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賢いはたらき方のススメ
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病気や身体的な問題、単身赴任、育児や介護、そして精神的なストレスなどで行きたいところに行けない、会いたい人に会えない人はたくさんいる。それらの課題を、分身ロボット「OriHime」を介して、人と人がコミュニケーションできる環境づくりを進めている吉藤オリィさん。きっかけは自身のひきこもり経験にあった。「“がまん弱い”からこそ、できないことをロボットを介してできるようにしたい」とロボットの開発を続ける吉藤さんが実践する、頑張りすぎない、社会参加、コミュニケーションの大切さについてお話を伺った。

はじまりは、自分を客観的に見つめられたひきこもり経験

―小さい頃から、折り紙や工作が得意だったと伺っています。どのような子ども時代でしたか。

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吉藤:工作や自由に何かを作ることが大好きでした。折り紙が好きになったのは、モノ作りが好きだった祖父から教えてもらったことがきっかけです。小学校低学年の時は、段ボールや折り紙を使っておもちゃを作って、友達と一緒に遊んでいたんです。しかし、小学校高学年になると、みんなの興味がおもちゃではなくなってきました。私は工作は得意でも、ほかの人が普通にできることができなかったり、人と話が合わない、教室でじっと座って授業を受けているのが嫌だったりなど、ほかの人と違うということに悩み、強い劣等感を持っていました。

―3年半ほどひきこもりになっていたというのは、その頃からでしょうか。

吉藤:そうですね。もともと風邪をひきやすかったり、病気がちでした。小学校5年生の時に、最愛の祖父が亡くなったことをきっかけに、それまでの悩みがストレスとなって積み重なり、体調を崩して入院したんです。ますます同級生との距離ができてしまい、少しずつ自分の居場所がなくなっていきました。

中学生になってからも、体調を崩して休むことが多く、登校してもほとんど保健室にいました。いじめもあり、学校になじめなくなっていたんですね。実は、父親が同じ中学で進路指導を担当している熱血教師だったので、父親もいろいろとやりにくかったと思います。父に対して本当に申し訳ない気持ちで、焦燥感や劣等感が増していきました。

私は、なぜ学校に行くんだろう、なぜ好きじゃない勉強をするんだろうって、疑問がたくさん頭の中にあって、その疑問に対して納得できる答えがないと行動できないタイプだったんです。つまり、“がまん弱い”のです。納得しないと先に進めませんでした。それがストレスとなって精神的にも弱くなっていました。

―ひきこもり時期はどのように過ごしていましたか。

吉藤:無力感ですね。寝たままずっと天井を眺めていたり。将来のことを考えると不安になって怖かったですね。人間は想像力があるから未来を考えてしまう。私の場合、未来を考えているとネガティブになっていくんです。自分のことが客観的に見えるようになるとなおさらです。衝動的に命を絶とうとする自分と、それをさせない自分がいて、葛藤していました。誰も味方がいないと思って孤独で。なんとか自分で自分を愛さないといけない、“自分育て”をしないといけないと。とにかく迷惑をかけないように生きていこうと思っていました。

人生が大きく変わったのは、
ロボットがつないでくれた恩師との出会いから

―ひきこもりから抜け出せたきっかけは何でしょう。

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吉藤:一番のきっかけは、母親が「折り紙ができるのならロボットも作れるはず」と、ロボット大会に申し込んでくれたことです。出場した地区大会で優勝し、1年後に大阪で開催されたロボットフェアで各地域の優勝者のトーナメントがあり、参加しました。そこで、会場内を一輪車で走りまわるロボットに出会ったんです。そのロボットに興味を持って、開発者の話を聞いてみたいと思いました。そのロボットを開発したのが、地元の高校の先生、のちの師匠となる久保田憲司先生(※)でした。久保田先生のロボットは画期的で、お話も面白くて夢中になりました。

※久保田憲司先生
奈良県立王寺工業高等学校でモノづくりクラブを指導、“奈良のエジソン”とよばれた人。平成18年度文部科学大臣優秀教員表彰を受ける。

―久保田先生との出会いで変わられたのですね。

吉藤:久保田先生に弟子入りすれば、道が開けると思いました。そこからは久保田先生がいる奈良県立王寺工業高等学校をめざして必死に勉強しました。目的ができると何のために勉強をするのかがわかり、力を発揮できるんだと気づいたんです。人生で一番勉強をした1年間だと思います。

―どのような高校生活でしたか。

吉藤:やりたいことができるのが楽しくて、毎日ロボット開発に没頭していました。でも、人とのコミュニケーションは苦手だったので、工業高校を卒業したら、町工場の職人になろうと思っていたんです。人に迷惑をかけずに自立して自分を活かせる方法は、職人に弟子入りして黙々と何かを作り続けることだと思っていたんです。でも、チャンスをもらいいろいろな出会いがあって、今があります。

―いろいろな出会いのなかで今につながるきっかけとなったのは?

吉藤:アメリカで開催されたインテル国際学生科学技術フェア(ISEF)に、日本代表として出場したことです。久保田先生が率いる開発プロジェクトに参加して、車いすを開発しました。この車いすは人が乗れるロボットで、オープンカーのような形をしています。プログラムで動かすことで、乗ったままの状態で思い通りに動かすことができます。改良を重ねて、高校2年生のときに、高校生科学技術チャレンジ(JSEC)に参加したんです。このコンテストで文部科学大臣賞を受賞し、翌2005年にISEFに日本代表として出場し、3位に輝きました。ISEFは科学技術を志す高校生のオリンピックのようなもので、世界80以上の国や地域から1800人ものファイナリストが集って、研究を発表します。

―とても大きなチャンスですね。世界の高校生たちとの集いはいかがでしたか。

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吉藤:みんな自信に満ちあふれていて、「僕はこの研究のために生まれてきたんだ」と言う高校生がいたんです。それはリップサービスかもしれませんが、そんな価値観に初めて触れて、使命感を持っている高校生がいるんだということに驚きました。宇宙の話を延々としている人とか、オタクがたくさんいましたが、とてもうらやましく見えたんです。会場には、2002年にノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊先生もいらっしゃって、小柴先生はじめ、科学者の方たちがとても楽しそうだったのも大変印象に残っています。
それは、私が今まで会ってきた大人とは違い、いきいきとしていました。

―世界観が変わったんですね。

吉藤:やりたいことを続けている人になりたいと思いました。みんな違っていいんだと。3位に選ばれたことで自信は持てたのですが、私は、ほかの国の高校生のように、「車いすの開発を死ぬまでやる」といえるのかと考えてしまいました。肯定感が持てなかったんです。後付けでもいいから、“この開発のために生まれてきた”といえるものを探したいと思いました。

―帰国してから進む道は変わりましたか。

吉藤:メディアで紹介されるなどして知られるようになると、「こういう車いすを作ってほしい」とか、「こういうものは作れるだろうか」などの悩み相談を受けるようになりました。それまで社会は完成されているものだと思っていたので、高校生に相談するくらい、世の中って完成されていないんだと知り、自分でもできることがあるかもしれないという気持ちが湧き上がってきました。ISEFをきっかけに出会いが広がり、高校卒業後は高専を経て、早稲田大学に入学することになったんです。

次ページ “孤独の解消”をテーマに。 できなかったことこそ、未来につながる価値がある

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