製靴機械導入により伝統の手仕事と近代化が融合
明治時代の大塚商店。煉瓦造りの店舗の裏には工場が併設されていた。
日清・日露戦争の前後で、日本の製靴業は大きく変わることとなる。軍需品である軍靴が大量発注されたことにより、民間業者が量産体制を整える必要に迫られ、従来の手縫い=手工制から機械制へと一気に移行するのだ。しかし、そうした時代の流れのなかにあっても大塚商店は岩次郎氏の手縫いに対するこだわりから、即座に機械化に舵を切ることはしなかった。大量の軍靴を受注する大規模メーカーだったにもかかわらず、それを手縫いでまかなえるほど多くの職人、靴工を抱えていたことも助けになった。
グッドイヤー式製靴機械一式が導入され、製靴業界を牽引する存在に。
機械を操作する際の微調整をはじめ、全工程に職人の手業が加わる。
多くの製靴店が設備を拡大し、機械化を進めるなか、手縫いを貫いた大塚商店。岩次郎氏がそこまで手縫いにこだわるのには、もちろん理由がある。靴づくりにおいて、手工制(手縫い靴)と機械制(既成靴)は、そもそも材料も工程も違う。だが、最も大きな違いは何と言っても履き心地だ。靴のフィッティングは、かかと部分はしっかりと固定されていて、逆につま先部分は指先が自由に動くのが理想といわれる。手縫い靴は、かかととつま先部分の補強のため革を薄くすいて硬化剤を塗り、よりラスト(靴型)に密着するように仕上げる。その作業の一つ一つが職人の手によって微調整され、既成靴では実現できない履き心地の良さを生む。一方、量産の既成靴は標準的な形状でかかと部分とつま先部分がつくられる。足の形は人それぞれ、靴がいかに自分の足にフィットしているかが履き心地の良さにつながるのであれば、手縫い靴のほうが履き心地が良いのは明らかだ。
大塚商店に転機が訪れるのは、1922(大正11)年のこと。アメリカ製グッドイヤー式製靴機械一式の導入だ。ハンドソーン・ウェルテッドと呼ばれる手縫いの製法が機械化されたもので、当時主流だった実用靴向きのアリアンズ式に比べ、履き心地、体裁、耐久力など手縫いと遜色のない靴を製造することができた。手縫いと変わらない履き心地の良さを実現できるーー。これが岩次郎氏を大きく後押しし、ついに大塚商店は機械化へと踏み出す。従来の手工制に加え、グッドイヤー式製靴機械による生産体制が整えられ、伝統の手仕事と機械生産が融合、より生産力を上げた同社は日本の製靴産業の成長を牽引していく。そして、1950(昭和25)年には大塚製靴株式会社と改組し、新たなスタートを切る。