「投げる精密機械」と称されるほど抜群のコントロール力を誇る投手として、プロ野球界で長く活躍した小宮山悟さん。千葉ロッテマリーンズ、横浜ベイスターズ、ニューヨーク・メッツを経験し、通算117勝を挙げた。また、現役中に早稲田大学大学院、スポーツ科学研究科の修士課程も修了。常に挑戦し続け、球界屈指の頭脳派としても知られる存在だ。2019年1月に母校、早稲田大学野球部の監督に就任し、今度は学生の指導にあたる。「大学受験で2浪したり、まわり道ばかりしてきた」と語る自身の豊かな経験は、実は目標達成に向け、強い信念に裏打ちされた行動であり、成功を模索するビジネスパーソンにとっても学ぶところが多いのではないだろうか。小宮山流「隙のない人生哲学」について伝授していただいた。
まわり道しても苦しんだ分だけ喜びは大きい。その経験が力になる
―早稲田大学野球部監督を務めていらっしゃる現在に至るまでには多くのまわり道をされたということですが、学生時代はどのような時間でしたか。
小宮山:小さい頃から野球選手になりたいという夢を持っていて、たまたま、テレビで中継していた六大学野球の早慶戦を見て、そこから早稲田大学で野球がしたいと思うようになりました。早稲田大学に入学してからはあれよあれよという間に目の前の道が開け歩いてきましたが、振り返ると、最短距離を歩いてきたスター選手に比べたら相当いろいろなところを寄り道してきたなと思いますね。
高校は芝浦工業大学柏高校で、そのまま大学へというのが親の希望だったのに、他大学を受験する選択をしたところからまわり道は始まったのかもしれません。結局、2年も浪人生活をしてそんなに甘いものではないという現実を突きつけられたのですから。
元来、楽天的な性格で、人生は長いから予備校生時代の1~2年はどうってことないと軽く考えていました。その2年間はまったく勉強をせず、ラクなほうに進むように自分を仕向けていた予備校生でした。親に負担をかけているという点ではとんでもない罰当たりですね。
試験間際になってようやくこれはまずいと気づき、それからは人生でそれ以上はないくらいに机に向かい、ラストスパートの集中力はすごかったと思います。まあ、人生をなめていましたね。最初からきちんと勉強をしていればこんなことにはならなかったのですから。しかし、早稲田大学に入学してから人間が変わりました。予備校生時代を知る友人からすると、別人だと言われます。
―予備校生時代を経て早稲田大学に入学したことで、それまでとは違う考え方になったのでしょうか。
小宮山:大学受験で分かったのは、苦しめば苦しむほど喜びは大きいということ。身を持って体験したことで、頑張ることが当たり前になりました。頑張れば報われる、結果がついてくると考えられるようになったのです。早稲田大学に合格した成功体験が、大きなターニングポイントになりました。
「今何をしなければいけないか」を常に考えて取り組む
―早稲田大学野球部では厳しい練習を重ねていたということですが、4年間モチベーションを高く維持するコツはなんでしょうか。
小宮山:野球が好きというところが大きいですね。また、頑張って早稲田大学に入ったという思い、早稲田大学野球部のユニフォームを着て神宮球場に立つことが自分にとってどれだけ大きいものだったか。歯を食いしばりながらも、ちょっとやそっとではへこたれないという気持ちがありました。
2年間の浪人生活後でしたが、実は合格発表の後に当時の安部寮(※1軍の中でもリーグ戦のレギュラー選手のみ入寮することができる早稲田大学野球部の専用寮)にすぐに挨拶にいきました。そして、実際に1年の秋のシーズン終了後に寮に入ることができました。これは相当なハードルで、同時に諸先輩方も含め周りから大きなプレッシャーを感じましたが、レギュラーにふさわしい選手であるべく信念をもって、プレッシャーに負けずに練習を重ねてきました。
―プロ野球選手を目指したのはいつ頃からですか。
小宮山 :野球を職業にできるのではないか、プロになれるのではないかと思ったのは、試合でプロ野球のスカウトの方をちらほらと見かけるようになってからです。プロとして野球で飯を食うんだという気持ちが頭の中に広がり始めてから決めていたのが、決して自分に妥協しないこと。
―具体的にはどのような取り組みをしていましたか。
小宮山 :これをしなくてはというのはノルマ、目安にしかなりません。もちろん、それらをこなすことは重要ですが、自分のなかで納得できるかどうかのほうが重要な位置付けでした。
―1989年のドラフト会議では、野茂英雄選手をはじめ、佐々木主浩選手、古田敦也選手など、その後プロ野球界を代表する選手が多くいた年ですね。
小宮山 :ありがたいことに、ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)にドラフト1位指名をいただきました。そのときは、新聞紙上でいろいろ書かれたこともありましたが、それが嫌だと思うのではなく、注目してみてくれている、もっと頑張らないといけないと前向きに考えていきました。プロ野球は12球団しかない、1位指名は12名だけ。それは相当すごいことです。プレッシャーがかかりましたが、やる気も出ました。
人からの評価は気にしない。常に隙を見せるな
―早稲田大学野球部時代から今も忘れずに守っている掟はありますか。
小宮山 :大学時代の恩師、石井連藏監督から教わった「隙を見せるな」ですね。人からどう評価されようとそんなことは良い。常に隙を見せずに行動していればなんてことはない。ということです。
そして、自己変革の決め手となったのは、「一生懸命」という言葉です。石井さんは、「一生懸命という言葉を使う人間はろくなやつがいない」と説いたのです。毎日必死に取り組んでいれば、ことさら一生懸命なんて気持ちが起きるわけがない。普段から手を抜いているから、今日は一生懸命頑張ろうとなる。それこそ、心に隙ができていることに直結するのです。だから、常にこれ以上できないという思いで何ごとにも臨めと。以来、一生懸命という言葉は使わずに過ごそうと思いました。
―厳しい教えですが、仕事をするうえでも大切なことだと思います。早稲田大学野球部時代は、社会人になるための心構えを蓄えていた時期でもあるのですね。安部寮の玄関に掲げられている「一球入魂」も代々伝えられている言葉ですか。
小宮山 :文字通り、「魂を込めて投げること」です。この言葉は学生野球の父と称される、飛田穂洲先生が、野球に取り組む姿勢を表現した言葉です。今も野球部の精神的な支えで、今の学生たちもこれをしっかりと受け止めて、日々練習をしています。この言葉は、野球以外の仕事にも通じると思います。苦しい時こそ邪念を捨てて目の前の仕事を心を込めてやり遂げることが大切ですよね。