「ものづくり文化の継承と発展」を願い、眼鏡の聖地・鯖江で自社一貫生産体制をとる金子眼鏡株式会社。近年は中国にシェアを大きく奪われ、景気が落ち込む鯖江の中で、価格競争に左右されない眼鏡会社として注目されている。その手腕は、職人技を礎とした確かなものづくりと、常に時代のトレンドを取り入れた企画・製造、流通における独自の改革路線にあった。
ライセンス眼鏡全盛期に誕生したオリジナルブランド第一号
1958(昭和33)年に先代・金子鍾圭氏によって創業された「金子眼鏡商会」からスタートした金子眼鏡株式会社。
眼鏡の世界三大産地と言えば、イタリア、中国、日本だが、日本で生産される眼鏡のうち、実に96%ものシェアを占める一大産地の中心が福井県鯖江市だ。
鯖江で眼鏡づくりが始まったのは1905(明治38)年。先駆者、増永五左衛門が農閑期の副業として着目し、大阪から職人を招き、眼鏡の製造技術を広めたと言われる。その後、職人が腕を競い合うようにして分業化が進み、戦後の高度経済成長期には眼鏡の需要が急増するのに比例して、産地も大きく成長した。その背景にあるのは、効率的な分業体制。これによって大量生産が可能になり、伸びゆく需要に対応できた。
金子眼鏡株式会社は、鯖江を代表する眼鏡会社の1つだが、同社がユニークなのは、分業体制の産地において唯一、プラスチックフレームであれば切削から仕上げまで一貫生産が可能な自社工場を持つ点だ。その目論見や目指す姿は何なのか、話を聞いた。
最初のオリジナルブランド「BLAZE」を経て、同社の集大成ともいえる「金子眼鏡」(写真)が誕生する。
2015(平成27)年にオープンした旗艦店「金子眼鏡店 青山店」には、鯖江の自社工場でつくられた「金子眼鏡」などが並ぶ。
金子眼鏡株式会社の前身は、1958(昭和33)年に先代の金子鍾圭氏が創業した金子眼鏡商会である。その名のとおり、当初はメーカーや大手問屋から全国の小売店へと眼鏡を卸す卸売業(二次問屋)をしていた。当時、競合相手の少なかった北海道や東北地方、千葉県あたりに出向き、注文を取っては商品を納めていた。業態が変化したのは、1980(昭和55)年に先代の息子であり、現社長を務める金子真也氏が家業に携わるようになってからだ。
1986(昭和61)年に金子眼鏡株式会社へと社名も改め、翌年には最初のオリジナルブランド「BLAZE」を立ち上げた。当時、眼鏡業界はライセンスブランド全盛期の頃。自社でオリジナルブランドをつくるという発想は誰も持ち合わせておらず、それは異例の事業展開だった。
当時、一定のライセンス料を支払えば、イヴ・サンローランやバーバリーといったハイブランドとのライセンス契約はどの国や地域でも容易に結ぶことができた。そのためライセンスブランドの眼鏡が爆発的に流行し、その一方で眼鏡会社自身が個性を失う事態を招いていた。こうした状況に疑問を抱いた金子氏は、「自分が本当に良いと思う眼鏡をつくりたい」と考えるようになる。時代の空気を読んだファッション性の高い眼鏡を自ら企画し、地元の職人や工場に製造を依頼した。「BLAZE」はカジュアルなテイストを特徴とするブランドで、ツーポイント(縁なし)の眼鏡を日本で初めてつくったという功績がある。
時を同じくして、東京や大阪で個性ある眼鏡のセレクトショップが現れ始め、これらの店舗に「BLAZE」は受け入れられた。次第に「BLAZE」の眼鏡を愛用する芸能人が現れ、その影響力から全国の小売店にも徐々に広まっていったのだ。こうして、金子眼鏡株式会社は卸売業と企画の両輪で動き始めたのである。