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「童神(わらびがみ)」という曲をご存知だろうか?沖縄の子守唄としてこれまで多くの歌手にカバーされているが、今回紹介する沖縄民謡歌手の古謝美佐子(こじゃみさこ)さん(以下、古謝さん)の楽曲が原曲である。古謝さんの情感豊かな歌声は、沖縄方言が分からない聞き手の胸にも染み入る。沖縄民謡をこよなく愛する生来の歌手であり、まさに天職といえる。国内はもちろん海外公演をするようになっても、生まれ育った沖縄を拠点に活動を続ける古謝さん。ご自身は「歌を仕事と意識したことはない」というものの、だからこそ、「今も新たな階段を登っている最中」と語られるほどストイックに好きな道を探求し、「生業」とするまでに至った生き方は、これからのビジネスパーソンにとっても、自身の仕事との向き合い方や生き方のヒントとなるだろう。

「理屈抜きで好きなこと」を極めればそれが自分の強みになる

―沖縄音楽グループ「ネーネーズ」のリーダーを務めるなど、国内外で活躍された経歴をお持ちの古謝さんですが、本格的にプロとして活動を始めたのはいつ頃ですか?

古謝:初めてレコードを出したのは9歳のときですが、初舞台は幼稚園に通う前だから、もう60年ぐらい歌っていますね。物心つく前から、とにかく歌と踊りが大好きでしたので、歌を仕事と思ったことはないんです。今64歳ですが、沖縄では初めて会う人から「こんなに若い人だったの!」と驚かれます。長い間歌っているものだから、もう70歳か80歳だと思われているのでしょうね(笑)。

―沖縄の民謡歌手として、沖縄の方には広く名前が知られていたわけですが、歌い始めたきっかけはどんなことでしたか?

古謝:沖縄芝居です。私が幼少の頃は、娯楽といえばテント小屋で上演される沖縄歌劇くらい。幼すぎて記憶にないのですが、叔母が毎日のように1歳半ぐらいの私の手を引いて通ったそうです。毎日観ているから、セリフも歌もすっかり覚えてしまって、2、3歳になると役者さんより先にセリフを言ったり、一緒に踊り出したりしていたそうです。

―理屈抜きで歌が本当にお好きだったのですね。「仕事」と意識されていなくても、まさに天職ではないでしょうか。

写真:古謝美佐子さん

古謝:ただ、母は私が歌を歌うことに大反対でした。当時、沖縄民謡のような芸能をやる人は「遊び人で仕事をしない」と見下される存在だったのです。そもそも「沖縄民謡は男のもの」という時代でしたから、伝統楽器の三線も「女や子どもが触れてはいけない」とよく叱られました。それでも隠れて弾いて遊んでいたのですが…。幼稚園のころでしたが、見つからないように、三線を拭いてから木箱にしまう知恵もつけました(笑)。
 沖縄では家に親戚などが集まって宴会をするとき、景気づけに民謡を演奏する男性たちが、座敷の前のほうに陣取っているんです。私はちゃっかりその隣に座って出番を待っている。「このおじさんたちの次は、私が歌う番」と思っているわけです。それも母には叱られましたけれど、とにかく人前で歌うのが大好きでした。小学生の頃には、お祝いの席に呼ばれるようになり、朝・昼・晩と別の会場を掛け持ちして歌っていました。

歌を通じて育んだ縁が仕事のきっかけを運んだ

―中学生になると民謡クラブに歌手として出演されていたということですが、歌手生活と学校を両立していたのですか。

古謝:高校生まで民謡クラブで歌っていましたが、やはり仕事という意識はありませんでした。
母は、私が高校を卒業したら会社に勤めて事務仕事でもしてほしいと思っていたようですが、私にそんな気持ちはまったくなくて(笑)。卒業後すぐに民謡クラブで本格的に歌手として歌い始めました。

―そのあとご結婚されて、お子さんも生まれて、生活に変化が訪れましたね。

古謝:結婚後も歌っていたのですが、2人目の娘ができたころ、夫に「歌は辞めて専業主婦になってほしい」と言われました。ずいぶん悩みましたけれど、1年ぐらいは辞めていた時期があります。その時は、髪も短く切ってしまいました。

―沖縄民謡を歌う時は、髪を結って琉装ヘアにしなくてはならないのですよね。ということは、髪を切るのは勇気がいることではなかったかと思います。

古謝:ええ。髪を切ったら歌えなくなります。それなりに覚悟したのですが、三線の音が聞こえると胸騒ぎがして、居ても立ってもいられなくて…。
 ある日、歌の先生が家に来て「髪もこれだけの長さがあればピンで留めたら結える」と言うので、いよいよ我慢できなくなって、また歌い始めてしまいました。その時の夫とは11年間生活したんですが、結局、私は人生で歌を選んだのです。

―お子さん2人を抱えて、大きな決断だったと思いますが…。

古謝:歌が歌えないのは、我慢とストレスの多い生活でした。私がそういう状態で暮らし続けるよりも、やりたいことをしたい、子供たちにも両親のいさかいを見せたくない、との思いもありました。
 人生で歌を選び離婚したら、気兼ねせず「歌って」と言えるようになったからか、いろんな人が声をかけてくれました。歌い手がほしい時に私を思い浮かべてくれる人たちがいたことは、本当にありがたいですね。福祉関係の仕事をしていた古い知り合いが、「慰問で歌いに来てくれん?」と誘ってくれたのもあって、あちこち歌いに行きました。彼はもう亡くなりましたが、つないでくれた縁はまだ続いていて、今もいろんなところに慰問で出かけています。

―幼少期からずっと歌を続けてこられて、だからこそ、いったん歌をやめた後もそういったご縁に恵まれたのでしょうね。それでも、離婚した時には歌を生業にできるという確信はなく、保険として他の仕事も考えたことがあるとか。

古謝:私は、会社勤めをしたこともなく、歌うことしかやったことがありません。ですが、子供を2人を抱えて「喉が潰れたらどうしよう」という不安はありました。それで考えた挙げ句、車の運転ならできると思って、タクシー会社に勤める同級生に問い合わせたら「二種免許があれば雇うよ」と言ってくれたんです。他に何もできないんですけど、車が大好きで、出かける時はいつも友人を乗せて私が運転するほどなのです。
 いざというときのための保険ですから、集中しました。教習所では、たった20日間で自動車二種免許を取ったんですよ! おかげさまで、今まで使うことはありませんでしたが、今でも免許更新しています。

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