ナビゲーションを読み飛ばすにはここでエンターキーを押してください。
COMZINE BACK NUMBER
かしこい生き方 劇評家 渡辺保さん
何百年も切磋琢磨された歌舞伎の中に人間の叫びを見つける

渡辺

コーナーのタイトルは「かしこい生き方のススメ」だそうですが、芝居を観るというのは、あまりかしこい生き方ではないので、人に勧めたくないんですが(笑)。本当ですよ。

−−

最近、歌舞伎を観る方も増えていますが…。

渡辺

良いことだと思いますよ。ただ歌舞伎に限らす、芝居は私にとっては「業」のようなもの。その「業」を他人には勧められない。例えばフランスの劇作家モリエールは、その死後、教会に埋葬されることを許されませんでした。それはなぜか。他人の人生を商売にしていたからです。映像もそうですが、役者は、ある架空の人物に扮して、それを観客が観る。それは他人の人生をなぐさみものにしているのと同じです。役者は他人の人生を演じることでギャラをもらい、観客はお金を払って観ているわけでしょう? 源義経の恋人に静御前という人が居ますが、それを劇化するというのは、つまり彼女の人生をいじるということですよね。誰かが静御前に扮して、観客がそれを観て楽しむというのは、本人にしたら迷惑な話です。それは基本的には、人間的な感情に反したこと。たとえ架空の人物だとしても、他人の人生を奪っていいと言えますか? だから教会はモリエールの埋葬を許さなかったんです。

−−

「他人の人生をもてあそぶ」ことになるのですね…。

渡辺

だから基本的に、あまりお勧めできないという風には思っているのですが、それにもかかわらず、芝居の魅力にとり付かれてしまうと私みたいになってしまう(笑)。

−−

(笑)。歌舞伎を観たいという一方で、難しそうだという声もあり、歌舞伎の見方や魅力というものをお話いただければと思っております。

渡辺

初めて歌舞伎を観るという時は、まず物語を知ると良いでしょう。どういう話の筋かというのを分かる必要がある。歌舞伎というのは、例えば人間が狐に化けていたり、狐が人間に化けていたりと、よく言えば神話的だし、現代人から見れば馬鹿馬鹿しく思えるような部分もあるかもしれません。けれど、そういうことも含めて、現代とは違う話を持っているところが面白いと思います。それは源氏物語や能など、古典すべてに共通するものですが、描かれている人間像が、現代の我々とは違うセンスを持って生きているという点が大事なのであって、まずそこに興味をお持ちになったら良いと思います。その次に、非常にデフォルメされた造形的な美しさというものがあるでしょう。視覚、聴覚から入ってくるものも面白い。
それらすべて含めて、我々の知らない世界がそこにあるということが一番大事だと思います。知らない世界、それは演目が書かれた当時とは時代が違うのですから、知らないのは当然のことです。今、東京に住んでいても、江戸ははるか昔のことです。例えば今の東神田の辺りは、江戸時代と今とでは地層が数メートルも違うそうです。崖を切り崩したり、火災によって塵が積もったりして、今に至っているわけです。そうした諸々の状況が違えば、今とは違う話や物語が生まれるのは当然ですし、人間像も違って当然です。例えば『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の『寺子屋』の段。松王丸は、主人の若君の身代わりとして我が子を殺しますが、そんなこと今では考えられないでしょう?

−−

慕っている主君のためとはいえ、自分の子を手にかけるという心情は想像しがたいものです。

渡辺

考えられないけれども、なぜ昔の人間がそういうことをしたのかと考えるのは極めて大事なことだと思うんです。考えることによって、人間の変わる部分と変わらない部分が見えてくるし、変わらない部分に突き当たる。今も昔も、親が子供を可愛がることに変わりはなく、けれどそれでも我が子を殺して自分も死ななければならないことが起きるかもしれない。その時に人間はどうするのか…。

−−

物語の面白さ、そしてデフォルメされた造形美とその感覚的な面白さ、更に「なぜそうなったのか」と考える面白さがあるということですね。

渡辺

そうです。ぱっと分かってしまうより「どうしてこうなるの?」と考えるのは面白いことじゃないですか。とても自分には考えられないけれど「どうして?」と考える。その「どうして?」というのが、歌舞伎の面白さだと私は思います。

−−

小さい頃、祖父に連れられてよく歌舞伎を観に行ったのですが、その当時は、何が何だかよく分からなくて、大人になった今は、その理解できない世界は取り除いて観てみようと…。

渡辺

取りのけちゃだめですよ(笑)。自分の方に置いておかないと。その分からないものに対して、「どうして」「なぜ」と考えないといけない。例えば『忠臣蔵』は、仇討ちが描かれています。自分の親族が殺されれば、その仇を討ちたいと思う復讐心自体は、現代人と変わりない。しかしなぜ仇討ちをするために、更なる犠牲を増やして、なおかつ自分も死ななければいけないのか。普通に考えたらやめるでしょう? でも彼らはそうしたわけです。塩冶家の家臣、早野勘平は切腹することになるし、その女房のお軽は祇園に身を売らなければいけないとなる。歌舞伎に限らず、古典というのは常にそういうもので、例えば『源氏物語』の末摘花のくだりを読むと、一度も顔を見たことがない女性の元に熱心に通い、いざ逢瀬が叶って顔を見たら、その醜さにびっくりしたとある。「先に顔を見ておいたらいいのに」と思うんですが、源氏にとっては、顔の美醜ではなく、歌の贈答も含めた恋のプロセスが大事なんだということが分かる。それを知ることが古典としての源氏物語の大事なところで、歌舞伎も同じなんです。物語を知って欲しいというのは、そういう理由からです。そしてそこに人間のどういう「叫び」、それはつまり、何も大きな声で主義主張を言うのではなく、ユーモラスなものだったり、人間の弱さだったり、そこに込められている思いというものを知って欲しい。それが歌舞伎を観る楽しみでもあると思います。一度観て、すべて分かろうとするのは、現代人の悪い癖ですよ。

−−

ご指摘のように、すべて分かろうとしていました。

渡辺

歌舞伎って感覚的なものですから、その虜になると、いくら嫌だ嫌だと思っても抜けられない、逃げられないんですよ(笑)。のめり込むと、いっぺん味わった味をなかなか忘れられなくてやめられない。よく芝居の世界は「血が荒れる」と言うんですが、荒れるに決まってます(笑)。歌舞伎なんて濃厚ですから、もっと荒れるにきまっている。だから芝居は怖いんですよ。

−−

怖いのですか。

渡辺

そうそう。だから芝居なんて観ない方がいいんですよ。

−−

そんな(笑)。最初に戻ってしまいましたね。

 

−−

歌舞伎の役者は、例えば『菅原伝授手習鑑』の菅丞相(かんしょうじょう=菅原道真)役を演じる役者や太夫は、菅原道真が学問の神、「天神様」という信仰の対象であることもあって、舞台に立つ時は肉食を断つなど精進潔斎を行うそうですが、今もそうした儀式を行うのですか。

渡辺

今も多少はしているでしょう。

−−

歌舞伎の舞台では、役者さんの内側から滲み出るような力を感じるのですが、それは現代劇などの役者と違って、生まれた時から歌舞伎役者となるべくしつけられるとか、日々の鍛錬が違うとかいうことから生まれるものなのでしょうか。

渡辺

そうとは限らないでしょう。日本には、歌舞伎、能、狂言、文楽という4つの古典劇がありますが、その4つともに「型」があり、それを基本としています。その「型」が、演じる人間を締め付ける。締め付けられるから反発する。そこにエネルギーが出てくるんです。

−−

「型」ですか。

渡辺

日本に限らず、例えばインドや中国に伝承されている古典劇にも同じく型があります。現代劇は、エネルギーをそのまま表に出そうとするけれども、古典劇の場合は型によって自分の身体が歪められるがために、反発しようとエネルギーが出る。つまり古典劇と現代劇では方法論が違うんです。
例えば女形というのは、男が女を演じるわけですから、演じる男性は身体のどこかを痛めることになります。ヨーロッパでも日本でも、中世までは女役は、皆男性が演じていました。つまり女形だったんです。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』が初演された時のジュリエットも、『ハムレット』に登場するオフィーリアも男が演じていたんですよ。宗教的な理由から、女性は舞台に立つことが許されなかった。そのために女形が演じたわけですが、これも一つの「型」。いや、型というより男が女を演じる、つまり物理的にも身体を締め付けないと演じられないから、それに反発しようとする…だからこそ古典劇にはパワーがあるんです。

−−

舞台の役者がそろって、びしっと形を作った瞬間の美しさも、歌舞伎の魅力の一つですね。これも型のなせることなのでしょうか。

渡辺

「型(かた)」と「形(かたち)」とは違うものです。「形」というのは、その時のポーズですが、「型」というのは、そのポーズも含めてそこまでの手順、そしてそれが決まった時に発するオーラも含めたすべてが「型」なんです。だから形が奇麗だということだけで評価してはいけません。それは上辺の視覚的な奇麗さであって、心の問題まで届いていない。型が生きなければ、そこから人間の秘密は出てこないんです。
たとえて言うなら、西洋音楽の楽譜には、テンポから強弱まで示されていますから、ある程度、誰でも演奏出来ますが、邦楽には基本的に楽譜はありません。日本の芝居にも「楽譜」がないんですよ。能の世阿弥以来「型付け」というのは、確かにありますが、私が型をやるのと、名人がやるのとでは、その差は歴然としているし、まったく意味が変わってきてしまう。型が完璧に演じられた時に、初めて心の問題が浮かんでくる。デザインで言えば、その意図が初めて浮かび上がってくるわけで、その時に「良い型だ」となる。奇麗なだけでは、だめなんですよ。

−−

型は凝縮されたエネルギーだったんですね。

渡辺

そうです。歌舞伎の見どころでもあるし、能の見どころもでもあります。能では「面(おもて)」をつけますね。普段、私達が会話をしている時って、皆表情が違いますし、笑ったり眉をしかめたり表情を出すことも自由ですが、能の「面(おもて)」を着けると、それが押さえつけられます。いわば顔に蓋がされてしまうわけです。しかも面って、目の瞳の部分に錐の先ほどの小さな穴が空いているだけですから、舞台に立っても、客席どころか、自分の足元位しか見えません。

−−

そんなに限られた範囲しか見えないんですか。

渡辺

ええ。だから「蓋」なんですよ。その蓋をされているにもかかわらず、演者は観客に何かを伝えないといけない。だから必死になって、そのハードルを超えようとするから、それがエネルギーとなる。古典劇は、皆そうです。文楽は人形を使いますが、人形は何も語りません。でも何かをコミュニケートしたいから、人形使いは必死になる。人形に自分の気持ちを移そうとするから、それがエネルギーとなる。まして古典劇の世界は、何百年も「いじられて」きたわけですから、そこからもエネルギーが出てきます。

−−

確かに、エネルギーが渦巻いていそうです。

渡辺

だから歌舞伎を観る時に、この芝居の見どころはどこだろうとか、すべて分かろうとかという愚劣なことは考えない方がいい。

−−

「愚劣」ですか。

渡辺

愚劣ですよ。見どころを最初から教わるのは、推理小説でいえば最初から「この人が犯人だ」と教わるようなもの。先日、知人が古本屋で推理小説を買ったら、登場人物紹介のページの名前の一つに「犯人」と書き込みがしてあったそうだけど(笑)。ねえ、ふざけるなと思うでしょう?

−−

面白みが半減します。

渡辺

芝居も同じなんです。見どころ、つまり犯人が誰かと知っていたら、見どころもへちまもない。

−−

とは言いながら、歌舞伎は分かりにくい分、見どころを知りたくなりますけれども…。

渡辺

入門書を読んだり、イヤホンで解説を聞いたり、人に頼らないで、自分の分かる範囲で犯人を探せばいいんです。犯人というのは何も、事件の犯人というのではなく、「どうしてこうなったか」、そのきっかけや理由になったもののことですよ。

−−

歌舞伎は同じ演目が何回も上演されますが、その点では、繰り返し観ることで、新しい発見もありますね。

渡辺

そうです。見る度に発見の度合いが違ってくるんです。一度見て「犯人はこいつか」と分かったとしましょう。二度目に見る時は、その犯人がどこで決心をしたのか、例えばどこで殺意を持ったのだろうと考える。三度目は、いかにその犯人が演技しているのかを見る。そうやって芝居が分かっていくのであって、それが芝居を観るコツです。最初から分かろうとしないことです。だから逆説的になりますが、客に説明しようとする芝居をする役者はだめですね。昔の劇評家が「役者の方から客の方へ愛嬌をもっていくのはダメだ」と言いましたが、歌舞伎に限らず、他の古典劇でも、現代劇でもその通りだと思います。説明的な演技をしないというのは、芝居の鉄則。だけれども、なぜ説明的な演技をするかといえば、客が「分からない」「どこを観ればいいのか」と言うからそうなるのであって、まぁ客が悪いんですね(笑)。

−−

反省します(笑)。自分なりに分かったことを理解して、次はどうなるかと考えることですね。

渡辺

『寺子屋』や『忠臣蔵』を、もう50何年も観ていますが、それによって比較が出来るし、役者によって「こんな風に今まで思ったことはなかった」という発見があったりもします。
最近では、例えば10月に歌舞伎座で上演されていた『義経千本桜』では、吉右衛門が新中納言平知盛(しんちゅうなごんたいらとももり)を、玉三郎が典侍局(すけのつぼね)、富十郎が源義経、段四郎が武蔵坊弁慶を演じています。知盛が入水した後、弁慶が幕外でほら貝を吹く型があるのですが、私は今まで、それが何だか嘘っぽくて、すごく嫌だったんです。知盛が海に飛び込み、安徳天皇と義経がその死を悲しんで舞台から出て行ったのだから、今更、弁慶がほら貝を吹いて悲しまなくてもいいだろうと。けれども段四郎の弁慶を見て、やっと分かった。ほら貝の吹き方が大事だったんですよ。
段四郎は、最初に本舞台へ、次に客席へ、最後にその両方に対してと分けて吹いたのです。そうして三方に向けて吹くことで劇場全体が海になり、海上を渡っていくほら貝の音が、余韻を残しながら知盛への鎮魂となっていく。その情景が浮かび上がってきました。ほら貝を吹くという型を作った人は、これを狙っていたのだなということが、『義経千本桜』を見始めて50年経ってようやく分かりました(笑)。

−−

役者の技量もあったんでしょうか。

渡辺

今まで弁慶をやっていた役者の吹き方がまずかったんでしょう、きっと(笑)。こうして同じ演目でも、演じる俳優が持っている感受性が、観客に別なことを感じさせることもある。だから古典は奥が深いんです。その奥の深い所につかまったら、一生を棒に振ることになる(笑)。

−−

(笑)。歌舞伎では、幕の前の太鼓一つから決まりごとがあるわけですよね。そこまで突っ込むようになったら、本当にきりがないなとは思います。

渡辺

確かに太鼓の打ち方などは決まっていますが、弁慶のほら貝と同じで、名人が叩く太鼓と、それを分からず叩いている太鼓では、その音一つで世界が変わってしまう。その音一つで世界がぱっと開ける。ちゃんと名人が型通り打たない限り、世界が開けない。我々が何べん見ても分からなかった舞台の秘密というのが、その音によって明らかになるんです。

−−

でも、音の秘密が明らかになった、つまり犯人に突き当たったら、またその先があるわけですよね。

渡辺

そうですね。こういう型を作ったのは誰なのか…それは作者の他に、工夫を重ねてきた代々の役者、口出しをした振り付け師…その皆が犯人。ほら貝の例で言うと、ほら貝を吹くということを考えた人が犯人だし、作者も犯人、演じた段四郎も犯人。犯人はいっぱいいるんです。もちろんそんなこと考えないで観るのもいいんですが(笑)、考えたらいいと思う。面白いと思いますよ。

−−

「誰がやったの、これ?」と。

渡辺

そうやって犯人探しを始めたら、芝居を見終わってきてから一日くらいは考えちゃいます(笑)。

−−

もう一つの歌舞伎の入門の仕方として、特定の役者や演目を追いかけるというものがありますね。

渡辺

何だか分からないまま観るよりも、「この人」と決めた人を追うことで、見えてくる世界が絶対にあるはずです。私も学生時代から、随分追っかけをやりました。そもそもの始まりは、評論家の武智鉄二が書いた、各界の名人を選んだ本を手にしたことで、今、思えばその本はかなり独断的でしたが、書かれていた名人を実際に片っ端から見たんです。踊りの井上八千代などもそこに名があった一人で、最初からそのすごさを分かったわけではなく、一生懸命見ようと思ってみているうちに虜になってしまったんです。他も武智さんの挙げた通りだった。だから時には、劇評家の話も信じてもらいたいなと思います(笑)。

−−

これから劇評もこまめにチェックするようにいたします(笑)。ありがとうございました。

型によってしめつけられた人間は、反発するようにエネルギーを発散する
渡辺保(わたなべ・たもつ)
1936年東京生まれ。演劇評論家。慶応義塾大学経済学部卒業後、東宝株式会社に入社。1965年『歌舞伎に女優を』(牧書店)で評論デビュー。東宝退社後は、多数大学にて教鞭をとる。『女形の運命』(紀伊国屋書店、芸術選奨新人賞)、『俳優の運命』(講談社、河竹賞)、『忠臣蔵 もう一つの歴史感覚』(白水社、平林たいこ賞及び河竹賞)、『娘道成寺』(駸々堂出版、読売文学賞)、『四代目市川団十郎』(筑摩書房、芸術選奨文部大臣賞)、『黙阿弥の明治維新』(新潮社、読売文学賞)など、著書、受賞多数。
 
●取材後記
冒頭から「芝居は観ないほうがいいですよ」との言葉に面食らいつつ、お話の中には「だから面白いんです」という言葉が頻繁に飛び出す。ユニークで時には辛辣な渡辺さんの言葉から、どっぷりとはまってしまう芝居というものの魅力がひしひしと伝わってきた。「つまらない芝居を観ていると、こんなことのために俺は生きてきたんじゃないだろうと思う」とか。欧米の劇にも現代劇にも造詣が深く、だからこそ、日本の古典劇である歌舞伎の魅力を伺っても説得力がある。歌舞伎を始め、演劇シーズンに入って、業を深めることになりそうだ。
構成、文/飯塚りえ   撮影/海野惶世   イラスト/小湊好治 Top of the page

月刊誌スタイルで楽しめる『COMZINE』は、暮らしを支える身近なITや、人生を豊かにするヒントが詰まっています。

Copyright © NTT COMWARE CORPORATION 2003-2015

[サイトご利用条件]  [NTTコムウェアのサイトへ]