんな判断をしているかを見ていくことで、先を見る力を学ぶことが出来るんですね。関ヶ原の戦いなんて、日本中の大名が、東軍につくか西軍につくか、トップの判断次第ですからね。

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そういう時、庶民はどうしていたのですか?

二木

庶民は戦とは関係ないんです。戦国時代は、要するに、武士と武士との戦いですから、隣の大名が攻めてきたら、百姓は家財道具を持って山の中かどこかに逃げていって、戦争を見物している。「あ、うちの領主さんは勝った」とか「新しい領主さんに変わった」とみたら、どちらにしても山を下りて、新しい支配者に頭を下げる。支配者が変わるだけで、殺される訳でもない。もちろん心情的に良い悪いはあったでしょうが、それ以外に影響はないんです。

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でも野心があれば、戦に参加することもできるというわけですね。

二木

そうなんです。秀吉が侍になれたように、ある程度身分は自由だったんです。ところが秀吉自身が、天下統一後に身分統制令を出して、百姓は侍になれない、侍は商人になれないと、身分を固定してしまいました。

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自分が百姓出身だったにも関わらず?

二木

そうです。公家は朝廷の事をやる、お寺は経を唱えて法事をする、百姓は農地を耕すというように仕事と身分を固定しました。よく知られている刀狩りをして、寺や百姓から刀を取り上げ、更にその土地から移動させないために、太閤検地を行った。誰がその土地を耕しているのか明らかにしたのです。太閤検地は、日本で初めての戸籍と土地台帳となりますが、世界的に見てもイギリスに次いで二番目の早さという画期的な仕事です。平安時代や奈良時代も戸籍は作っていたけれど調べるのは6年ごとでしたし、年貢も稲の束で納めていました。つまり稲穂がどれだけ付いていようがかまわなかった。鎌倉時代になってようやく枡を使って測るようにはなりましたが、枡の大きさが何千種類もあったんです。それを規格化したのも秀吉です。基準となる升を作り、統一した単位によって測量を行い、全国の土地台帳と、郡や村の絵図を提出させたのです。更に大名を「国替え」をして、移動させる事で、領主と百姓の関係を絶つという仕組みも作り、それが江戸幕府の仕組みにも取り入れらたのです。

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大河ドラマの影響がどうしても拭えず、秀吉のイメージも演じた役者さんに負うところが大きいのですが(笑)、秀吉が成したことは、今の私達の社会の基礎になっているものばかり。その功績はとても大きいのですね。でも気前が良かったが故に(笑)、派閥を作る事にもなったりもした。

二木

ええ。だから家康は、前田や島津、伊達といった力のある大名は、独立した自治体としては認めたけれど、辺境の地に追いやってしまった。そうした外様大名には官位を授けるけれども、徳川政権の閣僚には抜擢しない。対して、直轄地(天領)や譜代大名に大大名はいない。一番大きくても井伊30万石で、あとは10万石以下の小大名ばかり。そうした小大名を閣僚に抜擢して、任期中は手当をつけて上げる、いわゆる役職手当ですね。だから3万石の小大名でも老中を勤めている間は8万石もらえる。家康の腹心と言われる本多正信なんて禄高は1万石だったんですよ。でも老中という役職にいたから手当がもらえたんです。

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企業での人事そのものという感じがあります。信長、秀吉、家康の3人をメインにお話を伺うだけでも、感じ入るものがありますが、魅力的な武将というのは他にもたくさんいるのでしょうね。

二木

戦国時代の戦いは、勝てば国が倍になるかもしれないという戦いですから、スケールは壮大です。その戦いに参戦しているのですから、武将達は皆、個性的で、エピソードには事欠きません。例えば毛利元就は、褒め上手。家臣の子供と初めてお目見えするとしましょう。その父親が手柄を立てた事があったら「お前は父親に良く似ている。父のような手柄を立てるだろうな」と褒める。父親に手柄のなかった子には「お前は人物器量が優れている。親を超えて出世するだろう」と褒める。あるいは酒好の家臣には「酒は体を温めるし、気分を良くする。酒は良い」と酒をすすめ、下戸には「餅をやろう。酒は体に良くない」と言って、必ず褒める。

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うまく相手を立てるわけですね。

二木

そうなんです。あるいは武田信玄は、家臣が同じ手柄を立てた時には、まず下位の者に褒美をやるというように、日頃、疎遠になっている者を優遇しました。いつも、金や銀を入れた壷を傍らに置いて、手柄を立てたらその場ですぐ褒美を与えたんです。
人を見る時に「その人の良い所、取り柄を見つけてやれ」と言ったのは家康。こうやって、武将達のしてきた事と、その結果を見ていくと、今に生きる私達も「こういう時、どうしたら良いか」というヒントになると思うんですね。

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先生ご自身も、実生活で武将から学ぶことが多いとお感じですか。

二木

ええ。縁あって、女子学園の校長を務めることになりましたが、元々、私は中学、高校の教員経験はありません。ですが、校長になって歴史から学んだ事が本当に役立っています。組織や人をどう動かすのかという知恵、あるいは教員や生徒に喜びや感動、夢を与える仕掛けを考えるといった時に、天下を取るぞという目標をもって突っ走った信長、秀吉、家康などから学ぶ事はたくさんあります。戦国武将として今に生きている感覚ですね(笑)。

実力主義の戦国時代、武将の人生に今を生きる手本を求めて
二木謙一(ふたき・けんいち)
1940年生まれ。文学博士。国学院大学名誉教授。専門は日本中世史(戦国史)。国学院大学文学部教授を経て、2003年より、豊島岡女子中学高等学校長に就任(現任)。
有職故実研究の第一人者として知られ。現在放送中の大河ドラマ『天地人』を始め、これまで11作の大河ドラマで時代風俗考証を担当。NHK放送文化賞受賞。著書に『徳川家康』(筑摩書房)、『中世武家の作法』『時代劇と風俗考証―やさしい有職故実入門』(共に吉川弘文館)、『戦国武将の手紙を読む―乱世に生きた武将の鮮烈な心状』(角川書店)、『合戦の文化史』(講談社学術文庫)他、多数。
 
●取材後記
学校での歴史の授業は、どうにもこうにも苦痛で年号と出来事がどう頑張ってもアタマに入らない。テストの結果も押して知るべしなのだが、あえて言い訳すれば、今とのつながりが見えず、それが歴史全体でどういう意味を持つのか分からなかったからだ。なのに、先生のお話の面白いことといったら! 秀吉や信長の様子が生き生きと浮かんできた(ただし現代の役者が扮しているのは、ご愛嬌)。
構成、文/飯塚りえ   撮影/海野惶世   イラスト/小湊好治 Top of the page

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