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本人も気付かない特性を見つけることに努める

― その相乗効果は、周囲だけでなく、当然、2人にとっても、意義のあるものとなったのですね。

幕末にあって、松陰自身は時代が大きく変わっていく空気を感じていたとしても、大名家に仕える人間の多くは、270あった藩という行政単位の内側でしか物事を考えていません。しかし、高杉や久坂は、共に今でいうところのグローバルとナショナルとローカル、つまりグローカリズムの視点を持っていると松陰は感じ、この2人なら、国事、日本国政という視野を持つ人間になれると考えたのですね。

― ゆくゆくは高杉と久坂が、国政について松陰と共に広く議論を交わすメンバーの一員になるという期待も松陰にはありましたね。

そうです。一方では、皆が皆、グローカルの視点があるわけではありません。ローカルの視点で生きる者のほうが多いのです。
松陰は『松下村塾記』といって塾の教育論を宣言した書を著したのですが、ここで松陰は、松下村塾から長州藩、そして日本を改革しようと志を立てました。それにはグローカルな視点を持つ者だけではなく、ローカル、ナショナルの視点を持つ人間も必要です。松陰は、ある者には長州藩の中で生きる技術を模索させるなど、おのおのに見合った役割分担を教えていきました。非常に卓越した教育者であり、改革のリーダーだったといえるのではないでしょうか。

― 松下村塾には、伊藤博文も在籍していました。

松陰は、伊藤博文に「君は他の人にない、周旋の力があるね」と言いました。周旋力というと、複雑に絡まった利害をうまく調整して手数料を取る、というように、あまり良い印象を持たないでしょう? 伊藤も最初は「何、言ってるんだ。俺はそんなことをやるために、ここに来たんじゃない」と不快に感ずるんです。しかし松陰は「周旋という言葉には、例えば国際紛争があったときに、第三の立場に立つ国が両者の話し合いをさせる、そのための場所を用意する、あるいは会議の司会をすることも含まれている」と教えました。「君にその気があるのなら、グローバルな立場に立って、国家間、あるいは日本国内のあつれきやもめ事を解決するような仕事が一番向いているのじゃないか」と諭したわけですね。
結果、伊藤は日本が関与する国際紛争であっせん役を続けました。その点では、松下村塾の中で松陰の教えを最後まで自分の仕事にオーバーラップさせたと思います。松陰が有名になったのは、伊藤博文と山縣有朋が明治年間になって松陰のPRをしたからなのです。
松陰は、こうして本人の能力を気付かせ、それを私利私欲でなく、組織のため、社会のために役立たせよという考えを、周囲に浸透させていきましたが、私は、彼が行ったのは個人のCI、コーポレートアイデンティティーの確立だととらえています。「この友のCI、“売り”はこれだな」と見つけて、「だから君は、他のものを捨てて、この面を中心に育てたら、もっと世の中の役に立つことができる」という方向に導いたわけです。

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