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賢いはたらき方のススメ
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“「肉山」登山”という言葉を知っているだろうか。肉好きなら一度は食べたいといわれる、東京・吉祥寺の本店をはじめとした予約が取りにくい赤身肉料理の名店「肉山」に行くことを意味する。SNSでは肉山登山とその美味しさへの喜びの声を報告する人でやり取りが繰り返され、 その満足感は“登頂”とも呼ばれている。

「肉山」を創業したのが、株式会社個人商店の光山英明社長だ。甲子園でベスト8の成績を収め、中央大学野球部で活躍した元球児。2002年にホルモン酒場 焼酎家「わ」を開業し、以来、手掛けた店は56店舗。すべてを人気店にした凄腕のヒットメーカーである。「“熱意とやめる覚悟”が一番重要」という光山さんの経営哲学、生活様式が変わりつつあるこれからの飲食業への思いを伺った。

あえて、知り合いゼロからスタート

写真:光山英明さん

(上)感染拡大防止対策を行い取材を実施
(下)『わ』で提供される赤身肉

―飲食店を始めようと思ったきっかけを教えてください。

光山:大学時代、中央大学野球部のグラウンドが東京・吉祥寺にあり、3年生になると遊びに行くことができたので、吉祥寺界隈の居酒屋によく行きました。僕らが飲んでいると、「野球部か、これ飲め」といって、お金がなくても瓶ビールがどんとテーブルに届いたりしたんです。それを体験して、こういう優しさが伝わる飲食店をやりたいなと。そして、やるなら吉祥寺と漠然と考えていました。

―地元の大阪ではなく、吉祥寺でと考えていたのですね。

光山:そうですね。ホルモン酒場 焼酎家「わ」を開店した当時(2002年)は吉祥寺界隈には知り合いはほとんどいませんでした。知らない人と店を通してだんだんコミュニケーションをとれるようになって知り合いになっていくのがいい。店をやるならそれが大切だと考えていたんです。

―勇気がいることですね。

光山:地元の大阪には、兄貴もいるし、先輩後輩もいます。そこで店を開けば、知り合いが多すぎて、まるで家でBBQをしているのと変わらない。店がなれあいになってしまう。友人とお客さんとの線引きはしっかり持ちたいと思いました。今はコロナ禍で厳しい状況ですが、そう考えてきたからお客さんとも揺るがずに、負けないで店を続けることができているのだと思っています。

店に“入学”、そして“卒業”。お客さんに甘えない店舗運営

―光山さんにとって、お客さんと友人との線引きはどのようなことですか。

光山:お店というのは、例えば、Aさんというお客さんが3人連れてきた。その3人がまた違う人を連れてきて、広がっていきます。Aさんもまた来てくれる。ただそこで、Aさんと仲良くなって店以外で食事に行くようになると、僕にとってAさんはお客さんから友人に変わります。ここでお客さんを“卒業”してもらうんです。

―“卒業”とは、もう店には来ないということでしょうか。

光山:友人になってからも店に来てくれる人はたくさんいます。ただ店で、お互いに甘えてしまうことがないようにしたいんです。店に入学した人がずっといると、店には知りあいしかいなくなります。そうすると、店で緊張感を出すのが難しくなります。スタッフ側も知っている人ばかりだと、つい甘えが出てしまうことがある。緊張感を持ち続けたいですね。反対に、僕がプライベートで通っている店でも、「僕の店には来ないでね」と言っています。気を遣ってまで店に来るのは違うからです。

―ご自分にとても厳しいのですね。

光山:家が星飛雄馬みたいに厳しかった訳ではないですよ(笑)。個人の飲食店の場合、極端な話では何でも自由にできてしまいます。1週間がっつり働いて結果が出たから、明日から3日間旅行に行きますとか。それも楽しさの一つですが、自分を律するルールが必要。そうしないと店は続かなくなると僕は思っています。

BSE騒動の逆風が思わぬ追い風に、大事にしたのは利益の使い方

―ホルモン酒場 焼酎家「わ」を開店しようとした2002年は、ちょうどBSE(牛海綿状脳症)で、焼き肉店にダメージがあった時期でしたね。

光山:そうですね、BSEの騒動がまだ尾を引いていて、市場は困っていました。だからこそ、質のいい肉を安く仕入れることができたのが幸運だったと思います。当時は、肉の問屋にも「大丈夫?」と言われましたが(笑)。

ホルモン焼きは僕のソウルフードで、煙の匂いも小さい頃から親しんできました。肉の良し悪し、味の違いが分かるから、これならできると思ったんです。それしか考えなかった。

当時、大阪は牛ホルモンの文化ですが、東京は豚ホルモンの文化でした。赤身に対する意識も違う。だからこそ、大阪の文化を東京で広めたいと。でも素人だったのでタレは作れない、それなら塩味でいこう!と。嘘みたいな理由でしたが、当時は塩味の牛ホルモンはほとんどなかったはずで、それが人気になりました。焼酎ブームもありましたが、ちゃんとしたコップで普通の量を普通の値段で飲めるようにしていた点も、お客さんに喜んでもらえました。

―『わ』はオープン当初から順調で黒字が続いていると聞きます。

写真:光山英明さん

『わ』の店内の壁には、著名人のサインがぎっしり書かれている

光山:素人で何もわからないまま店を始め、原価計算も細かくできませんでしたが、単純に店は、カウンター14席だけ。駅から遠いなりに成り立ちそうなギリギリの場所で家賃は10万5000円。近くに6万5000円のアパートを借りて、合計で17万円。家賃と見知った吉祥寺の人通りでこの場所ならできるとは思っていました。

ひとりだし、あかんかったらアパートを引き払ってここで寝泊まりして、仕入れた肉を自分の朝昼晩の食事にしようとまでは考えて頑張りました。

でも口コミで少しずつ、ブームの焼酎だけではなく、牛ホルモンが食べられるということが広がっていき、牛ホルモンの店として認識されるようになりました。深夜3時まで営業していたこともあって、徐々に結果が出るようになり、多少の利益も出た。その利益をどのように使っていくかは常に考えていたんです。

―利益の使い方は?

光山:利益が50万円あったとしたら、そのうち20万円は店の改善に使おうと。例えば、炭火で焼くシステムですが、使っていた箸が短くて、手元が熱くなってしまい使いづらかった。お客さんが焼いて食べるので、箸をもっと長めのものにして、肉を持ちやすいものに変えようとか、一つずつ気がついたところを改善していくために使いました。来てくれるお客さんに感謝の気持ちを忘れないようにするために利益を使うのが常に基本です。

店頭にリアルな日記を掲げ、名刺を配る。
身近なコミュニケーションツールを本気で生かす

―店が工事中の時は毎日通っていたとか。

光山:『わ』の開店に向けて研修をしたいけれど場所がない、エア練習するしかなかったですね。ひまだったので、毎日工事中の店に通っていました。すると、通りすがりの人に「ここには何ができるんですか」と聞かれることがありました。それならば、どんな店ができるのか、書いて外に張り出そうと思ったんです。画用紙に、「ここにはこういう店ができます。こんな人がやります。中央大学野球部のOBです」と書き、店の前に立てかけました。

―それがコミュニケーションのはじまりですね。

光山:毎日、朝9時と夜6時に来て、朝は、「前日にどこでご飯を食べた、開店まで頑張るぞ」というようなことを書いた日記を立てかけました。通りすがりの人が見ていくのが分かったんです。それなら、見てくれる人とコミュニケーションがとれないかなと思い、紙に書いて鉛筆をぶら下げて質問コーナーを設けたんです。

―どのような反応がありましたか。

光山:最初は、「魔王※という焼酎は入りますか」「はい、もちろんあります。1杯税込み500円です」と質問に対して答えを書いて張り出しました。1人目に口火を切るのは難しいですよね? これは実は僕のサクラでした。でもそうしたら、次々と質問が書き込まれていきました。中には酒の卸の営業もありましたね。「あなたのような立場の人は、顔を見せてください。書き込みじゃだめです」と返事しました(笑)。 そうして、オープン前からコミュニケーションが広がっていきました。

  • 焼酎ブームの頃は特に入手困難となっていたプレミア芋焼酎

―オープンしてから欠かさず行っていることはありますか。

光山:店に立っている時は、名刺を配りまくります。名刺は増刷するたびに、裏側に日記や僕がおすすめする大阪の店の情報などを書いています。定期的に変えています。だから、お客さんに「もらったよ」といわれても裏側が違うから見てと。作り方も工夫しました、店に来ているお客さんに配るのだから、店の住所などは必要ないですよね? いらない情報は削って、コミュニケーションをとれる情報を書き込んで渡しています。この名刺を持って大阪に行ってもらえたらうれしいですし、お客さんから反応があるのが楽しいですね。

光山英明さん

沢山の焼酎と並び、緊急事態宣言に伴う注意書きも掲示されている『わ』の店内

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