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かしこい生き方 ミカフェート 代表取締役 川島良彰さん

「コーヒーで世界を変える、僕は本気でそう信じているんです。」

朝に一杯、昼食後にも一杯、そして打ち合わせが終わってほっと一杯。
毎日の暮らしにコーヒーが欠かせない、という人も少なくないだろう。
そのコーヒーを求めて世界中を冒険する「コーヒーハンター」が
川島良彰さん。故郷、静岡でコーヒーの焙煎業を営む家に生まれ、
コーヒーに囲まれて暮らした川島さんは、家業を継ぐべく、
コーヒーの産地に留学。ところが、そこでの経験が川島さんのその後を左右することに…。
コーヒーの魅力、そしてコーヒーでどうやって世界を変えるのか、川島さんに伺った。


「コーヒーは果実」という忘れられている事実――土も日当たりも栽培方法も味を左右する

――

コーヒーについて、深煎りだとかネルドリップがいいなどとは聞きますが…。

川島

それ以上のことを語る人はいないでしょう?(笑)。コーヒーについて、うんちくを語る人はたくさんいますが、皆、口を揃えて言うのは、焙煎や抽出の話ばかり。だから、技術によってコーヒーの全てが決まるような印象が作られてしまったのだと感じます。「どんなクズ豆でも、俺の手にかかればうまくなる」、みたいなね(笑)。でもそんなこと、あり得ません。日本ではコーヒー豆を生産していないので、あたかも工業製品のように扱われていますが、コーヒーは農産物です。比較すると分かりやすいと思うのですが、ワインと同じくらい奥深いものなんです。

――

川島さんは「ワインのように、毎日飲むもの、特別な日に飲むもの、とピラミッドを作りたい」とおっしゃっていますね。

川島

本来、そのくらいはっきりと品質に差がある農作物ですから。

――

世界的には、どうなのでしょう? 産地では状況が違いますか。

川島

逆に、産地の人々はおいしいコーヒーの飲み方を知らないことが多いんです。ワインは、先進国が作って先進国で消費されますが、コーヒーは発展途上国で作ったものを、基本的には先進国で消費しています。つまり、産地と消費国との間に分断があるのです。その点も、ワインとコーヒーとで差があるところだと思いますね。コーヒーはその時々の列強国と共に広がったという歴史があり、例えば、オランダ人はインドネシアに、フランス人は西アフリカとインド洋に、そしてイギリス人は東アフリカにコーヒーを広めました。また宗教も関係しています。イスラム教が広めたのは、アラブの方のコーヒーですし、中南米にコーヒーを広めたのはキリスト教です。

――

そう言われれば、飲み方も違いますね。

川島

そうなんです。でも、それを不思議に思わなかったでしょう? コーヒーに対する無関心というのか、これは日本に限らず、アメリカ、ヨーロッパなど含めたコーヒー業界の抱えている大きな問題だと思います。

――

コーヒーの品質というのは産地によって、それほど違うものなのですか。

川島

同じ農園の中でも、畑によって違います。でも生産者ですら、畑による差別化など想像もしていませんから、各農園で採れたコーヒーは、混ぜられて出荷されているのが、現状です。

――

それは、例えばAという品種と、Bという品種が混ざっていると?

川島

そうです。それだけでなく、品種を顧みることがなかったので、種の交配や絶滅の問題もあります。ただコーヒー、特にアラビカ種は、98%程がつぼみの中で交配するので、純正種がまだ生き残っています。今のうちに種の保存に取り組まないといけません。

――

味の傾向もまた、畑によって全く違うということでしょうか。

川島

例えば、うちの店では、ブレンドコーヒーは、パナマのコトワ農園という大きな農園の2つの畑から、2つの品種をブレンドしたものを指します。それぞれの畑で品種も違うし、日の当たり方も、雨や風の影響も違いますから、当然、同じ農園であっても、2つとも、全く味が違います。
コーヒーでは最高の豆としてよく知られているブルーマウンテン、お飲みになったことありますか。

――

はい。ただ、正直あまり、おいしいと思ったことがないんです…。

川島

画像 どこの畑で採れた豆?ブルーマウンテンは、ジャマイカの東側にあるブルーマウンテン山脈の限られた地域で栽培されるコーヒー豆ですが、山脈の南側と北側の斜面では、まったく味が違います。日や風の当たり方など環境が違うわけですから当然なのですが、今、日本で売られているブルーマウンテンについて、どこの畑で採れたものかたずねても、誰も答えられないのではないでしょうか。
私の店で販売しているブルーマウンテンは、ブルーマウンテン山脈の南側の斜面にある、ジュニパー・ピーク農園の中のPlot 4と呼ばれる畑で採れたものです。農園の中で、一番早く朝日を浴び、日射量が最も長く、午後になるとブルーマウンテン・ミストと呼ばれる霧に包まれる畑で、実の締まった密度の高いコーヒーが採れます。ジュニパー・ピーク農園のコーヒー豆は、他社でも扱っていますが、Plot 4という畑まで限定したものは、弊社にしかないと思います。ブルーマウンテン、本当はおいしいコーヒーですよ。

――

確かにワインなら、種類、畑、収穫の年まで評価の対象になりますね。

川島

お米だって、ササニシキとコシヒカリでは味や食感が違いますし、更に産地によって味が違うでしょう? コーヒーは残念ながら、収穫年、産地、種類をはっきりと示して売られていないので、一般の人は「コーヒーはどれも同じ」と思っている。繰り返しますが、コーヒーは農産物、果実です。ワインと同じく、コーヒーも、同じ畑でも、年度によって味が変わりますし、生豆は、そのままにしてあれば酸化して、どんどん風味が落ちます。新米がおいしいのとも一緒です。ですから、うちでは、全ての豆に収穫年度を付け、新豆の味をそのままキープするために徹底した温度管理をして、空気に触れないよう専用のコーヒーセラーで保管しています。

――

そうやって、コーヒー豆を探すためなら世界中どこでも行ってしまうという川島さんをして「コーヒーハンター」と呼ばれるようになったのですね。

川島

僕がコーヒーハンターと呼ばれるようになったきっかけは、1999年にマダガスカルに絶滅危惧種のマスカロコフェアを探しに行ったことです。これはマダガスカルを中心とするマスカリン諸島以外ではみられない種でカフェインがほとんど含まれないコーヒーなんです。一度飲んでみたかったのはもちろん、種の保全と保護、さらに交配種を作ることによって、低カフェインのコーヒーが作れるのではないかと考えていました。
我々が飲んでいるコーヒーは、植物学的にコーヒーと言われている中の、何千分の1。生産性が悪かったり、まずかったり(笑)といった理由から、飲用されていないコーヒーの方が圧倒的に多いのです。

――

1999年というと、18歳でエルサルバドルに渡ってから20年弱ほど。川島さんがUCCに勤められて、ハワイに駐在していた頃ですね。当時のマダガスカルはどんな所でしたか。

川島

行ってびっくりしました。90年代の半ばくらいまで、入国制限が厳しく、空港には墜落した飛行機の残骸がそこら中に残っている。入国審査も全部手書き。情報統制されているので、持ち込む電化製品は全てシリアル番号も控えられて、出国の際にひとつ一つチェックされるような状態でしたし、街に行ったら首都の街中を牛車がたくさん走っている。タイムスリップしたような気持ちでしたが、とにかく僕はマスカロコフェアが見たい。それであれこれ尋ねたけれど、誰も知らない、聞いたことがないと言うんです。ただ、ある程度エリアは分かったので、とにかく行けるところまで行こうと出発して到着したのが2日後。更にその先は探検隊を編成して、毎日14、5時間、車で移動して――マダガスカルって、南北に長い、日本の1.6倍もある島ですから、ちょっと休憩しては、また車で移動。当時は、インフラがひどくて、道路も凸凹だし、川に架かった橋が壊れたままだったり。いかだを作って、それにランドクルーザーを乗せて川を渡ったりしましたね。

――

「いかだを作って」とおっしゃいますが、そんなに簡単に作れるものですか(笑)。

川島

現地の人達は作り方を知っていますから(笑)。そうやってインディ・ジョーンズばりの冒険をしながら、背丈の高い草木の生い茂ったジャングルの中を歩いて、ようやく見つけたのが1週間後でした。ワオキツネザルがたくさんいましたね。

――

ワオキツネザル!

川島

マダガスカルの固有種です。そうして目的のコーヒーを見つけた時に、同行してくれたマダガスカル人が、僕のことを「You are a coffee hunter」と言ったのです。
それ以前にも、エチオピアのタナ湖に浮かぶ島に、かつてエチオピア正教の修道士たちが植えたというコーヒーがあるという話を聞いて、探しに行ったんです。タナ湖は、ブルーナイルの源流で、スーダン南部でケニア側のビクトリア湖に流れてくるホワイトナイルと合流してナイル川となり、地中海に注ぎます。 やはりタナ湖までの道のりは大変でしたが、現地にすごくきれいな滝があって、あまりの美しさに身を乗り出して見入っていたら、エチオピア人のガイドに「落ちたらスーダンまで行っちゃうよ」って注意されました(笑)。

――

いつ頃のお話でしょう?

川島

もう20年程前の話になりますね。ごく小さな島で、掘っ立て小屋みたいなところで、物々交換でコーヒーをやりとりしていました。ただ、残念ながらコーヒーはあまりおいしくなかった(苦笑)。  おいしいモカ・マタリを探すために行ったイエメンは、すごく印象に残っています。本当に幻想的で、あれは夢だったのかなと思うくらい楽しくて、また行きたくて仕方がないです。イエメンの「モカ港」から輸出されたのでモカコーヒーとなりましたが、その原産銘柄であるモカ・マタリの源流や定義がよく分からないから、とにかくイエメンに出掛けてみたんです。そこで知り合った人に「本物のモカ・マタリを探しに来た」と言ったら、マタリ村出身のマタリさんという人を紹介してくれました。マタリ村の人は、ほとんどがマタリさんなんですが、結局その村が、モカ・マタリの源流だったんです。しかも僕が出会ったマタリさんは、マタリ村の村長の息子さんで、村まで連れていってくれて。

――

すごい出会いですね。

川島

ええ。マタリ村は、海抜2500mの非常に乾燥した高地でした。「こんなところでコーヒーが採れるのだろうか」と思ったら、ちゃんと生えている。そのことに、まず感激しましたし、マタリ村の非常に幻想的な風景も心に焼き付いています。イエメンの政情が不安定で流通に乗らないので、少なくとも今は日本に入ってきませんが、政情が安定したらまたぜひ訪れたい場所ですね。

――

世界中の何千種とあるコーヒーの中で、飲めるものは、ごくわずかだとおっしゃっていましたが、そのわずかなものを求めて世界を回られているんですね。

川島

今、飲まれているものの大部分は、アラビカとカネフォラというふたつの種で、世界中で栽培されています。その他のものは、生産性や味も悪いから、研究所で種として保存されている程度ですし、あるいは、絶滅したり、絶滅するであろう品種です。だからといって、コーヒーがどんどん少なくなっているかというと、そういうわけじゃありません。珍しい品種や市場に紹介されていない品種が、まだまだたくさんあります。あるいは、独自の栽培によってすばらしいコーヒーを作っている生産者がいます。そうしたコーヒーを探し出して、日本に持ってくるのが僕の仕事なんです。


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追求する気持ちが世界をどんどん広げる――コーヒーを通してできること

――

コーヒーをもっと知りたいという気持ちが満たされるところに、どんどん飛び込んでいかれていますね。

川島

小学生の頃からコーヒーを作るところが見たくて、ずっとブラジルに行きたいと思っていました。僕は長男ですから家業を継ぐ雰囲気があって、それなら一度、コーヒーが作られるところを勉強しておきたい、それはブラジル!と単純に思っただけで、今みたいなことになるとは想像していませんよ(笑)。
ところが両親が、偶然にエルサルバドルの駐日大使と知り合ったことで、僕は彼の地に留学するのです。彼が身元引受人になり、彼の妹さんの家にホームステイさせてもらいました。

――

そして、現地のコーヒー研究所に直談判して研修生になりましたが…

川島

僕がエルサルバドルに行ったのは、1975年。18歳の時でした。当時は、すごく平和な地域でしたけれど、その後すぐに内戦が始まって、70~80年代にかけては政情が不安定になりました。恩人である大使も暗殺されるなど、とても辛い出来事もありました。怖い、日本に帰りたいと思ったことはありませんでしたが、地方にあった僕の実験区が反政府ゲリラの支配下に入り、やりたいことができなくなってしまいました。
そこで一時帰国した後、縁あってUCCのジャマイカでの農園開発に携わることになるのですが、そこも治安は非常に悪い。エルサルバドルでもジャマイカでも何度も死にそこなったし、銃も向けられたし…銃声や爆音が聞こえない日は、ありませんでした。それが当たり前になってしまって、感覚が麻痺しちゃったんでしょうね。だから逆に、その後ハワイに転勤した時は、窓に鉄格子が入っていなくて、怖くて最初は眠れませんでした。

――

怖くて?

川島

ええ。それまで、窓やドアに鉄格子があるのは当たり前でしたから。結局そんな生活が、十何年続いていました。でも、自分が選んでやっていることですから、苦と思ったことはないですね。

――

そして日本に帰国され、新しいコーヒーの文化を作ると同時に、コーヒー生産地の技術支援にも携わっておられますね。

川島

画像 コーヒーハンタージャマイカやエルサルバドルも含め、世界的に見てもコーヒーの多くは、発展途上国で作られており、どうしても政治的な影響を受けやすいのです。
例えば、生産地は必ずしも交通の便が整っているところばかりではありませんから、作っても輸出できなくなることがあります。ペルーはかつてコーヒー生産が盛んで、首都リマから東部山岳地帯に入ったチャンチャマヨなど有名でした。けれども1970年代末頃から、反政府ゲリラと政府軍との内戦が山岳地帯で始まったことで、コーヒーの出荷が困難になったのです。ゲリラに封鎖された陸路を避けるため、リマまで空輸で運んでいたこともありましたが、それではコストが跳ね上がってしまう。それで、いつの間にか、ペルーのコーヒー産業は衰退してしまったのです。さらに生産者たちは、反政府ゲリラの資金源となるコカインの原料、コカの栽培を強要されるようになります。生産者もコーヒーよりも、その方がずっと身入りがいいし、生産も楽だからと、コカを作るようになってしまうのです。
今は、コロンビア政府が力を入れて、コーヒー栽培で生計を立てられるようなプログラムを推進しています。そうした動きを、僕はずっと見てきました。
そこで、これから取りかかろうと思っているのが、コロンビアと同じような状況にある、インドシナのゴールデントライアングル――タイ、ラオス、ミャンマーといった地域で、コーヒーに転作し、自立しようとしている生産者の技術サポートです。
ルワンダでのプロジェクトも始まっています。ルワンダは虐殺の歴史を抱えているので、現地の生産者が作ったコーヒーは「涙のコーヒー」という名前で販売されているのですが、僕はそれに違和感があります。「ルワンダのコーヒーはおいしい」、「おいしいから買おう」とならなければ、現地の生産者の自活はないと考えています。
そもそも長い植民地時代が続いた結果、ルワンダの生産者は、労働としての作業しか知らないのです。コーヒーの栽培にしても、例えば、コーヒーを乾燥させる際、乾燥台が50台もあるのに、1台しか使わずに、コーヒーの実を山積みにして乾燥させるから、乾燥に20日以上掛かると言う。普通、コーヒーの乾燥は10日前後です。何台も乾燥台があるのだから、全部使って広げれば、早く乾燥できるじゃないかと言ったら、皆ぽかんとしているんですよ。早く乾燥したらコーヒーがおいしくなる、それによって品質が左右されるということを知らないのです。そういうことを指導しながら、きちんと流通に乗せることまで考えています。そこで長い時間かかるでしょうが、JICAの開発力と現地で活躍する青年海外協力隊員との連携で農民を指導し、JETROにも協力してもらい、流通に乗せ、PRもし、きちんと消費者の手に届くような循環するプロジェクトとして取り組んでいます。 僕は、コーヒーで世界は変えられると信じていますから。

――

コーヒーが本当にお好きなのですね。

川島

よくスタッフに言われるのですが、僕は産地にいる時と、日本にいる時では、顔つきが違うそうです(笑)。産地に行って、農園で働いている労働者や農園主といる時は、本当に楽しいんですよ。言葉が通じなくても関係ありません。皆、コーヒーの話を聞きたくて、一生懸命、僕の話を聞いてくれます。

――

日本では、障がいのある方を支援するプロジェクトにも取り組まれています。

川島

一昨年、福島で障がい者の方が自立できる就労環境を創出しようと、カフェを運営しているアイエスエフネットの方から相談を受けました。現地では、障がい者の方が5人ほど働いていました。みんなすごく元気で、一生懸命やろうとしているのだけれど、障がい者だから火を使わないようにしようとか、コーヒーを挽くのも、淹れるのも、ボタン一つで全自動でできるようにしてある。でも彼らは、応用がきかないことがあるかもしれないけれど、頼んだことは、うちのスタッフよりきちんとやってくれます(笑)。だから、僕が指導するから、一杯ずつおいしいコーヒーを淹れるようにしましょうとお話したんです。去年は、愛知県に、今度は青山に「匠カフェ」という店ができました。

――

障がい者の方に、働く場を提供するだけではなく、一般の方に、いいねといってもらえるようなコーヒー作りをなさっている。

川島

まず、おいしくなくては。「貧しい生産者が作ったコーヒーだから飲みましょう」「障がいのある人が働くから行きましょう」というのは、僕は反対です。大嫌いです。一生懸命環境を守りながら、良いコーヒーを作っている、おいしいコーヒーを淹れてくれる、その品質に対価を払ってもらうようにすることが僕らの仕事だと考えています。消費者の方たちに、僕らはもっともっと働きかけなければいけないと思っています。

――

これからも、より広い視点から見たものに、力を入れていこうという感じですか。

川島

おいしいコーヒーが飲みたい、新しいコーヒーを見つけたい、それだけの気持ちが今につながってきました。だからそうした活動もしながら、コーヒーハンティングは続けますよ。まだまだ、世に出ていないコーヒーが世界中にあるはずですし、それを探しに行く義務が僕にはあると思っています。抽出と焙煎も重要だけど、コーヒーで一番重要なのは、やはり原料。そのことを、もっと分かってもらいたいですね。

――

今度はどこに行こうと画策されているのですか?

川島

ちょっと言えませんけれど、もうある程度、目を付けているところがあります(笑)。今、その現地調査をしているところです。世界地図を見ていると、ワクワクしてきますね。

――

スタッフの方から「川島さん、また、どこか行っちゃった」という声が聞こえそうですが。

川島

いつもそうです(笑)。


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川島良彰(かわしま・よしあき)

1956年静岡県生まれ。高校卒業後、中米エルサルバドルに留学。国立コーヒー研究所に入所してコーヒーの研究に従事。1981年UCC上島珈琲(株)に入社、ジャマイカ、ハワイ、インドネシアなどでコーヒー農園の開発に携わる。2008年(株)ミカフェート設立。日本貿易振興会コーヒーアドバイザー、日本航空コーヒーディレクターなどを務めるほか、世界中を巡ってコーヒーを見つけ出し、マダガスカル島ではマスカロコフェア種、同島の東約800kmにあるレユニオン島では、絶滅したとされていたブルボン・ポワントゥを発見、再生させるなど世界のコーヒー産業に貢献している。著書に『コーヒーハンター 幻のブルボン・ポワントゥ復活』(平凡社)、『私はコーヒーで世界を変えることにした。』(ポプラ社)。

●取材後記

まず、いただいたコーヒーのおいしいこと! 取材を忘れて一息ついてしまう。生産物の質を上げ暮らしを豊かにする農家、おいしいコーヒーを淹れて自活の道を見出す人々、そしておいしいコーヒーに癒される私達。コーヒーへの思いをこんな風に突き詰めていくことで、世界の人を動かして、そしてたくさんの人を幸せにしていることに驚く。なんて素敵な飲み物!

構成、文/飯塚りえ   撮影/海野惶世   イラスト/小湊好治
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