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― 例えば、楽市楽座などでしょうか?

そうですね。その前に信長はまず、利休に触発されて文化を盛り立てます。住宅の建て方を変え、秋田杉や京都の北山杉などを使った床の間を作らせたり、造園技術も発展したりして庭も劇的に変わりました。それによって山林事業、花卉(かき)栽培、それに屋内の調度品に人々の意識を向けさせたことになりますし、画家や書家といった芸術家も一斉に職を得て、それなりの報酬を得られるようになりました。いわゆる雇用の創出と、それから今度は一般市民の消費意欲を高めたことになります。信長の安土時代、続く秀吉の桃山時代は空前の経済の高度成長期です。しかも輸出などはしていませんから、日本人の価値観、物の考え方を変えることだけ、内需だけでそういうニーズを生み出したのです。これは、今から見ても何と卓越した政策でしょう。

― 経済という新しい価値観の台頭を感じ、シフトチェンジしたわけですね。

やりとか、鉄砲とか、刀とか、そろそろそういう時代じゃないぞ、というのが信長の中にあったのですね。これからは経済であり、経営であり、そういう知の力、バランスシートの社会になると感じていたはずです。楽市楽座は規制緩和です。限られた場所ではありますが、誰がどんな商売をしようと構わないと、商人を完全に自由化したわけでしょう。
そして貨幣経済の改革にも着手し、撰銭令(えりぜにれい)を発行しました。質の悪い銭を排除すると同時に、それ以外は銭を選んではいけないという法律です。彼はこの時、1558年の「悪貨は良貨を駆逐する」というイギリスの財政家、グレシャムの法則を知っていたんです。信長の時代はそれでも、また統一貨幣を出せるような組織的な力はなかったのですが、それらの事業は、秀吉に引き継がれ、家康で花開くというわけです。
こういう経済の分野は、石田三成の知恵も貢献していますね。

武力から経済へ。時代の転換

― 三成は、特に経済に明るかったようですね。

童門:石田三成は、秀吉に仕え、経済面で活躍しました。三成は、自分が武道に向いていないことを知っていて、いざ、役立てる時まで機を待っていたのです。
秀吉が大阪城を作った後のこと。台風で淀川の堤防が決壊して水があふれ出してしまいました。大阪城の天守から見ていた秀吉は、すぐに壊れた堤を手当させようと普請奉行を呼ぶのですが、自分の力量を越えていると言って震え上がるばかり。そこで「佐吉はどうだ?」と秀吉が石田三成に水を向けます。
三成は「城内の米蔵から米俵をお借りします」。「米俵をどうするんだ」「今から民が土俵を作っても間に合いません。米俵を土俵の代わりに積みたいと思います」。周囲にいた者は、「大事な米をそんなことに使うとは、三成は気が触れたか」とばかにするのですが、とにかく三成は部下を督励して、米俵を担いでその決壊場所にどんどん積ませます。住民も自分たちのことなので手伝うわけです。
台風が過ぎて、結局、米俵に危機を救われたのですが、三成はさらに民に向かって「村へ戻って、丈夫な土俵を作って来い。持ってきた者に土俵一俵について、ここにある米俵一俵と取り換えてやる」と言うのです。しかも、秀吉の命だと言って、自分の手柄にしようとしないんです。この発想も戦国時代にはなかったことでしょう。
三成はまた、淀川で新しい経済システムを作ります。
淀川には、葦(アシ)が繁茂しています。これは屋根を葺(ふ)いたりする時に使いますが、所有権があいまいで、力の強いならず者が専有して売って小銭を稼いでいたんです。
三成はそうした強い者が力で占有するということではなく、皆の共有にしようと動き出すのです。ただし、それまで、ふんぞり返っていたならず者をいきなり成敗してしまっては波風が立つので、その場所を豊臣家の支配地にして、彼らをそこを管理する役人にしてしまいました。皆で使う葦を共同管理して、皆に公平に販売し、その利益は豊臣家の収入としながら、役人としての給料は支払うという流れに変えたのです。

次ページ ― 大胆な発想ですね。三成の生きていた時代は、国という概念が新しく確立されて変化していく時です。まさしく、信長、秀吉、家康の時代ですね。

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