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かしこい生き方 文化人類学者/僧侶 本林靖久さん

「ずっと続く生という価値観が今の生を善きものにするのです。」

ブータンというアジアの小国が話題になっている。 GNPならぬGNH、つまり「国民総幸福」という概念を軸に 国づくりを行い、世界の中でも最貧国とされていながら 人々には幸福感があふれていることに、世界中から注目が 集まっているのだ。では、ブータンの人々の幸福感の根底には どんなものが隠れているのだろう。長年ブータンの研究を続けている、 文化人類学者でもあり僧侶でもある本林靖久さんにお話を伺った。

INDEX


立身出世するわらしべ長者ではなく ヘレヘレじいさんのように生きたい

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ブータンのGNHについては、日本を含め世界中の人達から関心が集まっています。

本林

ブータンは、ヒマラヤ山脈の東端に位置する国で、面積は日本の九州を一回り大きくした程度です。地理的には中国とインドに挟まれ、隣国はネパールという環境で、ブータンは1972年までほとんど鎖国状態にありました。それでも周辺諸国に及んでいる近代化の波は、当然ブータンにも押し寄せており、その中で、前国王が提唱したのが「Gross National Happiness(GNH)」、つまり「国民総幸福」だったのです。

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私達は、ブータンに桃源郷のようなイメージを持っていますが…。

本林

1960年代から80年代にかけて、ブータンの周辺国を始め多くの発展途上国が近代化に向かっていましたが、結果として、貧富の差の拡大や環境破壊、都市のスラム化などといった問題も出てきました。それを目の当たりにしたブータンは、国の政策としてGNHというスローガンを立ちあげたのです。文化や伝統を大切にしながら、近代化を進めるというものですが、これらが国民に浸透する背景のひとつには、やはりブータンの宗教的世界観があるでしょう。ブータンは仏教国であって「輪廻転生」という概念が人々の中に根付いています。この世界観をよく表すのが、ブータンのGNHを語る時にしばしば引き合いに出されるオグロヅルの保護政策の話です。

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オグロヅルの越冬地である農村に電線を引くかどうか、というお話ですね。

本林

そうです。ブータンのある村に、電気を引くために電線を設置する計画が持ち上がったのですが、その村はオグロヅルの越冬地でもありました。電線を設置すると、ツルの越冬の邪魔になる…というので、政府は設置をやめたのです。開発よりツルの保護を優先したわけです。村人も、その提案を受け入れました。

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村人も、ですか。

本林

画像 ツルと人と電気、大事なのは?ええ。ブータンの一般的な葬法は火葬なのですが、その一帯でも、村人が死ぬと火葬にして弔います。ブータンでは、その時に立ち上る煙は天に上り、そこから舞い降りるのがツルであるという世界観があります。つまり、輪廻転生という概念の中で時間は連綿と繰り返され、ツルも親も知人も他人もすべて同列に大切な存在であって、自分の存在も、他者の存在とのつながり、関係性の中で捉えられているのです。実際に、現地で村人に「電気がなくてもいいの?」と尋ねてみました。すると「あれば便利とは思うけれど、ツルも大事だ」と、言わされているという風情でもなく答えるのです。これは「個」を重視し、「合理主義」を求める近代化とは対象的な考え方と言えると思います。このような、暮らしの底辺に流れる価値観を理解しておかないと、ブータンの幸福論をとらえることはできません。

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さらに言えば、ブータンでも近代化が進んでいないわけではありませんね。

本林

そうなのです。最近は、ブータンの友人とインターネット電話サービスでいろいろ話をしていますが、民主化されてからのブータンでは、皆、インターネットや携帯電話、海外のテレビ放送を自由に観ていて、日本のことも本当によく知っています。だから東日本大震災の際も、テレビを観た友人から「大丈夫でしたか」と連絡がありましたし、いち早く国を挙げて日本のために祈ってくれました。このように、情報はしっかり知っていて、その中で、先進国の良い点も逆にマイナス点もよく見極めていると言えます。
ブータンは、急速な開発によって生じる周辺国のさまざまな問題を見ていたからこそ、先進国のまねをするのではなく、自分たちの国に息付いている自然や伝統的な価値観を最大限生かしながら、ゆっくりと近代化を進めていこうとしたわけです。

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民主化のプロセスも、普通とは違いました。

本林

ブータンは、2008年に初の国民議会選挙が実施されて、国王の主導で民主化が進められました。フランス革命から始まって、民主化というのは必ず庶民、つまり大衆が上の者を倒すという形で行われてきました。ところがブータンのように、国王自らが民主化を宣言したのは世界で初めてだと言われています。さらにはその際、国民は「民主化しないで下さい」と頼んだそうなんです。こんな特異な例はありませんね。

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GNHを軸に、前国王が掲げた基本政策も印象的でしたね。

本林

心の安らぎは、物質的発展のために損なわれてはならないという信念をしっかりと表明した上で、「経済成長と開発」「文化遺産の保護と振興」「環境の保全と持続可能な利用」「よき統治」の四つの分野のバランスを保って近代化を進めようというものです。それが機能したからこそ、ブータンは世界から評価される国となっているのでしょう。
具体的な政策で言えば、例えば、ブータンでは、レジ袋のようなプラスチック袋の使用や販売を禁止しています。一度作ってしまえば自然に還元されず、燃やせばダイオキシンなどが発生し、人体にも悪い影響を及ぼすと分かったからです。国土の60%以上の森林を守ると定めた法律もあります。小さな国だからこそ実現できているという部分があろうかと思いますが、資本主義社会では「これが欲しい」という欲望を満たす財産を得ることが幸せとなるのに対して、ブータン人はもともと「少欲知足」、つまり欲望が少なければ、わずかな財で幸せに暮らせるという生き方を善しとしているのです。

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私達も今、モノをより所にした幸せではなく、精神的な側面を考えるようになっているようにも思います。

本林

少欲知足というブータンの人々の価値観をよく表している民話に「ヘレヘレじいさん」があります。ブータンで古くから親しまれている物語ですが、日本の「わらしべ長者」はご存知でしょう?

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はい。一本のワラを次々と交換して、お金持ちになっていく…

本林

そうです。真面目で正直だけれど、うだつの上がらない青年が、観音様に祈願する。すると観音様から、最初に手にしたものを大切に持っていなさいとお告げを賜る。そうやって手にした一本のワラをアブ、ミカン、反物、馬に替え、しかも長者の娘と結婚して、畑も手に入れ、すっかりお金持ちになったという民話です。ところが、ブータンに伝わる「ヘレヘレじいさん」のお話は、これとはまったく逆なんです。身寄りはないけれど村の人気者のおじいさんが、ある日、畑を耕していると大きなトルコ石を発見する。「これを売ればお金持ちだ!」と思ったおじいさんは市場に向かうのですが、途中で次々と村人に出会い、トルコ石を馬と交換し、その馬を老牛と、老牛を羊と、羊を鶏と交換してしまうのです。

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何だか、不利な交換ばかりですが…。

本林

最後には、楽しそうな歌を歌っている村人と出会って、その歌と鶏を交換してしまうのです(笑)。おじいさんは、その歌を歌いながら帰っていき、その後も村人に慕われながら、貧しくとも楽しく暮らしましたとさ、というお話なんです。ブータンの人は、不利な交換を指して「ヘレヘレじいさんのようだ」と言いますが、それは決してマイナスの価値観で語られているのではありません。むしろブータンの人々は、ヘレヘレじいさんのような生き方に憧れているのです。確かに一見すると不利な交換ですが、モノやお金ではなく、この民話の中のおじいさんのように、人と人とのつながりの中で生きていくことが何よりも幸せであって、自分だけの幸せを求めようとはせず、実直な生き方の中で、他人に惜しみなく施すことが大切だと考えているのです。だからこのような生き方に共感を覚えて「ヘレヘレじいさんのようだ」と、言うんです。

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ブータンの人の幸福感の背景が感じられるお話です。


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周りにあるすべてのものとのつながりの中で ずっと続く生という価値観

本林

我々は、この世で幸せになれなかったら、どうにもならないという思いを持っていますよね。宝くじを買って「当たりますように」と願うのも、「今」のため(笑)。「死んだ後までお姑さんと同じ墓に入りたくない」などと言うのも、現世的な考えです。

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なるほど、日本人にはブータンの人と同じような価値観があるように思っていましたが「お墓は海の見えるところがいい」などと言うのは、考えてみれば非常に現世的なわけですね(苦笑)。

本林

そうなんです。でもブータンには、お墓がないんですね。死後四十九日で何かに生まれ変わると信じられているので、墓を建てて供養する必要がないんです。だからこそ日常の功徳を積む行為が来世への幸福につながるという価値観が伝統的に育まれているのですね。

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それが結果的に現世の幸せにつながっているというのは、興味深い話ですが、日本でもそういう価値観はあったように思います。段々と薄れてしまったのかもしれませんが…。

本林

最初にお話したオグロヅルの話ですが、私が教える大学の授業で生徒に「電気とツル、どちらを選ぶ?」と毎年、質問しているのですが、学生にとっては電気とツルを比較するという概念がそもそも成り立たないので、ブータンの村のことを話しても、ほとんどの学生は「電気」と答えます。では「電気と親だったら?」「電気と友人だったら」「電気と知らない人だったら」。どちらかを選んだら、どちらかはなくなってしまうという究極の選択と言えるのですが、これもまた「電気」という学生が年々増えているのには、考えさせられますね。

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何が幸せかというのは、人それぞれですが、ブータンでは多くの人が幸せだと実感しているのに対して、日本ではどうだろうかというのが、ブータンが注目されているひとつの理由ではないかとも思います。

本林

私は「死を含む幸福」と言っていますが、皆さん「死」とは、絶対的な不幸と思われているでしょう。しかし、私たちは必ず死ぬのですから、どこかで死に向き合うことが必要だと思うんです。死を考えることは、必ず今をいかに善く生きるかという問いに行き当たるからです。そうした世界観は、ブータンの人にしっかりと根付いています。

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どこかで終わってしまうのではなく、ずっと続くということですね。

本林

もう一つ面白い民話があります。昔、ブータンの森に冬支度をするヤツガシラの夫婦が住んでいました。オスは食べ物を集め、メスは巣で食料を整理していたのですが、ある日、メスは誤ってエンドウ豆を一粒、岩の裂け目に落としてしまう。巣に帰ってきたオスは、豆が一粒足りないことに腹を立て、メスを突いて死なせてしまう。そのことを深く悔やんだオスは、せめてメスを安らかな場所に葬ろうと飛び回るのですが、良い場所が見つからず、仕方なく元の巣に帰ってきた時にはすでに春。岩の裂け目に落ちたエンドウ豆は芽を出し、花を咲かせている。そして疲れきったオスは、メスに寄り添うように息を引き取るという話です。この話、日本人の場合「後悔先に立たず」というとらえ方をしますが、この世の行いの結果が、必ずしもこの世で具体的に現れるわけではないという価値観、精神性の中で生きているブータンの人にとっては、オスが悔い改め、メスの死後に取った行動によって、この夫婦は再び出会って、きっと幸せに暮らすことになると考えるんです。つまり、後悔は先に立つのです。

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ブータン人と日本人との、根底にある考え方の違いが感じられるお話ですね。

本林

画像 幸福は数量化できない東日本大震災以降、日本人の価値観も大きく変化したと思います。以前は希薄な人間関係が問題になっていましたが、震災後は「きずな」という言葉が出てきました。自分自身の生き方や価値観が揺らぎ、一体、私たちが思い描いていた幸せとは何なのかと問い直している状況なのだと感じます。ブータンという国を通して、家族や地域社会の大切さを問い直すことにもつながっているのではないでしょうか。
それからもう一つ、最近、GNHを「国民総幸福量」と捉える向きがあります。私もよく「幸福度ってどうやって測るのですか」と聞かれることがありますが、幸福を「量」として数量化するなどということは、絶対に無理です。人それぞれ幸せの形は違うのに「私は96%、あなたは97%」なんて、数量化できないでしょう?(笑)。数量化するということ自体、誰かの尺度で測るということ。それが本当の幸せなのか、一人ひとりの幸せと、どう結び付いているのかと思ってしまいます。

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何でも数値化して比べるという発想から、抜け出せていないということですね。

本林

ブータンでも、経済成長を否定しているわけではありません。周辺国から情報もモノもたくさん入ってきますから、実際のところ、どうやってそのバランスを取るかというのは、これからの課題です。
ブータンは桃源郷ではなく、2大国に挟まれながら、そして西洋化する中で、自分たちの国とアイデンティティを守ろうと模索を続けている国だとも思います。

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人口が少ないと言っても、何も問題がない国というのはあり得ませんね。

本林

そうです。言語政策を取ってみても、悩みはあります。言語というのは、文化や価値観と深く関わるものです。例えば、日本語には、五月雨、霧雨、菜種梅雨など雨を表す言葉がたくさんありますが、暮らしの中で雨を表現することに必要があったからでしょう。文章の作りも同様です。「I have a brother」という英語では、定冠詞の「a」が入って兄弟いずれかは一人しかいないことが分かりますが「私には兄弟がいます」という日本語の文章では、数ははっきりしません。一方、日本語には「私には弟がいます」と言い方がありますが、日本語の「弟」に相当するような単語は英語にはなく、「younger brother」と形容詞をつけなくてはいけないのです。こんな文章一つとっても、言語によって伝えていること、焦点を当てていることが違います。
ブータンでは小学校から国語(ゾンカ語)を除いて、ほとんどの科目が英語で行われています。ゾンカ語で教育をしたかったけれど、ゾンカ語のテキストはないし、先生もいない。仕方なくインドから先生を招いて英語かヒンズー語による授業になってしまうのです。ならばと英語による授業にしたものの、グローバル化が進めば自国語であるゾンカ語が使われなくなってしまう。だから公文書は、すべてゾンカ語と規定しているのです。

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日本では英語教育については言われるものの、日本語がなくなるという危機感はありませんね。

本林

言語が民族のアイデンティティに対して与える影響と、英語ができるメリット双方を理解しつつ、ブータンは真剣に考えているのです。近年、ブータンにも大きなショッピングモールができましたし、1999年まで行われていなかった国内でのテレビ放送は今、インドから配信されるケーブルテレビが許可されて、ブータンの首都ティンプーでは数十チャンネルも観られるようになりました。
それ以前、ブータンを訪れると、時間がゆっくりと流れるのを実感して驚いたものです。ある村を2年ぶりに訪れた時には、前と同じ場所で、同じ服装で、ぐるぐるとマニ車(チベット仏教で用いられる経文の納められている円筒物)を回しているおばあちゃんと会いました。そのおばあちゃんと目が合った時、悠久と流れる彼女の2年と分刻みで動く私の2年と、一体、同じ時間なのだろうかと思わざるを得ませんでした。
今、確かに状況は変化しつつありますが、そんな時にこそ、私たちが持っている価値観を、ブータンを通して見つめ直すことができると感じますし、いろいろな問題を私たちに投げかけてくれると感じます。先ほども言ったように、ブータンにはインターネットも携帯もテレビもあって、情報も豊富にあります。ですから、ブータンが幸せなのは、物が何もないからだという捉え方は間違っています。もちろんブータンを論じる中で、「少欲知足」という考え方は大切だと思いますし、それに気付くことも大事だと思います。しかし、物質的なものを否定するのではなく、それを持った上で、何を見出せるかという方が重要だと思うのです。今ある幸せに気付きつつ、現実に生きている中で、我々は何をしていけばいいのか、日本人は一体何を求めていくのか、ブータンから見出すことができるのではないかと思います。


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本林靖久(もとばやし・やすひさ)

1962年石川県生まれ。大谷大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。真宗大谷派僧侶。現在は大谷大学、佛教大学、大阪大学等講師。1988年に初めてブータンを訪問、以降、継続してブータンを尋ねている。著書に『ブータン スタイルー仏教文化の国から−』(京都書院)、『ブータンと幸福論―宗教文化と儀礼』(法蔵館)など。

●取材後記

ブータンの幸福論は気になるテーマだが、単純に開発を抑制して昔ながらの暮らしをしているから、と片付けることはできないことだろう。一過性のブームのようになるのではなく、情報やモノがいっそう増えていく状況に、ブータンの人がどんな風に向き合うのかは気になるところだし、幸福感が高いという人々の底辺に流れる価値観は、私達にもいろいろなことを教えてくれそうだ。

構成、文/飯塚りえ   撮影/海野惶世   イラスト/小湊好治
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