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もう一つのキーワード「まちの縁側」というのは、会所を設けるといった「縁側」的な装置を実際に提供することに加えて、縁側的発想を持ち込むという意味も持っていますね。 |
延藤 |
物理的、伝統的和風空間である「縁側」というのはメタファー(比喩)でもあって、内と外とがつながり、その場を介して互いの縁がつながっていくという振る舞いを通して、元気をかきたてていく――そういう「縁側」の持っている力を現代地域社会の中に、あちこち広げていこうという思いから「まちの縁側」を提唱しています。 |
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それは地方でも都心でも、人が住むあらゆるまちに必要な考え方ですね。 |
延藤 |
そうなんです。最近、すごく面白いなと思っているのが、長野市なんです。彼の地の社会福祉協議会が主催するボランティアセンターに、3年程前に講演に呼ばれました。その時に参加して下さった100人ばかりの住人が「まちの縁側という発想こそ私たちが求めていた活動である」と膝を叩いたんです。
長野市ボランティアセンターでは、各グループや地域ごとに年間予算を割り振って、地域の高齢者たちに対して集いの場を開くよう勧めていました。そこで年に1回、地域のお年寄りを集めてどんちゃん騒ぎをするところもあれば、月1回茶話会を催すところもあったりと、いろいろやっていたわけですが、どれも多くても月1、2回程の集まり。それに対して、まちの縁側は、日常的に人の出入りがある場です。その実例をお見せしたら「それこそ、未来像だ」と思われたようで、それから毎年「まちの縁側大学」が開かれるようになりました。長野のいろいろな地域に出前に行って「まちの縁側講座」を開いていました。その活動が、昨年位から目覚ましい展開を見せたんです。彼らは「今あるものが、縁側だ」と言い出したんです。 |
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何か新しく作るのではなく、今あるものを縁側として仕立てていくということですか。 |
延藤 |
そうです。例えば、そこにある居酒屋が縁側だという発想です。3、4ヶ月前に訪れた時には、ワークショップを終えて、ある居酒屋に連れて行かれたところ、何と夕方の6時なのに20代の女性から、70代のお年を召した方までがそろっていて、2時間半も歌い続けました。しかもカラオケじゃなくて、全盲のおじさんがアコーディオンで『カチューシャの唄』とリクエストすれば『カチューシャの唄』を弾く、『埴生の宿』と言えば『埴生の宿』を弾く。そうやって歌い続け、おいしいものも食べて、払ったのは1,000円(笑)。 |
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お店は大丈夫でしょうか(笑)。 |
延藤 |
善光寺界隈では「夜のまちの縁側大学」を開いたのですが、偶然にも、長野駅から善光寺までのメインストリートの界隈は、かつて水路の網目がいっぱいあったことが分かりました。その発見を元に、その水路をまちの中に呼び覚ますプロジェクトが動き始めました。水の復活というのはものすごく難しいことですから、行政の協力が不可欠ですが、少なくとも市民の側からプロジェクトを立ち上げて、実現しようと動いている。
あるいは「まちの縁側」のキャラクターマークとロゴを作って、店の看板に刷り込んだり、店の人自らがこの縁側マークを使ったりといった活動もされています。そうやって長野では、まちの探検をしながら、縁側になるような資源を探そう、宝物をまち中からすくい上げて生かしていこうという活動が始まっています。 |
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縁側的発想を、地域の中に浸透させようという活動ですね。 |
延藤 |
長野ボランティアセンターが中心になって進めているのですが、この前聞いたら「まちの縁側5,000カ所を目指す!」と言っていました(笑)。 |
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5,000カ所! |
延藤 |
人口37万の都市で、5,000カ所といったら、1町内に1カ所じゃきかない位、ものすごい数ですよ(笑)。でも元々、長野にはまちの縁側活動が始まる以前から、縁側的発想があったんです。例えば自宅の玄関先を「お休み処」として開放しているお宅があります。病院帰りの道筋で、お年寄りがうずくまっているのを見た方が「どうぞここでお休み下さい」と、玄関先のちょっとしたスペースに、小さな椅子と机を置いて、庭にも入れるようオープンにしたり、敷地の一部にパーゴラを作って「東雲サロン」と名付けて、地域の人に開放している方もいる。
そうした活動は郊外の戸建住宅地でも行われています。郊外の戸建住宅地って、確かに宅地も家もしっかりしているし、立派な生垣を巡らしていたりもしますが、人間関係は希薄なことが多い。事実、東雲サロンを造った、西三才地区にお住まいのご夫婦は、現役の間は忙しくて、地域のことに何ら関われないまま定年を迎え「さあ、これから」と思ってご近所を回ったら、玄関さえも開けてくれないという現実にぶち当たったそうです。「うちの地域ってこんなだったのか!」と。ならば自分たちから開いていこうと、東雲サロンを作り、縁側の発想をもって、「西三才地区寄り合い広場・ボランティアの会」と称して呼びかけていったら、地域の人が段々と心を開いて、皆がやって来るような場に育っていった。気持ちがあれば、つながる仕掛けはいろいろと作ることができる、そういう実例がいくつもあるんです。家の背後に残る雑木林の木を彫って犬を作るおじさんがいて、その犬が何軒もの玄関先に置かれていたり、木彫りのお地蔵さんを作って街角に飾ったり、そういうユニークな表現が、まちのあちこちにある。そこでは住民たちが自分らでお金を出して土地を買って、神社まで作った地域もあるんですよ。 |
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神社ですか?! |
延藤 |
「コミュニティー教」による神社ですね(笑)。 |
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そこまでとは驚きました。不謹慎な言い方かもしれませんが、映画か小説か、現実とはにわかに信じがたい例です。住民自らということは、先生が何かされているわけではなくて…。 |
延藤 |
郊外の戸建住宅地は、全国である時期に一斉に開発が進み、今、一斉に高齢化を迎えています。そうした問題を超えるための仕組みは、住民自らが作っていかないといけないわけですが、僕は、それこそ「まちの縁側」の視点を種まきしただけで、その種があちこちに花を咲き始めた――いや、すでに種をまく前から、住民の気持ちの行動化と驚くべき創意性による見事な縁側活動があって、まち育てが進んでいた地域だと言えます。 |
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犯罪が多いといった、明らかな問題があったわけではなくても、もうちょっと豊かに暮らしたい、どこかでつながりたいという思いが、そうした行動に表れたのですね。 |
延藤 |
長者町でも、2、3年前から、地域の住民の方々と一緒に「まちづくり憲章」を作ろうと呼びかけました、長者町には、街路に緑が一本もないから「緑を増やそう」、16街区あるけれど夜間人口は400世帯しかいないから人を増やすために「マンションを作ろう」といった標語っぽい言葉で語っても、誰も聞く耳を持たないので、短歌を詠もうと提案したんです。そうしたら皆「歌なんて詠んだことない」という。いや難しい話じゃない、皆が集まって、こっちの並びの人は上の句の「五七五」、こっちの列の人は下の「七七」を詠む。それをランダムに組み合わせて、まちへの思いを自由に表現してみようと言ったところ、何と168首も集まりました(笑)。それら168首を16街区のグリッドパターン上にレイアウトして、ただそれだけでは芸が無いので9つのカテゴリーに分けて、代表首を大きく掲載した。例えば「街角で、花を育てて、守りゆく、優しさあふれる錦二丁目」という句があるのですが、実際に、錦二丁目に花屋さんが2軒程出来たり、個人でアーケードの柱に花を生ける女性や若い経営者が現れたりと、詠んだ歌が実際の振る舞いになり始めたんです。 |
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こうして伺うと、皆、あからさまに表に出さなくても、自分のまちは、こうありたいという気持ちを持っていて、更にそれを伝えたいという思いを抱いているものなのですね。 |
延藤 |
そうなんです。人って本当に「表現者」なんですよ。まちづくり、まち育てで大事なのは、人の表現力を引き出し、表現することによって、その土地の住人が何を目指しているかが分かるということ。専門家や行政が描ききれない、あるいは見つけられたなかったことを、表現することによって、互いに共鳴、共感しあって、更なる次の方向性を見いだしていける。そういう意味で、長野の人たちが多様な自己表現をいろいろな場面で行う仕組みと活動を広げているように、僕らもこのまちで、表現することを通してコミュニケーションを深めていこうと取り組んでいます。 |
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自分の周りにあるモノを再発見し、それをどのように表現するかが大事なのですね。 |
延藤 |
ここ長者町は繊維問屋のまちですが、繊維問屋そのものは、時代の流れの中で変貌を余儀なくされています。まちは生き物のようなものですから、底上げするためには、新しい生命力を導入していかないといけない。同時に、その新しい生命力の引き込みの仕掛けを、どう進めていくかを考えていかないといけない。その時に、儲かるか、儲からないかだけにこだわるのではなく、この間の状況の変化を見つめて――まちの人も変わってきているし、まちの外から「まちの会所」を作る我々のような者が来たり、あるいはここは学生たちの学びの場、交流の場にもしているので、そうした若者たちが、まちへの提案をしてくれていたりする。昔からの住人や経営者も意識が変わってきた。人によってまちは変わっていく。厳しい状況にあっても、必ず良いまちの姿が見えてくると、楽観的に期待しています。 |