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坂本龍一さんとの出会いが新たなキャリアにつながった

―30歳で離婚された頃、歌のキャリアにも転機が訪れますね。

古謝:私にとても大きな影響を与えたのは坂本龍一さんです。当時の私は、坂本さんもYMOも知らない。本土の音楽なんて何も分かりませんでした。親が戦争を経験しているから、小さい頃からヤマトンチュ(本土の人)は口がうまくて沖縄の人をだますと教え込まれてきたんです。親の言うことは絶対だったので、そう信じていて、沖縄方言ではない標準語の民謡さえ「ヤマトンチュに媚びる必要はない」と、頑なに歌わなかったくらいです。

―そういう強いポリシーがありながら、坂本さんのプロジェクトに参加されるのは、勇気が必要だったのではありませんか?

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古謝:「坂本龍一という音楽家が、女性3名の沖縄民謡歌手を探している」と音楽仲間から声がかかって、1曲レコーディングするだけならいいか、とその話を受けたんです。地元の人気バンドにボーカルとして参加していたことから、民謡以外のミュージシャンとも交流があった時期で、そのつながりから舞い込んできたオファーでした。東京で1曲だけレコーディングしておしまい、というつもりで行ったんですが、録音した曲を聞いた坂本さんから「もう1曲歌ってほしい」と言われて…。それで歌った曲が『NEOGEO』というアルバム(1987年発売)のタイトル曲になったんです。

―キャリアとしては急展開ですね。

古謝:そのレコーディングを終えて沖縄に戻ったら、坂本さんのスタッフから電話がかかってきて、「国内ツアーが決まりました」と言われたんです。公民館で民謡を歌ったり、飲食店で島唄を歌ったりしている私たちには、「ツアー」と言われても、ぴんとこなくてきょとんとしてしまいました。「何を言ってるんだろう?」と思って、一度は断ったんです。そんなつもりでレコーディングを引き受けたわけじゃありませんでしたから。地元の仲間から声をかけられて沖縄民謡を歌いに行っただけで、坂本さんと何かしたかったわけではないんです。

―坂本龍一さんのオファーを断ったわけですね。

古謝:いろいろ話し合っているうちに引くに引けなくなってしまって、ツアーに参加したのですが、結局その体験が、歌にも私自身にも大きな変化をもたらしました。
 一番変わったのは、ヤマトンチュに対する偏見が、鎖がボロボロと外れるように消えたことです。坂本さんやスタッフの皆さんと一緒に仕事をしてみて「なんだ、みんな(ヤマトンチュも)同じ人間じゃないか」と、そんな当たり前のことに30歳を過ぎてようやく気がついたんです。

―坂本さんと出会ったことで、音楽的には何が変わりましたか。

古謝:音楽の中味が変わるということはありませんが、知らないことだらけだったから、新鮮で楽しかったです。民謡には拍子や小節という概念がないし、「アンコール」が何のことかさえ知りませんでした(笑)。でも、坂本さんは私たちの自由にやらせてくれました。自分の持ち分である曲のアレンジはきっちりやるけれど、歌の部分には一切干渉しないんです。坂本さんが作った曲に乗せ、自分たちで選んだ民謡を沖縄言葉のまま歌ったのですが、私たちの音楽を尊重してくれる方でしたから、やっていて楽しかったですね。
 ただ、何小節とか分からないから、レコーディングもツアーも「歌い出しは絶対に合図を下さいね」とお願いして、坂本さんご本人から合図をいただいていました。まったく興味がなかった本土の音楽、それもテクノポップというジャンルとコラボレーションしたことで、私自身の視野が広がりましたね。坂本さんも何か感じてくださったみたいで、その後もご縁は続いています。

―その時の女性歌手たちと『ネーネーズ』を結成したわけですね。

古謝:ネーネーズも楽しかったですよ。アジアやハワイでレコーディングしたり、いろんなメディアの取材を受けたり。でもリーダーでしたから、不本意なこともありました。多分、仕事をしていたら誰もが直面するような問題だろうとは思いますけれど。

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